1. 押印の日々
僕、瀬川航、二十九歳。
電機部品メーカーの、法務部で働いている。
仕事の半分は、契約書に判を押すことだ。
取引基本契約。秘密保持。業務委託。一日に、何十社分もの契約書が、僕の机に積まれる。
内容を確認して、社判を、ぽん、と押す。角印を、ぽん。代表者印を、ぽん。
瀬川航(……次。次。次)
朝から晩まで、その繰り返し。
入社した頃は、一枚一枚に、緊張があった。会社の名前を、自分が背負って押すんだと、手が震えた。
でも、三年も経つと、判は、ただの作業になった。
朱肉に押しつけて、紙に転がす。乾いた音。それだけ。
瀬川航(……これ、なんのためにやってるんだっけ)
ある日、ふと、そう思った。
押した判の数だけ、契約が動いて、お金が動いて、誰かの仕事になる。頭では、わかっている。
でも、もう、一つも、重さを感じなかった。
判ひとつに、誰かの一年がかかっていることも。
会社の名前が、何十年もかけて積み上げた信用だということも。
全部、ただの、ぽん、になっていた。
そんな僕に、秋の終わり、思いがけない仕事が、回ってきた。
2. 社名が変わる
きっかけは、会社の、社名変更だった。
親会社との関係が変わって、来年の頭から、会社の名前が、すっかり変わる。創業以来、五十年使ってきた社名が、消える。
そうなると、大変なのが、判子だ。
代表者印。会社実印。銀行印。各部署の角印。社名が変われば、登記し直して、ぜんぶ、彫り直さなければならない。
その、社内の取りまとめ役に、僕が、任命された。
久住「瀬川、ご愁傷さま。地味〜な仕事、押しつけられたな」
同期の久住が、隣の席で、にやにやした。
瀬川航「……まあ。判子なら、毎日触ってるしな」
久住「でもさ、知ってる? うちの会社の実印、いまだに手彫りなんだぜ。専門の職人さんが、社内に、いるらしい」
瀬川航「……手彫り? 今どき?」
久住も、又聞きで、よく知らないらしかった。
総務に問い合わせると、たしかに、本社ビルの地下に、「印章室」という部屋があって、そこに、嘱託の彫刻師が一人、いるのだという。
会社の重要な印は、創業からずっと、その部屋で、手で彫られてきた。
機械彫りなら、判子屋に頼めば、数日でできる。
でも、会社の実印だけは、なぜか、ずっと、手彫りを続けている。
瀬川航(……非効率だな。それこそ、機械でいいだろうに)
正直、そう思った。
判ひとつに、重さを感じなくなっていた僕には、わざわざ手で彫る意味なんて、まるで、わからなかった。
それでも、仕事は仕事だ。
僕は、新しい社名の一覧と、彫り直す印の指示書を抱えて、地下へ降りるエレベーターに、乗り込んだ。
3. 地下の印章室
地下二階の、いちばん奥。
「印章室」と、すりガラスに墨で書かれた、古い引き戸があった。
戸を開けると、嗅いだことのない匂いがした。
木と、墨と、それから、朱肉の、油のような、甘い匂い。
部屋の壁は、小さな引き出しが、びっしりと並んだ簞笥で、埋まっていた。柘植の角材。水牛の角。砥石。並んだ、何本もの、小刀。
その、奥の作業台に、一人、女の人が、座っていた。
手元の灯りだけを点けて、小さな印材を、左手で握り、右手の小刀で、こり、こり、と、削っている。
朝倉志乃「……いらっしゃい。法務の方、ですね」
顔を上げずに、彼女は言った。
声が、低くて、静かだった。
僕より、少し、年上だろうか。化粧気のない、整った横顔。髪を、後ろで、無造作にまとめている。指先に、墨のような、黒い汚れがついていた。
朝倉志乃「朝倉です。朝倉志乃。……ここで、判を、彫っています」
瀬川航「瀬川です。あの、社名変更の件で。彫り直しの、印の一覧を、お持ちしました」
ようやく、彼女が、手を止めて、僕を見た。
落ち着いた、深い色の目だった。
朝倉志乃「……ええ。聞いています。全部で、十二本。代表者印に、会社実印、銀行印。あとは、各部の角印」
瀬川航「はい。それで、納期、なんですが。登記が、来月の二十日でして。できれば、それまでに、ぜんぶ」
僕は、なるべく、事務的に言った。
朝倉志乃「……ひと月で、十二本。手彫りで」
瀬川航「あの、もし間に合わなければ、機械彫りに、外注するという手も……」
そう言いかけた僕を、朝倉さんが、静かに、見上げた。
朝倉志乃「会社の実印を、機械に、彫らせるんですか」
その声に、咎める響きは、なかった。
ただ、あんまり、静かで。
僕は、なぜだか、言葉に、詰まった。
4. 一本ずつ、手で
朝倉志乃「……まあ、いいです。間に合わせます。それが、私の仕事なので」
朝倉さんは、そう言うと、簞笥から、一本の、白い角材を取り出した。
朝倉志乃「これ、柘植です。判子に、いちばん、向いてる木。目が、細かくて、粘りがある」
瀬川航「……木、なんですね。実印って、もっと、硬いものかと」
朝倉志乃「水牛とか、黒水牛も使いますよ。でも、会社の実印は、ずっと、柘植で。……創業者が、決めたそうです」
彼女は、その角材の断面を、指で、そっと撫でた。
朝倉志乃「一本ずつ、木の目が、違うんです。硬いところ、柔らかいところ。それを、指で、読みながら、刀を入れる」
こり、と、小刀の先で、表面を、わずかに、削ってみせる。
朝倉志乃「機械は、力が、一定でしょう。木の気持ちなんて、聞かない。……でも、手で彫ると、木が、ここは深く、ここは浅く、って、教えてくれるんです」
瀬川航「……木が、教える」
朝倉志乃「ええ。だから、同じ社名でも、一本ずつ、彫り上がりが、少し違う。世界に、一本だけの判になる」
僕は、その手元を、見ていた。
文字を裏返しに、左右逆に書いた下書きを、印面に貼って、その線に沿って、刀を入れていく。
朱の線が、彫り残されて、白い谷が、その周りを、削られていく。
少しずつ、文字が、浮かび上がってくる。
瀬川航「……すごい。線が、生きてるみたいだ」
思わず、つぶやいた。
朝倉さんが、ふっと、手を止めた。
朝倉志乃「……判って、その人が、確かに、ここにいた、っていう、しるしなんです」
刀の先を、灯りに、かざす。
朝倉志乃「契約書に、ぽん、と押す。それだけで、会社が、責任を持ちます、って約束になる。……何百人の社員の、生活が、その一押しに、乗ってる」
瀬川航「……っ」
朝倉志乃「だから、私は、一本ずつ、ちゃんと、彫りたいんです。重たいものを、軽く扱いたくない」
その言葉が。
毎日、何百回も、ぽん、ぽん、と、判を、ただの作業にしていた僕の胸に、ぐさり、と、刺さった。
僕は、その重さを、とっくに、忘れていた。
5. 通うようになる
それから、僕は、用がなくても、印章室に、通うようになった。
表向きは、進捗の確認。十二本の印が、どこまで進んだか、報告のために、降りていく。
でも、本当は。
あの、静かな部屋で、朝倉さんが、こり、こり、と、刀を入れる音を、聞いているのが、好きだった。
地上の法務部は、電話と、キーボードの音と、人の話し声で、ずっと、ざわついている。
地下の印章室は、刀の音と、自分の息の音しか、しなかった。
朝倉志乃「……また、来たんですか。瀬川さん」
瀬川航「あ、いえ。進捗の、確認に」
朝倉志乃「ふふ。今朝も、来たでしょう」
見透かしたように、朝倉さんが、口の端で、笑った。
朝倉志乃「まあ、いいですけど。……そこ、座っててください。邪魔は、しないで」
僕は、作業台の隅の、丸椅子に座って、ただ、彼女の手元を、見ていた。
朝倉さんは、彫りながら、ぽつぽつと、判子の話を、してくれた。
篆書という、古い書体のこと。同じ「印」でも、印鑑登録に使う実印と、認印は、彫りの深さが違うこと。彫り上がった文字を、最後に、わざと、ほんの少し、欠けさせること。
瀬川航「……欠けさせる? せっかく彫ったのに?」
朝倉志乃「完璧な丸とか、完璧な線は、機械の証拠なんです。少しだけ、不揃いにする。……人の手の、ゆらぎを、残すんです」
判子のことになると、朝倉さんは、いつもより、ほんの少し、口数が、多くなった。
その、静かに語る横顔を、見ているのが、僕は、好きだった。
正直、その頃にはもう。
仕事で通っているのか、朝倉さんに会いに行っているのか。
自分でも、よく、わからなくなっていた。
6. しまわれた者たち
ある日の、昼休み。
僕が、コンビニのおにぎりを持って降りていくと、朝倉さんは、作業台の端で、小さな弁当を、静かに、食べていた。
朝倉志乃「……瀬川さんは、お昼まで、ここで食べるんですか」
瀬川航「あ、迷惑、でしたか」
朝倉志乃「いえ。……久しぶりなので。誰かと、ご飯食べるの」
ぽつりと、彼女が言った。
聞けば、朝倉さんは、もともと、街で、家族の印章店を、継いでいたのだという。
朝倉志乃「祖父の代から、続いてた、小さな判子屋で。私で、三代目でした」
瀬川航「……でした、って」
朝倉志乃「畳んだんです。三年前。……もう、誰も、手彫りの判子なんて、買いに来ないので」
彼女は、箸を止めて、自分の指先を、見つめた。
朝倉志乃「実印を作るのも、ネットで、機械彫りが、千円で買える時代でしょう。手で彫った判は、高い、遅い、って。……お客さん、どんどん、いなくなって」
瀬川航「……」
朝倉志乃「店を畳んだとき、ああ、私の技術は、もう、世の中に、要らないんだな、って。……はっきり、わかりました」
淡々と、彼女は、言った。
朝倉志乃「そんなとき、この会社が、声を、かけてくれて。社内に、印章室を、残してるなんて、もう、ここくらいで。……拾って、もらったんです」
僕は、その話を、聞きながら。
自分のことを、重ねていた。
毎日、判を、ぽん、ぽん、と押すだけの、代わりのきく仕事。法務部に、自分じゃなきゃいけない理由なんて、何ひとつ、ない気が、していた。
瀬川航「……僕も、同じです」
気づいたら、口に出していた。
瀬川航「毎日、判、押してるだけで。これ、別に、僕じゃなくても、いいよなって。……自分が、なんのためにいるのか、わからなくなってて」
朝倉さんが、こちらを、見た。
それから、ほんの少し、優しい目をして、言った。
朝倉志乃「……判は、押す人がいないと、ただの、木の棒ですよ」
瀬川航「え」
朝倉志乃「彫る人と、押す人がいて、はじめて、判は、意味を持つんです。……瀬川さんの、ぽん、にも、ちゃんと、意味は、あります」
その言葉に。
僕は、なぜだか、目の奥が、つん、と、熱くなった。
要らない者同士みたいに、二人で、地下にいて。
それでも、彼女は、僕の、ただの作業を、ちゃんと、すくい上げてくれた。
7. 印刀を握る
朝倉志乃「瀬川さん。せっかくだから、一本、彫ってみますか」
ある日、朝倉さんが、ふいに、そう言った。
瀬川航「えっ。僕が?」
朝倉志乃「練習用の印材なら、いくらでも、あります。自分の、認印。下手でも、味になりますよ」
差し出されたのは、小指ほどの、柘植の角材と、一本の、小さな小刀だった。
印刀、というらしい。
朝倉志乃「持ち方は、こう。鉛筆みたいに、握らないで。……手のひら、全部で、押すように」
朝倉さんが、僕の後ろに、立った。
そして、僕の手の上に、自分の手を、そっと、重ねた。
朝倉志乃「力は、要りません。木に、教えてもらうんです。……すっ、て、滑らせて」
近かった。
彼女の体温と、石鹸のような、かすかな匂いが、すぐ後ろにあって。
僕の心臓は、印を彫るどころじゃ、ない速さで、鳴っていた。
瀬川航「……あの、朝倉さん」
朝倉志乃「集中して。刀が、逸れます」
ぴしゃり、と言われて、僕は、慌てて、手元に、目を戻した。
こり、と、刀の先が、木に、食い込む。
思っていたより、ずっと、硬かった。少しでも、力を入れると、線が、ぶれる。
瀬川航「……難しい。ぜんぜん、まっすぐ、いかない」
朝倉志乃「ふふ。最初は、みんな、そうです。……でも、ほら。今の線、いいですよ」
朝倉さんが、僕の彫った、ふらふらの線を、覗き込んで、言った。
朝倉志乃「機械には、出せない線です。……瀬川さんの、手の、ゆらぎ」
近くで、彼女が、笑った。
その、いつもより、無防備な笑顔を、こんな至近距離で見て。
僕は、もう、自分の気持ちが、どこに向かっているのか、はっきり、わかってしまった。
手のひらの中の、小さな判よりも。
すぐ後ろにいる、この人の、ことばかり、考えていた。
8. 残業の夜
社名変更の登記の日が、近づいていた。
十二本の印は、一本、また一本と、彫り上がっていった。
でも、最後の、いちばん大事な、会社実印と、代表者印。これだけは、朝倉さんが、何度も、彫り直していた。
朝倉志乃「……まだ、納得が、いかなくて」
夜の、印章室。
地上のフロアは、とっくに、暗くなっている。
地下の、この部屋だけが、手元の灯りで、ぼんやりと、明るかった。
瀬川航「もう、じゅうぶん、綺麗だと思いますけど」
朝倉志乃「綺麗、なだけじゃ、だめなんです。これは、会社の、顔になる判だから。……五十年、使うかもしれない」
僕は、その日も、残業の合間に、降りてきていた。
自販機で買った、温かい缶コーヒーを、二つ、作業台に置く。
瀬川航「……これ、よかったら」
朝倉志乃「……ありがとう、ございます」
並んで、缶を、手のひらで、包む。
ふと、朝倉さんが、ぽつりと、言った。
朝倉志乃「……瀬川さん。最近、顔つき、変わりましたね」
瀬川航「え?」
朝倉志乃「最初に来たとき、すごく、つまらなそうな顔、してました。判なんて、機械でいい、って、顔に書いてあった」
瀬川航「……うっ。ばれてましたか」
朝倉志乃「ふふ。でも、今は、ちょっと、楽しそう」
灯りの中で、彼女の横顔が、やわらかく、笑っていた。
朝倉志乃「私、この部屋に、誰かが、降りてくるの、久しぶりで。……正直、毎日、瀬川さんが、来てくれるの、待ってました」
その、何気ない一言に。
僕の胸が、どきりと、跳ねた。
待ってた、なんて。
言うつもりはなかったのに、僕は、思わず、口を、開きかけた。
でも、ちょうど、そのとき。
朝倉さんが、彫りかけの実印に、目を戻して、小さく、息を吐いた。
朝倉志乃「……あと、少し。これが、彫り上がったら」
その横顔が、あんまり、真剣で。
僕は、言いかけた言葉を、温かい缶ごと、ぐっと、飲み込んだ。
まだ、彼女の、いちばん大事な仕事が、終わっていなかったから。
9. 欠けた一本
登記の、三日前。
事件が、起きた。
ようやく彫り上がった、会社実印。それを、最後に、試し押しした、その瞬間だった。
かつ、と、硬い音がして。
朝倉さんの手から、印が、作業台の、角に、当たった。
印面の、いちばん大事な、一画の、端が。
ほんの、わずかに、欠けた。
朝倉志乃「……っ」
朝倉さんの顔が、さっと、青ざめた。
瀬川航「朝倉さん? どうし……」
朝倉志乃「……欠けました。実印の、印面が」
彼女の手が、震えていた。
朝倉志乃「……だめだ。これじゃ、登記に、使えない。彫り直さないと。……でも、もう、三日しか」
いつも、静かで、淡々としている人が。
初めて、目に見えて、動揺していた。
瀬川航「……一本、彫るのに、どれくらい、かかるんですか」
朝倉志乃「……順調でも、丸二日。実印は、いちばん、神経を、使うから」
ぎりぎりだった。
朝倉さんは、青い顔で、新しい柘植の角材を、握りしめた。
朝倉志乃「……やります。寝ないで、やれば、間に合う」
瀬川航「無理ですよ、そんなの。体、壊します」
朝倉志乃「これは、私の、仕事だから……っ」
声が、震えていた。
僕は、その肩に、思わず、手を、置いた。
瀬川航「……一人で、やらないでください」
朝倉志乃「え」
瀬川航「僕、ここにいます。下書きの確認でも、印材の準備でも、なんでもします。……一人で、抱え込まないで」
朝倉さんが、潤んだ目で、僕を、見上げた。
朝倉志乃「……瀬川さんに、判のことなんて」
瀬川航「わからないですよ。ぜんぜん。でも、あなたが、こんな大事なものを、一人で背負ってるの、見てられないんです」
僕は、まっすぐ、彼女を、見た。
瀬川航「あなたの彫る判が、どれだけ、重いものか。……僕、もう、知ってるから」
彼女の目から、ぽろり、と、涙が、こぼれた。
いつも、感情を、表に出さない人が。
朝倉志乃「……ずるい、です。そんな、言い方」
そう言って、彼女は、もう一度、印刀を、握り直した。
その夜から、僕たちは、二人で、その部屋に、こもった。
10. 木枯らしの夜、登記を終えて
朝倉さんは、丸二日、ほとんど寝ずに、刀を、入れ続けた。
僕は、隣で、下書きを確かめ、温かいものを、差し入れ、彼女が、少しでも、休めるように、見守った。
そして、登記の、前日の、夜。
最後の一画を、彫り終えて。
朝倉さんは、新しい実印を、朱肉に、そっと、押しつけた。
白い紙に、ぽん、と。
赤い、社名が、浮かび上がった。
新しい会社の、いちばん最初の、しるし。
一画も、欠けていない。けれど、ところどころ、ほんの少し、不揃いで。
人の手の、確かな、ぬくもりが、そこにあった。
朝倉志乃「……できた」
それだけ言って、朝倉さんは、へなへなと、椅子に、もたれかかった。
瀬川航「……間に合いましたね。本当に、お疲れ様でした」
翌日、僕は、その印を持って、登記を、無事に、終わらせた。
新しい社名が、正式に、生まれた瞬間だった。
報告のために、印章室に降りると、朝倉さんは、彫りかすの散った作業台を、静かに、片付けていた。
外は、もう、夜だった。
地上から降りてくる途中、廊下の窓の外で、木枯らしが、ひゅう、と、鳴っていた。今年いちばんの、冷たい風。
瀬川航「朝倉さん。……登記、通りました。あなたの判で」
朝倉志乃「……よかった」
彼女は、ほっとしたように、笑った。
その、疲れきった、けれど、満ち足りた横顔を見て。
僕は、もう、我慢が、できなかった。
瀬川航「朝倉さん。……一つ、言っていいですか」
朝倉志乃「はい」
瀬川航「最初は、進捗の確認で、ここに来てました。でも、いつのまにか。……僕が、毎日、楽しみにしてたのは、判じゃなくて」
静かな、地下の部屋に、僕の声だけが、響いた。
瀬川航「あなたに、会うことでした。……好きです、朝倉さん」
朝倉さんは、しばらく、何も、言わなかった。
それから、ゆっくりと、立ち上がって、僕のほうへ、一歩、近づいた。
朝倉志乃「……私、もう、若くないし。会社が、また方針を変えたら、契約も、切られる人間ですよ」
瀬川航「知ってます。……でも、あなたの彫る一本が、どれだけ、重いか。僕は、いちばん、わかってるつもりです」
朝倉志乃「……っ」
朝倉志乃「……ほんとに、ずるい。瀬川さんは」
彼女の声が、震えていた。
朝倉志乃「……私も、です。瀬川さんが、降りてきてくれるのが。……毎日、待ってた」
木枯らしが、鳴る、地下の部屋で。
僕は、彼女の頬に、そっと、手を、添えた。
朱肉と、木の匂いの中で。
朝倉さんは、逃げなかった。目を閉じて、ほんの少し、顔を、上向けた。
僕は、ゆっくりと、唇を、重ねた。
ちゅっ。
朝倉志乃「……ん」
柔らかくて、少しだけ、しょっぱい味がした。さっき、安堵で、泣いたからだろうか。
一度、離れて、見つめ合う。
瀬川航「……もう一回、いいですか」
朝倉志乃「……はい」
今度は、もっと、深く。
ちゅっ……ちゅるっ……
唇を重ねながら、彼女の、細い背中に、腕を、回す。
朝倉さんの手が、おずおずと、僕のシャツの胸元を、きゅっと、握った。
11. 灯りの下で
部屋の、天井の灯りを、消した。
作業台の、手元のライトだけが、ぼんやりと、残る。
その、やわらかい光の中で、僕は、朝倉さんを、壁際の、古いソファへ、そっと、座らせた。
朝倉志乃「……こんな場所で、なんて。……だめな、大人ですね、私たち」
瀬川航「……ここが、いいんです。二人の、始まった場所だから」
朝倉志乃「……ふふ。なに、それ」
笑った彼女の唇に、もう一度、口づける。
まとめていた髪を、そっと、ほどいた。
下ろした髪が、肩に、さらりと、落ちる。
いつも、無造作に結んでいた彼女が、急に、無防備に見えて、僕は、息を、呑んだ。
瀬川航「……綺麗です」
朝倉志乃「……言わないで、ください。恥ずかしい」
ブラウスのボタンを、一つずつ、外していく。
白い肌が、手元のライトに、ほんのり、照らされる。普段、地味なシャツに隠れている体は、思っていたよりも、ずっと、女らしかった。
朝倉志乃「……あんまり、見ないで」
両腕で、胸元を、隠そうとする。
その手を、僕は、そっと、どけた。
背中に手を回して、ホックを、外す。
かちり、と。
朝倉志乃「……っ」
ふるん、と、白い胸が、こぼれた。
僕は、その柔らかさを、両手で、そっと、包んだ。
朝倉志乃「ん……っ」
瀬川航「……柔らかい」
朝倉志乃「……いちいち、言わないで……っ」
口では、そう言うのに、彼女の息は、もう、少し、上がっていた。
指の先で、つんと色づいた先端に触れると、体が、びくっと、跳ねた。
朝倉志乃「ひゃっ……そこ……っ」
瀬川航「ここ、弱いんですか」
朝倉志乃「……知らない、です……っ」
僕は、片方の先端を、口に含んだ。
ちゅっ……れろっ……
朝倉志乃「あっ……ん……っ」
いつも、印刀を前に、淡々としている彼女が。
甘くて、頼りない声を、こぼしている。
そのギャップに、僕は、たまらなくなった。
舌で先端を転がしながら、もう片方の胸を、やわやわと、揉む。
朝倉志乃「瀬川さん……っ、それ……だめ……っ」
朝倉さんの太ももが、もじもじと、すり合わさっている。
僕は、そっと、スカートの中へ、手を、滑らせた。
瀬川航「……脱がせて、いいですか」
朝倉志乃「……っ、はい」
スカートを下ろすと、白い下着だけに、なった。
その中心は、もう、しっとりと、湿りはじめていた。
布越しに、そっと指でなぞると。
朝倉志乃「んっ……」
彼女の腰が、ぴくんと、跳ねた。
瀬川航「……もう、濡れてます」
朝倉志乃「……言わないで、って……っ。だって、瀬川さんが……」
恥ずかしそうに、顔を背ける、その横顔が、たまらなく、可愛かった。
僕は、最後の一枚を、ゆっくりと、脱がせた。
手元のライトの光に、しっとりと濡れたそこが、ほのかに、光っていた。
指で、優しく、敏感な突起を、撫でる。
くちゅ、と、小さな水音がした。
朝倉志乃「あっ……♡」
瀬川航「気持ち、いいですか」
朝倉志乃「……っ、うん……っ♡」
円を描くように撫でながら、指を、ゆっくり、中へ、滑らせた。
ずぷ、と。
朝倉志乃「んあっ……♡」
熱くて、きつい中が、僕の指を、きゅっと、締めつける。
感じる場所を探って、指の腹で、ゆっくりと、擦る。
朝倉志乃「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
朝倉さんが、ソファの座面を、ぎゅっと、握った。
普段、迷いなく、刀を入れる、あの確かな手が、僕の指一本に、こんなに、力なく、乱れている。
それが、愛おしくて、たまらなかった。
朝倉志乃「瀬川さん……っ♡ だめ……それ続けたら……っ♡」
瀬川航「いいですよ。……我慢、しないで」
朝倉志乃「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、彼女の体が、ぐっと、反った。
朝倉志乃「あっ♡ あっ♡ ——っ♡♡♡」
びくびく、と腰が震えて、中が、きゅうっと、締まる。
息を切らせる朝倉さんの額に、汗で張りついた髪を、僕は、そっと、よけてやった。
12. 重なる夜
朝倉志乃「……はぁ……っ。瀬川さんも……」
朝倉さんが、潤んだ目で、僕を、見上げた。
朝倉志乃「……私だけ、なんて。ずるい、です」
僕は、避妊具をつけて、彼女の脚の間に、体を、進めた。
熱く張りつめたものを、濡れた入り口に、あてがう。
瀬川航「……いきます」
朝倉志乃「……はい。来て、ください」
ゆっくりと、腰を、進めた。
ずぷ……っ♡
朝倉志乃「んっ……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、朝倉さんが、僕の背中に、しがみついた。
きつい。でも、とろとろに濡れているから、彼女の中は、僕を、奥まで、ゆっくりと、受け入れていく。
ずず……っ
朝倉志乃「あ……っ♡ 奥……来てる……っ♡」
瀬川航「……朝倉さんの中、すごく、熱い」
根元まで収まって、僕は、一度、深く、息を、吐いた。
繋がった場所から、地下の部屋で、二人で過ごした時間が、じんわりと、埋まっていく。
瀬川航「……動いて、平気ですか」
朝倉志乃「……うん。来て、ください……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
朝倉志乃「あっ♡ ん……っ♡」
誰もいない、夜のビル。木と、朱肉の匂いのする、二人だけの部屋。
その静けさに、彼女の甘い声と、肌の触れ合う音が、混ざっていく。
瀬川航「朝倉さん、気持ち、いいですか」
朝倉志乃「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
瀬川航「僕も。……ずっと、こうしてたい」
朝倉さんが、僕の首に腕を回して、自分から、唇を、求めてきた。
キスをしながら、奥を突くたびに、彼女の体が、跳ねる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
朝倉志乃「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
瀬川航「ここ、好きですか」
朝倉志乃「っ♡♡ 好き……っ♡ 瀬川さんの……好き……っ♡♡」
それが、体のことなのか、僕自身のことなのか。たぶん、どっちも、だった。
朝倉志乃「……名前で、呼んで、ください……っ♡」
瀬川航「……志乃さん」
朝倉志乃「……っ♡♡」
名前を呼ぶと、彼女の中が、きゅうっと、締まった。
瀬川航「志乃さん。……あなたに、会えて、よかった」
朝倉志乃「……私も……っ♡ 航さん……っ♡」
僕の名前を、彼女が、初めて、呼んでくれた。
それだけで、胸の奥が、いっぱいに、なった。
古いソファが、小さく、軋む。
手元のライトの光の中、二人の声が、満ちていく。
朝倉志乃「航さん……っ♡ もう……っ♡」
瀬川航「僕も……っ。一緒に」
朝倉志乃「うん……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
僕は、志乃さんを、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
朝倉志乃「あっ♡ あっ♡ イクっ……♡ 航さん、一緒に……っ♡♡」
瀬川航「……っ、志乃さんっ」
ぱちゅんっ——♡♡♡
朝倉志乃「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥で、僕が震えるのを、志乃さんの体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。
二人で、同じ波に、さらわれた。
汗ばんだ体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
朝倉志乃「……はぁ……っ。……こんなの、久しぶり、です」
瀬川航「……志乃さん」
朝倉志乃「ん……?」
瀬川航「明日も、明後日も。……この部屋に、降りてきて、いいですか」
志乃さんが、ふっと、笑った。
朝倉志乃「……当たり前です。新しい社名になっても、判は、減りませんよ」
そう言って、僕の胸に、頬を、すり寄せた。
13. 朝、最初のひとつ
数日後。
新しい社名での、業務が、本格的に、始まった。
僕の机には、また、契約書が、山積みに、なっていた。
新しい、会社実印を、手に取る。
志乃さんが、二日二晩かけて、彫り直した、一本だ。
僕は、それを、朱肉に、そっと、押しつけて。
契約書に、ぽん、と、押した。
赤い、社名が、紙に、浮かび上がる。
ところどころ、ほんの少し、不揃いで。
その、人の手のゆらぎを、指でなぞると。
僕は、もう、それを、ただの、ぽん、だとは、思わなかった。
この一押しに、何百人の生活が、乗っている。
志乃さんが、その重さを、教えてくれた。
久住「お、瀬川。なんか、最近、判押すの、丁寧になったな」
隣の席で、久住が、からかうように、言った。
瀬川航「……まあな。一本ずつ、ちゃんと、彫ってもらった判だから」
久住「ふうん? ……お前、もしかして、地下の彫刻師さんと、なんか、あった?」
瀬川航「……べつに」
ごまかしたつもりだったけれど、たぶん、顔に、出ていた。
久住が、にやにやと、笑った。
その日の、夜。
僕は、また、地下への、エレベーターに、乗った。
印章室の引き戸を、開けると。
木と、朱肉の、甘い匂いが、迎えてくれる。
作業台で、志乃さんが、こり、こり、と、刀を入れていた。
僕の足音に気づいて、顔を上げて、ふっと、笑う。
朝倉志乃「……おかえりなさい。航さん」
瀬川航「ただいま、です。……志乃さん」
朝倉志乃「今日の判、どうでした?」
瀬川航「最高でした。……いちばん、重たい判です」
志乃さんが、嬉しそうに、目を細めた。
朝倉志乃「……ねえ、航さん」
瀬川航「はい」
彼女は、彫りかけの印を、灯りに、かざして、言った。
朝倉志乃「店を畳んだとき、私、もう、誰にも、必要とされないんだと、思ってました」
瀬川航「……」
朝倉志乃「でも、今は。……ちゃんと、待っててくれる人が、いる。それだけで、刀を入れる手に、力が、入るんです」
その横顔が、灯りの中で、満ち足りていて。
僕は、その手を、そっと、握った。
刀を握り続けた、その指は、少しだけ、硬くて、けれど、確かに、あたたかかった。
瀬川航「毎日、降りてきますよ。……もう、判の用が、なくても」
朝倉志乃「……うん。待ってます」
地下の、誰も来ない、印章室。
木と、墨と、朱肉の匂いのする、小さな部屋。
そこは、いつのまにか、僕にとって、世界でいちばん、帰りたい場所に、なっていた。
要らない者みたいに、二人で、地下にいて。
それでも僕たちは、お互いの重さを、ちゃんと知っている、恋人に、なった。
こり、こり、と、刀の音だけが、静かに、響く。
そのとなりで、僕は、次に押す判の重さを、もう、忘れない自分でいられる気がした。
― 終 ―