社会人2年目、25歳の話です。
俺は中目黒のIT企業で働いてて、毎朝7時48分の東横線に乗って渋谷まで通勤していました。学芸大学駅から乗って、渋谷まで2駅。たった6分ぐらいの通勤時間なんだけど、その6分に俺は毎朝ちょっとした楽しみを見つけてしまった。
4両目のドア横、いつも同じ位置に立ってる女の子がいたんです。
身長は160ちょいぐらい。ショートボブで、永野芽郁をもう少しだけ大人っぽくした感じ。丸い目がすごく印象的で、でもどこか知的な雰囲気もある。いつもトートバッグにノートPCらしき四角い膨らみがあって、片手で文庫本を読んでた。
最初に気になったのは、その本のタイトルだった。
カミュの『異邦人』を読んでて、(へえ、電車でカミュ読むんだ)って思ったのが始まり。次の週は安部公房の『砂の女』。その次は村田沙耶香の『コンビニ人間』。なんていうか、選書のセンスが気になって、毎朝チラッと表紙を確認するのが日課になった。
完全にストーカーじゃん、って自分でも思ってたけど、6分だし、見てるだけだし、まあいいかと。
俺のスペックを言っておくと、身長172、体重63。顔はまあ…友達には「雰囲気イケメン」って言われるけど、それって要するに雰囲気でごまかしてるってことだよね。メガネかけてるし、髪はいつもワックスで適当にセットしてるだけ。大学は早稲田の理工で、そのままIT企業に入った典型的な理系コミュ障です。
彼女は2年いない。最後の彼女とは大学4年の秋に別れた。理由は「一緒にいても楽しくない」って言われたから。まあそうだよな、デートの行き先がいつもブックオフと神保町の古書店だったし。
そんな俺が、電車の中で女の子の読んでる本を盗み見てニヤニヤしてるわけです。キモいよね。自覚はある。
ある金曜日、いつものように4両目に乗ると、その子がいた。今日は何読んでんだろ、とチラッと見たら――
川上未映子の『乳と卵』だった。
(渋いな…)と思いながら目を逸らそうとしたとき、目が合った。
一瞬だった。0.5秒もなかったと思う。でもその0.5秒で、彼女がふっと笑ったのが見えた。
(え、今笑った?)
心臓がドクンってなって、俺は慌ててスマホに視線を落とした。画面にはSlackの通知が3件。何も読めなかった。
渋谷に着いて降りるとき、もう一回だけ見た。彼女はもう本に目を落としてて、何事もなかったみたいだった。
(気のせいか…)
でも気のせいじゃなかった。
翌週の月曜日。いつもの位置に立ってると、彼女が乗ってきた。トートバッグの中から文庫本を出す。今日はなんだろう、と思って自然に目をやった瞬間、彼女がこっちを見て、わざとらしく本の表紙をこちらに向けた。
筒井康隆の『時をかける少女』。
(見せてきた…?いや、たまたまか?)
でも彼女はまたふっと笑った。今度は0.5秒じゃなくて、ちゃんと笑ってた。
やばい。バレてた。毎朝タイトル盗み見てたの、完全にバレてた。
顔が熱くなって、でも目は逸らせなくて、俺も思わず笑ってしまった。彼女がさらに口角を上げた。
渋谷に着いて、ホームに降りる。いつもなら改札に向かって早歩きするのに、その日はなぜか足が遅くなった。
(話しかけるか?いや無理だろ。電車で声かけるとか不審者じゃん)
結局、何も言えずにそのまま会社に向かった。
でも次の日もその次の日も、彼女は表紙をチラッとこっちに見せるようになった。まるで「今日はこれですよ」って報告してくるみたいに。火曜は恩田陸の『夜のピクニック』、水曜は『博士の愛した数式』、木曜は――
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』。
(いや重いな急に)
思わず吹き出してしまって、彼女も声を殺して笑ってた。
金曜日。意を決して、俺は鞄から自分の文庫本を出した。普段は電車でKindleしか読まないのに、わざわざ前日の夜に本屋に寄って買った。
伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』。
彼女と同じように、さりげなく表紙が見える角度で持った。チラッと見ると、彼女が本のタイトルを確認して、にこっと笑った。OKサインが出た気がした。
渋谷駅のホームに降りて、改札に向かって歩く。彼女も同じ方向だった。
(今だ。今しかない)
「あの」
声をかけた。自分でもびっくりするぐらい普通の声が出た。
彼女が振り返る。近くで見ると、肌がめちゃくちゃ綺麗だった。ファンデーション塗ってないんじゃないかってぐらい。
「あ、本の人」
(本の人…?)
「えっと…毎朝、本のタイトル見てたの、バレてましたよね」
「うん、結構前から。2ヶ月ぐらい前?」
2ヶ月。俺が盗み見始めたのとほぼ同時期じゃん。
「すみません、気持ち悪いですよね…」
「ううん、嬉しかった。私の選書に興味持ってくれる人がいるんだって」
笑顔がやばかった。永野芽郁に似てるって言ったけど、笑うともっと柔らかい感じになる。目尻がくしゃってなるタイプ。
「伊坂幸太郎は、あの、読んだことあります?」
「大好き。『ゴールデンスランバー』が一番好き」
「マジですか、俺も。ていうか趣味合いすぎません?」
「ふふ、だって私、途中からあなたが好きそうな本を選んで読んでたから」
(……は?)
「え、それって…」
「あ、改札。じゃあ私こっちなので」
そう言って、田園都市線の方に消えていった。
(いやいやいやいや。今の最後の一言。「あなたが好きそうな本を選んで読んでた」って何?)
会社に着いてもずっとそのことを考えてた。仕事中にSlack見ても頭に入らない。チームリーダーの田中さんに「お前今日ぼーっとしてんな」って2回言われた。
翌週の月曜日。俺は鞄に2冊の本を入れて電車に乗った。
1冊目は村上春樹の『ノルウェイの森』。これを見せた。彼女は見て、ちょっと眉を上げた。
「ベタだね」
初めて電車の中で声を出して話した。小さい声だったけど。
「じゃあこっちは?」
2冊目を出した。町田康の『告白』。
「あ、それ読みたかった。貸して」
「いいけど、返してもらわないと困る」
「じゃあ連絡先教えてよ」
(この子、すごいな…)
自分から言おうと思ってたのに、先を越された。LINEを交換した。名前は「ゆい」。駒場の東大の大学院生で、比較文学を専攻してる22歳だった。
(東大…?マジで…?)
LINEのやりとりが始まった。最初は本の話ばっかりだった。
「町田康読んだ。ぶっ飛んでた」「でしょ」「あの文体で400ページ持たせるの狂気」「褒めてる?」「めちゃくちゃ褒めてる」
だんだん本以外の話もするようになった。ゆいは岡山出身で、東京に出てきて4年目。一人暮らしで、都立大学駅の近くに住んでるらしい。通学で東横線に乗ってた。
「ねえ、今度本屋行かない?」
LINEを交換して10日目ぐらいに、ゆいからそう来た。
「行く。どこ?」
「代官山の蔦屋書店。あそこ好きなんだ」
土曜日の14時に待ち合わせた。
ゆいは白いブラウスにデニムのワイドパンツで来た。初めて私服を見た。電車の中ではいつもリュックかトートバッグにパーカーみたいなラフな格好だったから、なんか新鮮で、ちょっとドキッとした。
鎖骨のラインが綺麗だった。そこに細いネックレスがかかってて、やたら目がいった。
(いや鎖骨見すぎだろ俺)
蔦屋書店の中を2時間ぐらいうろうろした。お互い気になった本を見せ合って、感想を言い合った。
「これ知ってる?多和田葉子」
「名前は知ってるけど読んだことない」
「じゃあこれ、私が買ってあげる。読んだら感想聞かせて」
「え、いいの?じゃあ俺もなんか買うよ」
「じゃあ…柴崎友香の『春の庭』」
「了解」
本屋デート、最高だった。こんなに楽しいの久しぶりだった。前の彼女にブックオフデートでフラれた俺が、本屋デートで盛り上がれる相手に出会えるなんて。
蔦屋を出て、近くのカフェに入った。
「ねえ、聞いていい?」
「うん」
「彼女いるの?」
「いない。2年いない」
「ふーん」
「ゆいは?彼氏」
「…いるよ」
心臓が止まった。比喩じゃなくて、本当に一瞬止まった気がした。
「あ、そうなんだ」
声が裏返らなかったのは奇跡だと思う。
「同じ研究室の人。付き合って1年ぐらい」
「へえ…」
(だよな。こんなかわいくて頭いい子にいないわけないよな)
カフェの空気が変わった。さっきまであんなに楽しかったのに、急にコーヒーの味がしなくなった。
「でもね」
「うん」
「最近、あんまりうまくいってない」
「…そうなんだ」
「彼、私が本ばっかり読んでるの嫌がるの。『もっと普通のことしようよ』って」
(それは…お前が悪いだろ…)
とは思ったけど言えなかった。てか言う立場じゃない。
「だから、電車で私の本に興味持ってくれたの、すごく嬉しかったんだ」
ゆいがコーヒーカップを両手で包むようにして、少し俯いた。
(これは…友達として聞いとけばいいのか?それとも…)
「俺はゆいの選書、毎朝楽しみにしてたよ。クンデラが来た日は笑ったけど」
「あはは、あれね。あれはちょっと自分でも攻めすぎたなって思った」
笑顔が戻った。よかった。
その日はそのまま解散した。帰り道、自由が丘で東横線に乗り換えるとき、がらんとしたホームでぼーっとした。
(彼氏いるのか…)
わかってた。期待してた自分がバカだった。でも「うまくいってない」って言葉が頭の中でリフレインしてた。
それから2週間ぐらい、電車での日課は続いた。本を見せ合って、小さく感想を言い合う。LINEでは毎晩のように本の話をした。
ある夜、LINEのやりとりが本の話から逸れた。
「今日、彼と喧嘩した」
「どうしたの」
「学会の発表準備で忙しいのに、今週末旅行行こうって言ってきて。無理って言ったら『俺より論文が大事なんだ』って」
「それは…向こうがちょっと…」
「うん。でもこういうの何回もあるから、もう疲れちゃった」
「大変だな…」
「ねえ、明日の夜ごはん付き合ってくれない?」
心臓がバクバクした。これは友達としてか? それとも…
「いいよ。どこ行く?」
「中目黒でいい?あなたの会社の近くでしょ」
翌日の金曜、19時に中目黒駅で待ち合わせた。
ゆいは黒いニットワンピースを着てた。初めて見るちょっとだけ大人っぽい格好。膝上丈で、タイツを履いてて、ヒールのブーツ。
(やばい、かわいい…ていうか綺麗…)
目黒川沿いの小さなイタリアンに入った。カウンター8席ぐらいしかない店で、隣の席との距離が近い。ゆいの腕が時々俺の腕に当たった。
ワインを頼んだ。ゆいは飲むとちょっと頬が赤くなるタイプだった。
「私ね、別れるかも」
パスタを巻きながら、さらっと言った。
「…え?」
「彼と」
「いいの?1年付き合ったんでしょ」
「うん…でも、最近気づいたの。私が好きなものを一緒に楽しんでくれる人と一緒にいたいなって」
目が合った。ゆいの目がワインのせいか少し潤んでて、俺はそこから目を逸らせなかった。
(これ、俺のこと言ってる…?自意識過剰?でも…)
「俺はゆいの読む本、全部興味あるよ。クンデラ以外は」
「クンデラも面白いでしょ」
「重いんだって」
「あはは」
ゆいが笑って、ワイングラスに口をつけた。唇に赤ワインがちょっとだけ残って、舌先でぺろっと舐めた。
(それは反則だろ…)
店を出たのは21時過ぎだった。中目黒の駅に向かって歩く。金曜の夜で人は多かったけど、なんか二人の間だけ空気が違った。
「ねえ、もうちょっと一緒にいたい」
「…俺もそう思ってた」
「うち来る?」
(えっ…)
「いいの?」
「本、いっぱいあるよ。見る?」
本を見に行くって名目。お互い、それが名目だってわかってた。
都立大学駅から歩いて5分ぐらいのマンション。1Kの部屋に入ると、壁一面が本棚だった。
「すげえ…」
「でしょ?引っ越しのとき段ボール20箱だった」
「いや、本屋じゃん」
「よく言われる」
本棚を見てたら、上の段に見覚えのある背表紙があった。
「あ、『アヒルと鴨のコインロッカー』。これ俺が電車で見せたやつ」
「それ…あなたが見せてくれる前から持ってたの」
「え?」
「あなたがKindleで読んでるとき、画面がチラッと見えたことがあって。伊坂幸太郎のページだった。それで私も買った」
(……マジ?)
「じゃあ、俺が盗み見してたんじゃなくて、お互い…」
「そう。お互い、盗み見してた」
ゆいが笑った。近かった。部屋が狭いから近いのか、それとも自分から近づいたのかわからなかった。
「ゆい」
「うん」
「彼氏いるのに、俺がここにいていいのか」
「昨日、別れたの」
「え…」
「ごはん誘ったの、別れた次の日だったの。ずるいかな」
「ずるくない」
「でも、別れた理由のひとつはあなただよ」
「…」
「毎朝、あなたに本を見せるのが楽しみで。彼といるより、6分の電車のほうがドキドキしてるって気づいちゃったから」
心臓がうるさかった。たぶんゆいにも聞こえてたと思う。
キスした。どっちからかわからなかった。気づいたらゆいの唇にワインの味が残ってて、そのまま離せなくなった。
「ん…」
ゆいが目を閉じて、俺のシャツの胸元を掴んだ。小さい手がぎゅって握る感触があった。
「ゆい…好きだ」
「…うん。私も」
2回目のキスは長かった。舌が触れて、ゆいが小さく声を漏らした。本棚に背中をつけるように寄りかかって、文庫本が1冊落ちた。
「本、落ちた」
「いいよ、そんなの…」
ゆいが俺の首に腕を回してきた。密着すると、ニットワンピースの下の体のラインがわかった。細いけど、胸のところだけちゃんと膨らみがあって。
ベッドに移動した。シングルベッドの横にも本が積んであって、ゆいが慌てて床にどかした。
「ごめん、片付いてなくて…」
「いや、むしろ好き。この感じ」
ゆいの上に覆いかぶさって、もう一回キスした。ニットワンピースの裾から手を入れると、ゆいが小さく震えた。
「寒い?」
「ちがう…緊張してるの」
「俺も」
嘘じゃなかった。手が震えてた。2年ぶりの、こういうの。
ワンピースをゆっくり脱がした。薄いベージュのブラとショーツが出てきて、華奢な体が露わになった。Bカップぐらいだと思う。小ぶりだけど形が綺麗で、鎖骨から胸にかけてのラインが本当に綺麗だった。
「あんまり見ないで…小さいから恥ずかしい」
「いや、すごく綺麗だよ」
「…ほんとに?」
「ほんとに」
ブラを外した。乳首が薄いピンクで、もう少し尖ってた。口に含むとゆいがびくっとなった。
「あっ…そこ敏感…」
「ここ?」
「んっ…うん…」
舌先で転がすと、ゆいが俺の髪を掴んだ。腰が小さく動いてるのがわかった。
もう片方の手でショーツの上から触ると、もう濡れてた。
「ゆい、ここ…」
「…わかってるから言わないで」
恥ずかしそうに顔を逸らすのがかわいくて、余計に触りたくなった。ショーツをずらして直接指を当てると、ぬるっとした感触がした。
「あ…っ」
「痛くない?」
「ううん…気持ちいい…」
クリを親指で軽く押しながら、中に指を入れた。きつかった。あまり慣れてないんだなってわかった。
「んん…っもうちょっと奥…」
ゆいが自分から腰を押し付けてきた。さっきまで恥ずかしがってたのに、体は正直で、指がぐちゅっと音を立てた。
「あっ、やば…もうだめ…」
「だめって?」
「イきそ…っ」
指を動かす速度を上げた。ゆいの太ももが震えて、腹筋がぎゅっと収縮するのがわかった。
「あっ、あっ、んんっ…!」
ゆいの体がびくびくって痙攣して、俺の手首を掴んで止めた。目が潤んでて、頬が真っ赤だった。
「大丈夫?」
「…うん。すごかった…」
ゆいが荒い息のまま、俺のベルトに手を伸ばしてきた。
「私も…触りたい」
ズボンを脱がされて、もう限界まで硬くなってた。ゆいが恐る恐るって感じで握ってきた。
「あの…こういうの、あんまり慣れてなくて」
「いいよ、そのままで。手、あったかくて気持ちいい」
「ほんと?」
ゆっくりしごいてくれた。ぎこちなかったけど、それがかえってよかった。ゆいの真剣な顔が間近にあって、息がかかって、それだけですぐにでもイきそうだった。
「ゆい、ゴムある?」
「…洗面台の引き出しに。彼と使ってた…あ、ごめん、こんなこと言わないほうが」
「いいよ、気にしない」
嘘。ちょっとだけ気にした。でもそれ以上に今のゆいに触れていたかった。
洗面台からゴムを取ってきてつけた。ゆいがベッドに仰向けになって、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「顔、見せてよ」
「やだ…恥ずかしい…」
指の隙間から目が見えた。期待と不安が混ざったような目。
先端を当てて、ゆっくり入れた。中があったかくて、きゅって締まった。
「あ…っ」
「痛い?」
「ちょっとだけ…でも大丈夫」
「ゆっくり動くね」
腰を少しずつ動かした。ゆいが両手を顔から離して、俺の背中に回してきた。爪がちょっと食い込んで、それが痛気持ちよかった。
「ん…んっ…」
「気持ちいい?」
「うん…あなたが中にいるの、なんか不思議…」
「不思議?」
「だって、電車で本見てるだけの人だったのに…今こうなってるのが…信じられなくて」
俺も信じられなかった。毎朝6分、文庫本のタイトルを盗み見てただけなのに、今この子の中にいる。なんだよこれ、小説じゃん。
「俺も信じられない」
腰の動きを速めた。ゆいが声を抑えようとして唇を噛んでた。
「声、出していいよ。壁厚いでしょ」
「薄いの…ここ…」
「マジか」
「んっ…でも…もう我慢できない…あっ」
ゆいが俺の背中を抱きしめる力が強くなった。中がきゅうきゅう締めてきて、やばかった。
「ゆい…俺もそろそろ…」
「うん…いいよ…来て…」
最後、深く突いて、そのまま果てた。体中の力が抜けるような快感が走って、ゆいにのしかかるようにして動きが止まった。
「…はぁ…」
「……ごめん、重い?」
「ううん。このまま…もうちょっと」
ゆいが俺の背中をぽんぽんって叩いた。なんかそれが優しくて、泣きそうになった。
しばらくそのまま抱き合って、ゆいが笑った。
「ねえ、これ」
枕元に落ちてた本を拾った。さっき本棚から落ちたやつだ。
村上春樹の『ノルウェイの森』。
「ベタだねって言ったけど、まさかこうなると思わなかった」
「…確かに」
二人で笑った。ゆいが俺の胸に頭を乗せて、「ねえ」って言った。
「月曜の電車、隣に立っていい?」
「今さら何言ってんの。もう盗み見する必要ないだろ」
「でも本は見せ合いたい」
「それは、まあ、一生やろう」
「…一生って。まだ付き合ってもないのに」
「あ、そうだった。ゆい、付き合ってください」
「順番おかしいでしょ…でも、うん。よろしくお願いします」
ゆいがまた顔を赤くして、俺の胸に顔を埋めた。
その夜、ゆいのシングルベッドは狭くて、二人で寝るには本を何冊か床にどかさなきゃいけなかった。でもその狭さがちょうどよくて、くっつかないと落ちるから、朝まで腕枕で寝た。
朝起きたら7時12分で、ゆいはまだ寝てた。寝顔を見ながら、こいつが毎朝俺のKindleの画面を盗み見てたのかと思ったら、なんかおかしくて笑ってしまった。
俺はずっと、自分が一方的に見てる側だと思ってた。でも違った。ゆいもこっちを見てた。お互いがお互いを盗み見してて、しかもそれに気づいてなかった。
あの東横線の6分がなかったら、俺たちは出会えてたんだろうか。同じ電車に乗ってなくても、どこかで出会えてたのかな。
わかんないけど、ゆいなら「それは存在の耐えられない軽さだね」とか言いそう。
やっぱりクンデラは重い。