新商品の開発に追われるうち味見の舌まで擦り切れた食品メーカー企画職の私が、社員食堂の隅でひとり遅番の賄いを作り続ける無口な元板前に献立外のあたたかい味噌汁で救われ、初雪の夜に彼の小さな台所で結ばれた話

社員食堂というのは、昼を過ぎると、まるで別の場所になる。

私、紺野千夏(こんの ちなつ)、二十九歳。中堅の食品メーカーで、惣菜やレトルトの商品企画をしている。新しい味を考えて、試作して、何十回と味見をして、会議にかける。聞こえはおいしそうな仕事だけれど、この半年、私はずっと、自分の舌がどこか遠くへ行ってしまったような感覚の中にいた。

その夜も、私が社員食堂に降りたのは、夜の九時を回ってからだった。昼間は二百人が行き交う食堂も、この時間は照明が半分落とされて、がらんとしている。私は券売機の前で、ぼんやり立ち尽くしていた。

紺野千夏(……お腹は、空いてる。たぶん。でも、何を食べたいのか、わからない)

新商品の開発が大詰めで、ここ数週間、まともな食事をしていなかった。試作品を一日に何十種類も口に運んで、けれど、どれも味がしない。塩か、甘いか、それくらいしかわからない。味見が仕事なのに、自分の舌が信じられなくなっていた。

紺野千夏「……日替わり、まだ、やってますか」

カウンターの奥に向かって、私は掠れた声で聞いた。本当は、もう閉まっているはずの時間だ。

立花諒「……ええ。ひとつなら、すぐ出せます」

奥から出てきたのは、白い調理服を着た、若い男の人だった。立花諒(たちばな りょう)さん。この食堂の、遅番をひとりで回している調理人。背が高くて、無口で、いつもカウンターの奥で黙々と手を動かしている。私は名前も、つい最近、名札で知ったばかりだった。

紺野千夏「……すみません。こんな時間に」

立花諒「いえ。残ってる人がいるなら、開けてます。座ってください」

そう言って、彼は静かに厨房へ戻っていった。


私が、まともに味を感じられなくなったのは、たぶん、夏の終わり頃からだ。

きっかけは、ひとつじゃない。立て続けの新商品の失敗。連日の終電。上司の前でのプレゼン。試作と会議の往復で、気づけば、舌がしびれたみたいに、何を食べても遠かった。同期の葵に、一度だけ、こぼしたことがある。

「千夏、最近ほんとに食べてないでしょ。顔色やばいよ」

紺野千夏「食べてるよ。試作、毎日山ほど」

「それ、食事じゃなくて仕事じゃん。……ねえ、千夏。味、わかってる?」

紺野千夏「……」

図星だった。商品企画なのに、味がわからない。誰にも言えなかった。言ったら、この仕事を続けられなくなる気がして。

葵が心配そうに言った。

「あの遅番の食堂の人、知ってる? 無愛想だけど、あの人の出汁、すごいんだって。総務の子が言ってた」

紺野千夏「……食堂の?」

「うん。なんか、昔はちゃんとした料亭にいた人らしいよ。なんで社員食堂に来たのか、誰も知らないけど」

そのときは、ふうん、と聞き流しただけだった。料亭帰りの板前が、こんな社員食堂で何をしているのか。そんなこと、考える余裕もなかった。


その夜、立花さんが私の前に置いたのは、簡素なお盆だった。

ごはんと、焼き魚と、小鉢がふたつ。そして、湯気の立つ、味噌汁の椀。日替わり定食の、残りものを温め直したものだろう。私は「いただきます」とつぶやいて、まず、味噌汁に口をつけた。

その瞬間、私は箸を止めた。

紺野千夏(……あれ)

しびれていたはずの舌の奥に、じんわりと、何かが広がった。出汁の、深い香り。昆布と、たぶん、鰹。塩気の向こうにある、甘み。味噌の、角の取れた、まろやかさ。何ヶ月も、遠くにあった「味」が、その一口だけ、ちゃんと、私のところまで届いた。

気づいたら、涙がにじんでいた。

立花諒「……お口に、合いませんでしたか」

カウンターの奥から、立花さんが、少し慌てたように顔を上げた。私は、慌てて首を振った。

紺野千夏「いえ……っ。逆、です。すごく……おいしくて。久しぶりに、味が、ちゃんと、した」

立花諒「……味が」

紺野千夏「私、最近、何を食べても、味がしなかったんです。仕事で、舌が、疲れちゃって。……でも、これ、わかりました。ちゃんと」

言ってから、恥ずかしくなった。社員食堂の人に、こんな打ち明け話。けれど立花さんは、笑ったりしなかった。少しのあいだ黙って、それから、ぽつりと言った。

立花諒「……出汁、今日は、丁寧に引けたんで。よかったです」

ぶっきらぼうな、でも、どこか嬉しそうな声だった。私はその夜、味噌汁を、一滴も残さず飲み干した。


それから、私は夜の社員食堂に、通うようになった。

仕事が終わるのが遅いのは、相変わらずだった。けれど、九時を過ぎて食堂に降りると、立花さんは、必ずカウンターの奥にいた。私が「まだ、やってますか」と聞くと、彼は黙って頷いて、何かを出してくれる。日替わりの残りのときもあれば、献立にはない、簡単な一品のときもあった。

ある夜、彼が出してくれたのは、白いお粥に、刻んだ梅と、青菜を添えたものだった。

紺野千夏「……これ、メニューに、ないですよね」

立花諒「紺野さん、昨日、定食、半分残してたんで。……胃が、疲れてるのかと」

紺野千夏「……見てたんですか」

立花諒「……すみません。つい」

ばつが悪そうに、立花さんは目を伏せた。私は、胸の奥が、ことりと音を立てるのを感じた。私が何を食べて、何を残したか。この人は、ちゃんと、見ていた。

紺野千夏「立花さん。前に、料亭にいたって、本当ですか」

立花諒「……割烹です。料亭ってほど、立派なもんじゃ」

紺野千夏「どうして、ここに?」

聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。けれど立花さんは、出汁を引く手を止めずに、静かに答えた。

立花諒「……店が、なくなったんです。大将が体壊して。それで、しばらく、料理から離れようと思って。誰のために作るとか、考えなくていい場所が、よくて」

紺野千夏「社員食堂が、ですか」

立花諒「ええ。……顔も知らない二百人に、黙って出して、黙って下げられる。それで、いいと思ってた。……でも」

彼は、そこで言葉を切った。私は、続きを待った。けれど立花さんは、それ以上は言わずに、ただ、お粥の椀を、もうひとつ、私の前に置いた。

立花諒「……おかわり、いりますか」

紺野千夏「……はい。いただきます」

その「でも」の続きを、私は、勝手に、自分に都合よく想像してしまった。


夜の食堂で言葉を交わすのが、いつのまにか、私の一日の終わりの、決まりになった。

立花さんは、無口だ。けれど、料理のことになると、少しだけ饒舌になった。出汁の引き方、塩の選び方、季節の野菜の話。私が商品企画の仕事をしていると知ると、彼は、めずらしく、自分から聞いてきた。

立花諒「紺野さんは、どういうものを、作ってるんですか」

紺野千夏「最近は、レンジでチンするだけの、和惣菜のシリーズです。忙しい人向けの。……立花さんからしたら、邪道かもしれないですけど」

立花諒「……いえ」

彼は、菜箸を置いて、まっすぐ私を見た。

立花諒「疲れて帰ってきて、ちゃんとした出汁の効いた惣菜が、レンジひとつで食べられる。……それ、すごいことです。俺には、作れない」

紺野千夏「立花さんなら、もっとおいしいの、作れるじゃないですか」

立花諒「一人分を、目の前で、ならね。何万人の食卓に、同じ味を届けるのは、俺には無理です。紺野さんの仕事です、それは」

ぶっきらぼうに、でも、まっすぐに言われて、私は返す言葉に詰まった。味がわからなくなって、自分の仕事の意味さえ見失っていた私に、その言葉は、思いがけないところから、温かく届いた。

紺野千夏「……私、最近、自分の作ったものに、自信がなくて」

立花諒「味が、わからないから?」

紺野千夏「うん。……味見が、できないんです。怖くて。間違ったものを、世に出しちゃうんじゃないかって」

立花さんは、しばらく考えてから、私の前に、小さな小皿を置いた。出汁を、少しだけ、注いだもの。

立花諒「……これ、飲んでみてください。何が、足りないか、言ってみて」

私は、おそるおそる、口に含んだ。舌の上で、ゆっくり転がす。

紺野千夏「……甘み? ……ちょっと、塩が、足りない、かも」

立花諒「……正解です」

彼が、ほんの少し、口の端を上げた。無口な人の、ほとんど笑顔とわからないくらいの、小さな笑い方。

立花諒「わかってるじゃないですか。紺野さんの舌、ちゃんと、生きてます。……疲れて、隠れてるだけで」

その夜、私は、家に帰る電車の中で、ずっと、その小皿の出汁の味を、舌の上で思い返していた。立花さんの言葉と一緒に。


気づいたら、私は、毎晩の九時を、待つようになっていた。

仕事が早く終わった日でも、わざわざ食堂が開く時間まで、デスクで時間をつぶした。立花さんに会うためだ、と認めるのが、最初は恥ずかしかった。けれど、もう、ごまかせなかった。

味が戻ってきたのは、彼の料理のおかげだ。それは間違いない。でも、私が夜の食堂に降りるのは、もう、味のためだけじゃなかった。

カウンターの奥で、黙々と手を動かす、その後ろ姿。私が来ると、ちゃんと顔を上げて頷く、その瞬間。「おかわり、いりますか」と聞く、ぶっきらぼうな声。そのぜんぶが、擦り切れた私の一日の、いちばん柔らかい場所になっていた。

紺野千夏(……これ、たぶん、もう、料理の話じゃない)

ある夜、葵が、給湯室で、にやにやしながら言った。

「千夏、最近、顔色よくなったよね。ちゃんと食べてる?」

紺野千夏「……まあ、ぼちぼち」

「ふうん。食堂の、あの板前さんのおかげ?」

紺野千夏「……っ」

図星をつかれて、私は固まった。葵が、楽しそうに笑った。

「わかりやすすぎ。……いいじゃん。あの人、無愛想だけど、千夏のこと、ちゃんと見てる気がするよ。この前、千夏が階段でつまずいたとき、厨房の中から、すごい勢いで顔上げてたもん」

紺野千夏「……見間違いでしょ」

「どうかなあ」

その夜、私は、いつもより念入りに、髪を直してから、食堂に降りた。自分でも、現金だと思った。


新商品の、社内試食会の日がやってきた。

半年、心血を注いだ、和惣菜シリーズの最終ジャッジ。役員の前で、私が一品ずつ説明しながら、味を見てもらう。その朝、私は、ほとんど眠れていなかった。連日の追い込みで、舌は、また、遠くなりかけていた。

紺野千夏(……お願い。今日だけは。ちゃんと、味が、わかって)

けれど、試食会が始まると、緊張で、頭が真っ白になった。役員のひとりが、私の自信作の煮物を口に運んで、眉をひそめた。

「……紺野さん。これ、出汁、ぼやけてないか? 君が、最終チェックしたんだよね」

血の気が引いた。私は、自分のスプーンで、その煮物を口に運んだ。けれど、しびれた舌は、何も教えてくれなかった。ぼやけているのか、いないのか。わからない。わからないことが、何より怖かった。

その日、試食会は、再調整、ということで持ち越しになった。私は、自分のデスクで、しばらく動けなかった。

夜、私は、ふらふらで食堂に降りた。立花さんは、私の顔を見て、何かを察したらしかった。何も聞かずに、いつもの席に、座らせてくれた。

立花諒「……今日は、味噌汁に、しときます。何も、聞かないんで」

紺野千夏「……立花さん」

立花諒「はい」

紺野千夏「私、わからなかったんです。今日、大事な試食会で。出汁が、ぼやけてるって言われて。……でも、私の舌、何も、わからなかった」

言いながら、涙がこぼれた。彼の前でだけは、強がらなくていい気がした。立花さんは、カウンターを出て、私の隣の席に、静かに腰を下ろした。

立花諒「……紺野さん。味は、舌だけで、感じるもんじゃないです」

紺野千夏「……え」

立花諒「疲れてたら、誰だって、わからなくなる。それは、舌が壊れたんじゃない。……あなたが、頑張りすぎてるだけです」

彼は、私の前に、味噌汁の椀を置いた。湯気が、ゆらりと立ちのぼる。

立花諒「ゆっくり、飲んでください。今日は、味のことは、考えなくていいんで。……ただ、温かいなって、思ってくれたら」

私は、椀を、両手で包んだ。じんわりと、手のひらに熱が伝わる。一口飲むと、やっぱり、味よりも先に、温かさが、胸に沁みた。

紺野千夏「……温かい、です」

立花諒「……それで、十分です」

その「それで十分」が、ずっと張りつめていた何かを、ほどいてしまった。私は、彼の肩に、額を寄せて、声を殺して泣いた。立花さんは、何も言わずに、ただ、そこにいてくれた。


その年の、初雪の夜だった。

試食会の再調整も、なんとか乗り切って、シリーズの発売が決まった。報告したくて、私はその夜、食堂に降りた。窓の外を、ふわり、ふわりと、白いものが落ちていた。

紺野千夏「立花さん。決まりました。あの惣菜、発売。……立花さんのおかげです」

立花諒「……俺は、何も。紺野さんが、頑張ったからです」

紺野千夏「ううん。立花さんが、私の舌、生きてるって、言ってくれたから」

立花さんは、少し照れたように、目を伏せた。それから、調理服を脱ぎながら、めずらしく、ためらいがちに、こう言った。

立花諒「……紺野さん。あの。ここの賄いじゃ、ちゃんとしたもの、作れないんで」

紺野千夏「え?」

立花諒「……もし、よかったら。今度、俺の家で。ちゃんと、出汁から引いた、まともな飯、食べませんか。……あなたに、食べさせたくて。ずっと」

ずっと。その一言に、胸が、大きく跳ねた。これは、たぶん、料理の話じゃない。私も、もう、わかっていた。

紺野千夏「……今夜は、だめ、ですか」

立花諒「え」

紺野千夏「初雪だし。……今夜が、いいです。立花さんの、作るところ、見たい」

立花さんが、驚いた顔で私を見て、それから、小さく頷いた。


立花さんの部屋は、会社から、歩いて十五分のところにあった。

古いアパートの一室。けれど、台所だけは、きれいに使い込まれていた。年季の入った包丁が、何本も、整然と並んでいる。彼が、鍋に、昆布を沈めて、火にかける。私は、その背中を、椅子から、ずっと眺めていた。

雪のせいで、部屋の外は、しんと静かだった。出汁の香りが、ゆっくりと、狭い部屋に満ちていく。

紺野千夏「……いい匂い」

立花諒「もうすぐ、鰹、入れます。……紺野さんに、いちばんおいしいとこ、飲んでほしくて」

彼が、引いたばかりの出汁を、小皿に注いで、私に差し出した。私は、口に含んだ。舌の上で、ゆっくり、転がす。

深い。澄んでいて、でも、奥に、ずっしりとした旨みがある。味が、する。ちゃんと、私の、いちばん奥まで、届く。

紺野千夏「……立花さん。私、わかります。これ。ちゃんと、わかる」

涙声になった私を、立花さんが、火を止めて、振り返った。私は、椅子から立ち上がって、彼の前に進んだ。

紺野千夏「……あなたのおかげで、私、味が、戻ったんです。仕事も、舌も。……でも、それだけじゃ、ないんです」

立花諒「……紺野さん」

紺野千夏「毎晩、九時を、待ってました。料理のためじゃなくて。立花さんに、会いたくて。……好きです。立花さんが」

言ってしまった。雪の夜の、出汁の匂いの中で、もう、止められなかった。

立花さんは、しばらく、私を見つめていた。それから、ゆっくりと、私の頬に手を伸ばした。大きくて、少し節くれだった、料理人の手。

立花諒「……俺も、です。あの『でも』の続き、覚えてますか」

紺野千夏「……はい」

立花諒「誰のために作るとか、考えなくていい場所が、よかった。……でも、いつのまにか、あなたのために、作ってました。九時が、待ち遠しかった。……俺も、同じです」

彼の手が、私の頬を、そっと包む。私は、逃げなかった。逃げたくなかった。彼の顔が、ゆっくり近づいて、私は、目を閉じた。

唇が、重なる。

紺野千夏「ん……」

少し乾いた、けれど、温かい唇。かすかに、出汁の、優しい匂いがした。一度離れて、目を合わせて、もう一度、今度は、少し深く。

ちゅ……ちゅっ……

紺野千夏「は……立花、さん……」

立花諒「……諒で。名前で、呼んでください」

紺野千夏「……諒、さん」

名前を呼ぶと、彼の腕が、私の背中に回って、ぎゅっと抱き寄せられた。料理人の、しっかりとした腕。冷えた私の体に、彼の体温が、じんと沁みてくる。


立花諒「……紺野さん。やめてほしかったら、言ってください」

紺野千夏「……千夏、です」

立花諒「え」

紺野千夏「私も、名前で。……それと、やめないで、ください」

自分でも驚くくらい、はっきり言えた。諒さんが、ふっと息を漏らして、私を、奥の部屋の、小さなベッドへ、そっと導いた。窓の外は、しんしんと降る雪。誰も来ない、二人きりの、温かい部屋。

唇を重ねながら、彼の手が、私のニットの裾から、おそるおそる、入ってくる。

紺野千夏「ん……っ」

立花諒「……手、冷たくないですか」

紺野千夏「……ちょっと。でも、すぐ、温かくなる」

二人して、ちょっと笑った。緊張しているのが、お互い伝わって、それが、なんだか愛おしかった。彼の手のひらが、私の背中を、ゆっくり撫で上げていく。料理のときと同じ、丁寧で、確かな手つきで。

れろ……ちゅ……

紺野千夏「ん……ふ……っ」

ニットを脱がされて、ブラごしに、彼の手が、そっと胸に触れた。

紺野千夏「あ……っ」

立花諒「……痛く、ないですか」

紺野千夏「いた……くない、です……」

恥ずかしくて、私は顔を背けた。薄明かりの中で、自分の肌が晒されていくのが、どうしようもなく心許ない。でも、彼の手つきが、壊れ物を扱うみたいに優しくて、その優しさに、体の力が、少しずつ抜けていった。

ブラのホックが外されて、胸が、彼の前にこぼれる。諒さんは、それを、そっと手で包んだ。

立花諒「……きれいです」

紺野千夏「やだ……見ないで……」

立花諒「……見たいです。だめ、ですか」

その聞き方が、ずるい。私は何も言えなくなって、こくんと、小さく頷いた。彼の指が、つんと立ちはじめた先端を、そっとかすめる。

紺野千夏「ひゃ……っ、そこ……っ」

立花諒「……ここ?」

紺野千夏「……っ、変な、声、出ちゃう……」

口では恥ずかしがるのに、彼が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

紺野千夏「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。雪の夜の、静かな部屋で、と頭の隅で思ったけれど、もう止められなかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私のスカートの中、太腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。

紺野千夏「ん……っ♡」

立花諒「……力、抜いて。千夏さんの、ペースで」

その声に、自然と、体がほどけた。いつも、私の擦り切れたペースに、黙って付き合ってくれた人。今も、私のリズムに、ちゃんと合わせてくれている。彼の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れた。

紺野千夏「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが熱くなっているのが、自分でも分かった。やがて下着がずらされて、彼の指が、直接、そこに触れる。

くちゅ、と。

紺野千夏「ひゃ……っ♡」

立花諒「……濡れてます」

紺野千夏「言わないで……っ♡ キス、のときから……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、彼の指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でられて、私は、彼の腕にしがみついた。

くちゅ……くちゅ……

紺野千夏「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」

立花諒「……気持ち、いいですか」

紺野千夏「……っ♡ うん……っ♡」

指が、ゆっくり、中へ入ってくる。

ずぷ……っ

紺野千夏「ん……あぁ……っ♡」

熱い。彼の指が、私の中を、こわごわ、けれど確かめるように、広げていく。胸の先と、下の突起と、中を、同時に、優しく可愛がられて、私は、もう、何も考えられなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

紺野千夏「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」

立花諒「……いいですよ。そのまま」

紺野千夏「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」

指の動きが速くなって、私の体は、高みへ、押し上げられた。

紺野千夏「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。彼の腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。

立花諒「……大丈夫ですか」

紺野千夏「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」

息を切らせる私の額に、汗で張りついた前髪を、諒さんが、そっとよけてくれた。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。


紺野千夏「……諒さん」

立花諒「はい」

紺野千夏「……最後まで、してほしい、です。諒さん、となら」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人となら、言えた。諒さんが、ごくりと、喉を鳴らす。

立花諒「……無理は、しないでください」

紺野千夏「無理じゃ、ない。私が、したいの」

彼は、引き出しから、小さな包みを取り出した。ちゃんと用意があったことに、なんだか、胸が温かくなる。こういうところまで、この人は、誠実だ。

立花諒「痛かったら、すぐ言ってください。……止めるんで」

紺野千夏「……うん」

小さなベッドの上で、諒さんが、私に、そっと覆いかぶさってくる。脚の間に体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口に、あてがわれた。

立花諒「……いきます。ゆっくり」

紺野千夏「……はい……っ」

ずぷ……っ♡

紺野千夏「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、私の中が、彼を受け入れていく。

ずず……っ

紺野千夏「っ……ぁ……っ」

立花諒「……止めます?」

紺野千夏「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」

諒さんは、私の様子を窺いながら、ほんの少しずつ、進んでくる。途中で何度も止まって、私の額にキスをして、また、少し進む。その気遣いに、苦しさが、だんだん、別のものに変わっていった。

やがて、根元まで、彼が収まった。繋がった場所から、じんわりと、熱が広がっていく。

紺野千夏「……入って、る……?」

立花諒「……はい。全部」

紺野千夏「……繋がってるんだ、私たち……」

胸がいっぱいになって、涙がにじんだ。毎晩、カウンターを挟んで、向き合うだけだった人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。諒さんが、私の涙を、指で、そっと拭った。

立花諒「……動いて、平気ですか」

紺野千夏「うん……っ。来て、諒さん……っ」

彼が、ゆっくり、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

紺野千夏「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」

最初は、私の体を気遣う、本当にゆっくりとした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。苦しさの奥から、じわじわと、知らない感覚が、芽生えてくる。

立花諒「……痛く、ないですか」

紺野千夏「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」

立花諒「気持ち、よくなってきました?」

紺野千夏「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、諒さんの、好き……っ♡」

口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちもだった。

諒さんの額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちる。無口な人が、私の名前を、何度も、呼んでくれた。

立花諒「千夏さん……千夏」

紺野千夏「……っ♡ 名前……」

立花諒「千夏。……ずっと、呼びたかった」

名前で呼ばれて、胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。繋がりながらキスをするのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。

ぱちゅ……ぱちゅ……

紺野千夏「ん……っ♡ ふ……っ♡」

立花諒「千夏。……俺、あの食堂、続けます。あなたが、毎晩、降りてこられるように」

紺野千夏「……っ♡♡」

立花諒「でも、休みの日は。……ここで、ちゃんとした飯、作らせてください。あなたに」

紺野千夏「……っ♡♡ うん……っ♡ 食べる……っ♡ 毎日でも……っ♡」

その約束が、繋がった場所から、体の芯まで、沁みていく。律動が、少しずつ、深くなった。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

紺野千夏「あっ♡ あっ♡ 諒さん……っ♡ なんか、また……っ♡」

立花諒「……俺も、そろそろ」

紺野千夏「一緒が、いい……っ♡ 諒さんと、一緒……っ♡」

諒さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ、速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡

紺野千夏「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 諒さん……っ♡♡」

立花諒「……っ、千夏……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

紺野千夏「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。諒さんが、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。

紺野千夏「……はぁ……っ、諒さん……」

立花諒「……千夏。痛く、なかったですか」

紺野千夏「……ちょっと、痛かった。……でも、それより、ずっと、幸せでした」

諒さんが、私の汗ばんだ額に、何度も、キスを落とした。


小さな窓の外で、雪は、まだ静かに降っていた。

私は、諒さんの腕に頭を預けて、ぼんやりと、外を眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと、鳴っている。冷えていたはずの体は、いつのまにか、芯まで、温かかった。

紺野千夏「……諒さん。出汁、火、止めたまんまですよ」

立花諒「……あ」

紺野千夏「ふふ。せっかく、いちばんおいしいとこ、引いてくれたのに」

立花諒「……温め直します。あとで。ちゃんと、飲ませますんで」

私たちは、しばらく、そうしていた。やがて、諒さんが、起き上がって、台所へ立った。私も、彼のシャツを借りて、後ろから、その背中を眺めた。鍋を温め直して、彼が、お椀に、出汁を張る。具を入れて、味噌を溶いて、最後に、刻んだ葱を散らす。

差し出された味噌汁を、私は、両手で包んで、一口、飲んだ。

紺野千夏「……あ」

立花諒「どう、ですか」

紺野千夏「……わかる。ちゃんと、わかります。出汁も、味噌も、葱の香りも。……全部」

涙が、ぽろりとこぼれた。味がわからなくなって、自分の仕事も、自分自身も、見失いかけていた、半年前の私には、想像もできなかった。こんなに、温かくて、はっきりした味を、また、感じられる日が来るなんて。

立花諒「……千夏さん」

紺野千夏「はい」

立花諒「あなたの作った惣菜も、いつか、食べさせてください。レンジで、チンするやつ。……俺、楽しみにしてるんで」

紺野千夏「……っ。はい。発売したら、いちばんに」

私は、笑って、頷いた。私の作る、何万人の食卓に届く味と、彼の作る、私ひとりのための味。そのどちらも、これからは、私のそばにある。

紺野千夏「ねえ、諒さん」

立花諒「はい」

紺野千夏「明日も、九時に、食堂、降りていいですか」

立花諒「……もちろん。待ってます。いつもの席、空けときます」

窓の外の雪が、街の灯りを、やわらかく、にじませていた。私は、もう一口、味噌汁を飲んだ。温かさが、舌の上で、ちゃんと、味になって、胸の奥まで、まっすぐ、届いた。

紺野千夏「……いただきます」

その「いただきます」を、私は、半年ぶりに、心から、言えた気がした。

― 終 ―


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