これ書いていいのかわかんないけど、もう3年前のことだし時効だと思って書く。
俺、当時26歳。東京の中小IT企業でSEやってた。身長172、体重62、顔面偏差値は友達いわく「マッチングアプリで右スワイプ率12%くらい」だそうで、まあ要するにフツメン以下。大学時代に1人だけ付き合って、社会人になってからは3年間彼女なし。金曜の夜はだいたいApexやって寝るタイプの人間です。
で、なんで教習所の話かっていうと、俺は大学時代に免許を取らなかったんだよね。都内だし別にいらないかなって思ってたんだけど、会社の先輩に「営業車運転できないと出世できないぞ」って脅されて、26にして教習所に通い始めた。場所は府中の某教習所。名前は出せない。理由はこれから書く通り。
最初の技能教習で担当になったのが、桐谷さんだった。
第一印象は「怖い」。それだけ。32歳、身長163くらい。髪はダークブラウンのボブで、顔は――これ怒られるかもしれないけど、石原さとみをちょっとだけシャープにした感じ。目がとにかくきつくて、睨まれると内臓がキュッてなる。体型は教官の制服越しでもわかるくらいしっかりしてて、たぶんDかEくらいはあったと思う。でもそういう目で見る余裕なんか最初は1ミリもなかった。
(この人、絶対キレるやつだ…)
最初の教習、エンジンかけた瞬間に言われたのが忘れられない。
「ミラー見た?」
「あ、はい、見ました」
「嘘。見てない。目線が動いてなかった。もう一回」
マジで怖かった。声は別に大きくないんだけど、低くて、淡々としてて、逃げ場がない。教習所の口コミサイトに「桐谷教官は厳しいけど上手くなる」って書いてあったけど、上手くなる前に胃に穴が開くわ。
でもまあ、通ってるうちに少しずつ慣れてきた。3回目くらいから、ミスしても怒鳴られないことがわかった。桐谷さんは怒鳴らない人だった。ただ、的確に刺してくる。
「今の右折、対向車が来てたら死んでたね」
「…はい」
「死にたくないでしょ?」
「死にたくないです」
「じゃあ確認して」
こういう感じ。怖いんだけど、なんか正しいから反論のしようがない。
変化があったのは、路上教習に入ってからだった。
所内と違って路上は景色が変わるし、信号もあるし、歩行者も飛び出してくる。俺はテンパりまくってて、甲州街道に出た瞬間に固まった。
「…深呼吸して」
「え?」
「深呼吸。吸って、吐いて。はい」
急にトーンが変わった。いつもの冷たい声じゃなくて、ちょっとだけ柔らかかった。
「大丈夫。私がブレーキ踏めるから。あなたは前だけ見てて」
(…え、この人こんな声出せるの?)
その一言で、不思議と肩の力が抜けた。そのあとは割とスムーズに走れて、教習所に戻ったときに桐谷さんが「うん、良かった」って小さく言った。
それだけなんだけど、なんかすごく嬉しかった。この人に褒められるのって、めちゃくちゃ価値がある気がした。
そこからちょっとずつ、桐谷さんの人間味みたいなのが見えてきた。
路上教習中に俺が「あの店のカレー美味いんですよ」って言ったら、「私もカレー好き」って返ってきて、そこから5分くらいカレーの話になった。桐谷さんは神保町のボンディが一番好きらしい。
「あそこのチーズカレー、食べた?」
「いや、まだ行ったことなくて」
「行きなよ。人生変わるから」
「カレーで人生変わります?」
「変わる。少なくとも私は変わった」
真顔で言うからおもしろい。
あと、俺がくしゃみしたときに「花粉?」って聞いてきて、「アレルギーなんです」って言ったら、次の教習のとき助手席にティッシュの箱が置いてあった。
「これ…」
「鼻水垂らしながら運転されたら危ないから」
素っ気なく言うんだけど、わざわざ用意してくれてるのはバレバレで。
(…この人、本当は優しいのかもしれない)
気づいたらけっこう楽しみになってた。教習所に行くのが。正確には、桐谷さんの車に乗るのが。
でも、ここで問題が起きた。
路上教習の終盤、あと2回で卒検っていうタイミングで、俺は縁石に乗り上げた。調布の住宅街を走ってるときに、対向車に気を取られて左に寄りすぎた。
ガコンッて音がして、車が跳ねた。
「…」
無言。これが一番怖い。
「すみません…」
「…戻ろう」
教習所に戻るまでの10分間、桐谷さんは一言も喋らなかった。車を停めて、俺が降りようとしたら、
「ちょっと待って」
って言われて、そのまま助手席で5秒くらい黙った。
「あのさ」
「はい」
「怒ってるわけじゃないから」
「…え?」
「怒ってるように見えた?ごめん。考えてただけ。あなたの癖をどう直すか」
「…」
「対向車が来ると左に逃げる癖がある。それ、初心者にありがちだから、直せる。明日、補習入れるから」
(…ああ、この人は俺のこと見てくれてるんだな)
なんかその瞬間、胸がぎゅっとなった。好きとかそういうのじゃなくて、もっと手前の、なんだろう、信頼? いや違うな、信頼プラス何かだった。でもその「何か」がわかんなくて、俺はそのまま帰った。
補習の日。桐谷さんは珍しくちょっと機嫌が良さそうだった。
「今日は私が指定するルート走るから。いつもと違う道ね」
言われた通りに走った。調布の住宅街を抜けて、多摩川沿いの道に出た。夕方で、川がオレンジに光ってた。
「ここ、好きなんだよね」
「…綺麗ですね」
「教習で使うルートじゃないんだけど。まあ、今日は特別」
なんでだろう、その「特別」って言葉がやけに引っかかった。
1時間の教習が終わる頃、桐谷さんが言った。
「もう一周だけ、走らない?」
「え、時間大丈夫ですか?」
「次の枠、キャンセル入ったから。私もちょっと…気分転換したくて」
(教官が気分転換?)
なんか変だなと思いつつ、断る理由もないから走った。多摩川沿いをもう一周。夕日が完全に沈んで、ヘッドライトをつけた。
「ライト、つけ方わかる?」
「はい、これですよね」
「うん。…ちゃんと覚えてるね」
なんかその声が、やけに優しかった。
教習所に戻って、車から降りたとき。桐谷さんが助手席から降りてこなかった。
「桐谷さん?」
「…ねえ」
「はい」
「明日、卒検でしょ」
「はい」
「受かったら、もう会わないじゃん」
(…え?)
心臓が跳ねた。教官がそんなこと言う?
「…まあ、そうですね」
「…」
5秒くらい沈黙があって、桐谷さんが車から降りた。いつもの無表情に戻ってた。
「明日、頑張って」
それだけ言って、事務所に戻っていった。
俺はしばらく駐車場に突っ立ってた。
(…今の、なんだったんだ?)
帰り道、ずっと考えてた。「もう会わないじゃん」。あれは教官として言ったのか、それとも――いや、考えすぎだろ。俺みたいなフツメンに32歳の石原さとみ似が何かを感じるわけがない。
(でもティッシュの件もあるし、カレーの話もあるし、多摩川の「特別」もあるし…)
(いやいやいや、あれは全部教官としての気遣いだろ)
(でも「もう会わない」って、わざわざ言うか?)
Apexやりながらずっとグルグルしてた。K/D比が0.3まで落ちた。
翌日、卒検。結果から言うと、受かった。
桐谷さんは試験官じゃなかったけど、結果発表のとき事務所の奥にいるのが見えた。目が合った気がしたけど、すぐ逸らされた。
免許証の手続きが全部終わって、教習所を出ようとしたとき。受付の子に封筒を渡された。
「桐谷教官からです」
中を開けたら、メモ用紙が1枚。
「卒業おめでとう。もしボンディのカレーに行くなら、感想聞かせて」
その下に、LINEのIDが書いてあった。
(…マジかよ)
手が震えた。誇張じゃなくて、本当に震えた。
帰りの電車で3回くらいスマホを出したりしまったりして、結局、国分寺駅に着いたときに友達追加を押した。
最初のメッセージは「卒業できました。ありがとうございました」にした。敬語。完璧に敬語。だって相手は教官だし。
既読がついたのは、22時過ぎだった。
「おめでとう。カレーは?」
「来週行ってみます」
「行ったら写真送って」
それだけ。そっけない。でも桐谷さんっぽくて、ちょっと笑った。
翌週、本当にボンディに行った。チーズカレーを頼んで、写真を撮って送った。
「美味しかったです。人生変わりました」
「大げさ」
「桐谷さんが言ったんですよ」
「そうだっけ」
こういうやり取りが、ぽつぽつ続いた。毎日じゃない。3日に1回くらい。でも確実に続いてた。話題はカレーから始まって、映画、音楽、仕事の愚痴。桐谷さんは教習所の人間関係にストレスを感じてるみたいで、たまに「辞めたい」って送ってきた。
「所長がさ、女の教官にだけ受付も兼務しろって言ってくるの」
「それはキツいですね」
「でしょ。もう5年目なのに」
「転職とか考えないんですか」
「考えるよ。でも、運転教えるの好きなんだよね」
「…それ、教習中にも思ってました。桐谷さん、教えるの上手いです」
「…ありがと」
既読のあと、スタンプが1個だけ送られてきた。猫が照れてるやつ。
(…かわいい)
いやいや。元教官だぞ。6歳年上だぞ。しっかりしろ俺。
LINEを始めて1ヶ月くらい経ったとき、桐谷さんから珍しく長文が来た。
「今日、教習中に生徒がパニックになって、助手席のブレーキ踏んだんだけど、それでも突っ込みそうになって。怖かった。こういうとき誰かに言いたくなるんだけど、職場の人には弱み見せたくなくて。ごめん、重いよね」
(…俺に言ってくれるんだ)
嬉しいとか、そういう単純な感情じゃなかった。なんていうか、頼られてる実感? あの鬼教官が、俺には弱いところを見せてくれてる。
「重くないです。いつでも言ってください」
「…ありがとう。今度、ご飯行かない?お礼がしたい」
心臓が府中から飛び出すかと思った。
待ち合わせは新宿。土曜の18時。
俺は1時間前に着いて、ルミネの中をウロウロしてた。服は3回着替えた。最終的にユニクロの黒スキニーと無印の白シャツに落ち着いた。(これが俺の限界だった)
桐谷さんは時間ぴったりに来た。
私服の桐谷さんを見た瞬間、脳がバグった。
ネイビーのワンピースに、ちょっとだけヒールのあるサンダル。髪はいつものボブだけど、片側だけ耳にかけてて、小さいピアスが見えた。教官の制服とはまるで別人だった。
「…なに?」
「いや、あの、雰囲気違うなって」
「制服しか見たことないもんね。…変?」
「全然変じゃないです。すごく…いいです」
(「いいです」って何だよ俺。語彙力)
「…ふーん」
微妙に口角が上がったのを、俺は見逃さなかった。
店は桐谷さんが予約してくれてた。新宿三丁目の、地下にあるイタリアン。カウンター8席だけの小さい店で、やたら雰囲気が良かった。
ワイン飲みながら話した。最初は仕事の話。桐谷さんの教習所の所長がいかにクソかっていう話をずっと聞いてた。
「でさ、この前なんか『笑顔で接客しろ』って言われて。私、教官なんですけどって」
「桐谷さんが笑顔で教習したら、生徒が油断して事故りそう」
「…それ褒めてる?」
「褒めてます。厳しいから上手くなるんですよ」
「…」
グラスのワインをくるくる回しながら、桐谷さんがぼそっと言った。
「ねえ、なんで私のLINE追加したの」
不意打ちだった。
「…カレーの感想を伝えたかったからです」
「嘘。本当の理由」
目が、教習中の「ミラー見た?」のときと同じだった。嘘を見抜く目。
「…桐谷さんに、もう会えないのが嫌だったからです」
言っちゃった。ワインの力を借りたとはいえ、言っちゃった。
桐谷さんは3秒くらい黙って、それからグラスのワインを一気に飲み干した。
「…私もそう。だからLINE渡した」
(…は?)
「教官が生徒に連絡先渡すって、本当はダメなの。バレたらクビ。でも、あなたが卒業したら本当に会えなくなるって思ったら、やるしかなかった」
(この人、リスク背負ってくれてたのか)
「最初は変な生徒だなって思ってただけ。26で免許取りに来る男って珍しいし。でも、教習中にカレーの話とか花粉の話とか、どうでもいい話してくるでしょ。あれが…なんか良かった」
「どうでもいい話…」
「いい意味で。教習中って緊張するじゃん。でもあなたは途中から、私のこと教官じゃなくて人として見てくれてる感じがした。それが嬉しかった」
桐谷さんの耳が赤くなってた。教習中は絶対に見せなかった表情だった。
店を出たのは22時過ぎ。新宿三丁目の交差点で、桐谷さんが「送ってく」って言った。
「いや、俺が送りますよ」
「私の方が年上。ここは譲らない」
「…はい」
結局、桐谷さんの家の最寄り駅まで一緒に歩くことになった。西武新宿線の某駅。駅から5分くらいのマンション。
「…ここ」
「じゃあ、今日はありがとうございました。楽しかったです」
帰ろうとした。本当に帰ろうとした。
「…上がってく?」
心臓が止まった。比喩じゃなくて、一瞬本当に脈が飛んだ気がした。
「…いいんですか」
「コーヒーくらい出せるよ」
コーヒー。うん。コーヒーね。コーヒーを飲みに行くだけ。そう自分に言い聞かせて、エレベーターに乗った。
桐谷さんの部屋は1LDKで、想像以上にシンプルだった。家具は最低限で、本棚にカレーのレシピ本が並んでた。
「カレーの本めっちゃありますね」
「趣味だから」
コーヒーを淹れてくれてる間、俺はソファに座って、なんかもう落ち着かなかった。膝がガクガクしてた。26歳にもなって。情けない。
桐谷さんがマグカップを2つ持ってきて、隣に座った。距離が近い。教習車の助手席くらいの距離。
「…緊張してる?」
「してないです」
「嘘。膝、震えてる」
また見抜かれた。この人にはなにも隠せない。
「私も緊張してるよ。信じないだろうけど」
「…してるように見えないです」
「教官だから。表情出さない訓練はしてるの」
そう言って、桐谷さんは自分の手を見せた。指先が微かに震えてた。
「…本当だ」
「ね。だからお互い様」
そのあと、どっちが先だったのか正直覚えてない。気づいたらキスしてた。コーヒーの味がした。桐谷さんの唇は柔らかくて、でもどこか遠慮がちで、教習中の的確さとは全然違った。
「…桐谷さん」
「教官って呼ばないでよ、今は」
「じゃあ…なんて呼べば」
「…名前。美波」
(美波さん…)
名前を呼んだ瞬間、なんかスイッチが入った。桐谷さんが――美波さんが、ワンピースの肩紐をずらしながら俺の首に腕を回してきて。
正直に書く。俺は3年ぶりで、めちゃくちゃ緊張してた。手順とか全部忘れてた。
「あの…俺、久しぶりすぎて…」
「…私も2年してない」
「え、マジですか」
「マジ。だからお互い下手でも許して」
なんかその一言で楽になった。お互いブランクあるって知ったら、変な見栄を張らなくてよくなった。
ワンピースを脱がせた。下着は黒のシンプルなやつで、飾り気がないのが逆にエロかった。制服の下にこれを着てたのかと思うと、教習中のことを思い出してゾクッとした。
美波さんの体は、教官の制服が隠してた分、想像以上だった。Dカップどころじゃない。たぶんEはある。腰は細くて、でもお尻はしっかりしてて、なんていうか、全体的に「ちゃんと生きてる人の体」だった。ジムとか行ってるのかもしれない。
「…そんな見ないで」
「ごめん。綺麗で」
「お世辞はいい」
「お世辞じゃないです」
「…バカ」
美波さんがベッドに横になって、俺はその隣に寝転がった。手を伸ばして胸に触れると、小さく息を呑む音が聞こえた。あの鬼教官が、こんな声出すんだ、って思ったら、もう頭がぐちゃぐちゃになった。
ブラを外したら、思わず見惚れた。形が綺麗で、手で包むと柔らかく沈み込む感触がして。乳首に唇をつけたら、美波さんの体がびくっと跳ねた。
「…っ、そこ、弱い…」
「ここ?」
「ん…っ」
教習中は「的確に指摘してくる」側だった人が、今は俺の手の下で反応してる。その倒錯感がたまらなかった。
(これ夢なのかな。いや夢だったら起きたくないんだけど)
下に手を滑らせると、もう濡れてた。
「…言わないで」
「何も言ってないです」
「顔に書いてある。『もう濡れてる』って」
(バレてる…)
指を動かすと、美波さんが俺の肩を掴んできた。爪が食い込むくらい強くて、それが興奮を煽った。
「あ…っ、もうちょっと…上…」
指示がピンポイントなのは教官っぽくて、笑いそうになった。でも笑ったらたぶん殺されるから、言われた通りにした。
「そこ…っ、やば…」
美波さんの腰が浮いた。普段の理性的な表情が崩れていくのを見て、俺の中で何かがぶっ壊れた。
「美波さん…入れたい」
「…うん。ちょっと待って」
美波さんがベッドサイドの引き出しからゴムを出した。渡し方が事務的で、ちょっとだけ教習所の受付を思い出した。
「…何笑ってるの」
「いや、渡し方が教官っぽいなと」
「うるさい。早くつけて」
装着して、ゆっくり入れた。
美波さんが、息を止めた。2年ぶりだって言ってたから、慎重にした。
「…大丈夫。動いて」
「痛くない?」
「…痛くない。っていうか…気持ちいい」
最後の方、声が小さくなった。
動き始めたら、美波さんが俺の背中に腕を回してきた。耳元で息が荒くなっていくのが聞こえて、それだけで全身の神経が沸騰した。
「あ…っ、もっと…奥…」
「…っ、美波さんの中、やばい…」
「…んっ、そんなこと…言わないで…」
恥ずかしそうに顔を逸らす。でも体は離れない。むしろきつく抱きついてくる。
(この人、ギャップがありすぎる…)
教習中は冷静に「死にたくないでしょ?」って言ってた人が、今は俺の名前を呼びながら体をくっつけてくる。その落差で頭がおかしくなりそうだった。
「ねえ…キスして…」
唇を重ねながら腰を動かした。美波さんの声が唇の隙間から漏れて、その度に俺の理性が削られていった。
「…もう、出そう…」
「うん…いいよ…っ」
美波さんの中がきゅっと締まって、それが引き金になった。
「…っ!」
体の奥から何かが弾けるような感覚。3年分の何かが全部持っていかれた気がした。
しばらく動けなかった。美波さんの肩に顔を埋めて、荒い呼吸を整えてた。
「…重い」
「あ、ごめん」
慌てて体を離そうとしたら、腕を掴まれた。
「体が重いって意味。…離れないで」
(…この人ずるいな)
そのまま横になって、しばらく天井を見てた。美波さんが俺の腕を枕にして、こっちを見てた。
「ねえ」
「ん?」
「私のこと…元教官として見てる? それとも…」
「…今さら教官として見えるわけないじゃないですか」
「…だよね」
「美波さんは? 俺のこと、元生徒?」
「…わかんない。でも、元生徒には手作りカレー作らない」
「え、作ってくれるんですか」
「明日の朝。泊まってくなら」
時計を見たら24時を回ってた。終電はとっくにない。というか、終電があっても帰りたくなかった。
「…泊まります」
「じゃあ先にシャワー浴びて。タオルは洗面台の下」
指示の出し方がやっぱり教官で、今度は我慢できずに笑った。
「何がおかしいの」
「いや…好きだなって思って」
言ってから、自分でびっくりした。ワインも抜けてるのに、素面で「好き」って言っちゃった。
美波さんは2秒くらいフリーズして、それから布団を頭まで被った。
「…シャワー。早く」
布団の中から声がくぐもって聞こえた。見えないけど、たぶん真っ赤になってる。
シャワーを浴びて出たら、美波さんがキッチンで何か作ってた。
「え、もうカレー?」
「違う。夜食。卵焼き」
「夜中に卵焼き?」
「なんかお腹空かない? こういうあとって」
美波さんは俺のTシャツを借りて着てて、太ももがまぶしかった。髪がまだ濡れてて、さっきまでシャワー浴びてたのがわかる。なんかもう、この生活感にやられた。
卵焼きを2人で食べて、ベッドに戻って、もう1回した。2回目は美波さんの方が積極的で、俺の上に跨ってきた。
「…1回目、全部あなたに任せちゃったから」
「え、いいのに」
「よくない。私も…ちゃんとしたい」
そう言って腰を動かし始めた美波さんの顔は、教習中に「確認して」って言うときの真剣さと同じだった。いや、もっと切実だった。
2回目は1回目より長くて、途中で美波さんが先に達して、体を震わせながら俺の胸に倒れ込んできた。
「…ごめ、先にイっちゃった…」
「全然いい。…めちゃくちゃ可愛かった」
「…そういうの、慣れてないから…やめて…」
そのあと体勢を入れ替えて、俺も果てた。2回目は1回目より深い場所に落ちていく感覚で、出し終わったあと、しばらく美波さんの首筋に顔を埋めたまま動けなかった。
朝、カレーの匂いで目が覚めた。
キッチンに立ってる美波さんの後ろ姿を見て、(ああ、夢じゃなかったんだ)ってぼんやり思った。
「起きた?ちょうどいい、味見して」
スプーンを差し出された。食べた。美味かった。ボンディより美味いかもしれない。
「…めちゃくちゃ美味い」
「でしょ。5年研究したからね」
「毎朝これ食べたい」
「…毎朝カレーはきついでしょ」
「いや、毎朝美波さんのご飯が食べたいって意味」
美波さんがスプーンを落とした。
「…あのさ」
「はい」
「ほんとバカだね、あんた」
でも怒ってなかった。目が笑ってた。教習所では一度も見たことない顔だった。
帰り際、玄関で靴を履きながら聞いた。
「…俺たち、これからどうなるんですか」
「どうなるって?」
「付き合うとか…そういうの」
「…私、元教官だよ? バレたら面倒なことになる」
「でも俺はもう生徒じゃないし」
「そうだけど…教習所には知られたくない。しばらくは」
「…じゃあ、秘密ってことですか」
美波さんがちょっと考えて、それから俺のシャツの裾を掴んだ。
「秘密。でも…ちゃんと付き合ってる。それでいい?」
「…はい」
それが3年前の話。
今はどうなったかっていうと、美波さんは教習所を辞めて、今は別の仕事をしてる。俺たちは去年から一緒に住んでる。府中のマンション。
休みの日は美波さんがカレーを作って、俺が洗い物をする。たまに「あなたの車線変更、まだ下手」って助手席から指摘される。
「もう教習終わったんですけど」
「教習は終わっても教育は一生」
「…それ好き」
「うるさい。前見て」
今日も助手席から、俺の人生にダメ出ししてくれる人がいる。