壊れたものは、捨てればいい。
僕、笠原透(かさはら とおる)、二十九歳。文具メーカーの営業をしている。気に入らなくなったもの、欠けたもの、古びたものは、さっさと手放して、新しいのを買う。そのほうが速いし、安いし、悩まなくていい。スマホも、靴も、たぶん、人付き合いも、ずっとそうやってきた。
修理に出すより、買い替えたほうが安いんですよ——仕事でもよく、お客にそう言う。実際、たいていのものは、そうだ。
そんな僕が、たった一つの欠けたマグカップを、どうしても捨てられなかった夜の話を、書こうと思う。
1. 捨てられなかったマグカップ
そのマグカップは、社会人になった年に、雑貨屋で千円ちょっとで買った、なんの変哲もないやつだった。
ぽってりした、くすんだ青いカップ。取っ手が、指三本でちょうど握れる。十年、毎朝これでコーヒーを飲んできた。残業で潰れそうな夜も、転職に迷った朝も、ずっとこいつだった。気づけば、家にある中で、いちばん長く一緒にいるものになっていた。
それを、その夜、流しで洗っている最中に、蛇口にぶつけた。
かつん、と乾いた音がして、縁が、三日月みたいに、欠けた。
笠原透(……あー、やっちゃった)
いつもの僕なら、それで終わりだった。割れたものは捨てる。明日、コンビニでも雑貨屋でも、似たようなのはいくらでも買える。僕は、欠けたカップを、ゴミ箱の上に持っていった。
手が、止まった。
なぜか、指が、それを落とさなかった。三日月の欠けの断面が、蛍光灯の下で、妙に白く光っている。十年、毎朝口をつけてきた縁。捨てる、という、いつもなら一秒で済む動作が、その夜だけ、どうしてもできなかった。
僕は、欠けたカップを、流しの横に戻した。それから、なんとなくスマホで「欠けた 食器 直す」と打ち込んだ。
出てきたのが、「金継ぎ」という言葉だった。
漆で接いで、割れ目を、金で見せる。隠すんじゃなくて、傷を、景色にする——そんな説明が並んでいた。検索を続けるうちに、家から電車で二駅の古い工房で、年末に、初心者向けの金継ぎ教室をやっている、というのを見つけた。
全六回。漆が乾くのを待つから、週に一度、十二月いっぱいかけて、一つの器を直す。
買い替えれば千円のものに、ずいぶんな手間と金をかけることになる。僕の理屈では、まったく、割に合わない。それでも、僕は気づいたら、申し込みのボタンを押していた。
2. 漆の匂いのする部屋
最初の土曜、教えられた住所に着くと、商店街のはずれの、古い二階建ての一階だった。
ガラス戸を開けると、つん、と独特の匂いがした。あとで知ったけれど、それが、生の漆の匂いだった。木の作業台が並んだ部屋に、白髪を短く刈った、小柄なおじいさんが座っていた。
梶井先生「いらっしゃい。笠原さんね。……手、かぶれるかもしれんよ。漆は、人を選ぶからな」
それが、梶井(かじい)先生だった。漆を六十年やってきた、という。口は悪いが、目元の笑い皺が深い人だった。先生は、僕の欠けたマグカップを手に取って、ためつすがめつ眺めると、ふん、と鼻を鳴らした。
梶井先生「ふうん。ええカップだ。よう使い込んどる。……あんた、これ、ずっと使ってきたんだろう」
笠原透「……はい。十年、毎朝」
梶井先生「そういうもんは、直す価値がある。新品にゃ、その十年は入っとらんからな」
その日、生徒は、僕を入れて四人だった。そのうちの一人が、僕の隣の席に座っていた。
紺色のエプロンをした、同じくらいの歳の女の人。長い髪を、後ろで無造作にまとめている。作業台の上に、小さな白い布を敷いて、その上に、藍色の蕎麦猪口(そばちょこ)を、五つ、ていねいに並べていた。そのうちの一つが、真っ二つに割れていた。
笠原透「それ……割れてるの、直すんですか」
声をかけると、彼女は顔を上げて、ちょっと驚いたように、それから、にこっと笑った。
羽鳥七海「はい。これ、ぜんぶ割れてて。……あ、いえ、割れてるのは一個だけなんですけど。五個セットで、一個だけ欠けると、なんだか、残りも使えなくなっちゃって」
笠原透「……ああ、わかる気がします。僕も、それで、ここに」
羽鳥七海「ですよね。捨てればいいのに、捨てられない。同じ病気ですね、わたしたち」
羽鳥七海(はとり ななみ)さん、と名乗った。よく笑う人で、笑うと、左の頬に、小さなえくぼができた。
3. 麦漆で継ぐ
最初の回は、ひたすら、割れた断面を、漆で接ぐ作業だった。
漆に、小麦粉を練り込んで、麦漆(むぎうるし)という、茶色い接着剤を作る。それを、割れた面に、爪楊枝で、薄く、薄く塗っていく。厚塗りは厳禁、と先生に何度も言われた。はみ出した分は、あとで全部、削って落とさなきゃいけない。
僕の手は、ぜんぶ、雑だった。営業で、書類をばさばさ捌くのと同じ調子で、つい、速く、多く、塗ってしまう。
梶井先生「笠原さん。漆は、急かしても、一秒も速く乾かんよ。あんたのその、せっかちは、ここでは全部、無駄になる」
ぴしゃりと言われて、僕は耳が熱くなった。隣を見ると、七海さんは、まるで違った。
割れた蕎麦猪口の断面に、息を詰めるみたいにして、ほんのひと筋ずつ、漆をのせている。割れた二つのかけらを、そっと合わせて、ずれていないか、何度も、横から覗き込む。その横顔が、教室に入ってきたときの、よく笑う人とは、別人みたいに、静かだった。
笠原透「……すごい集中力ですね」
羽鳥七海「あ……すみません、わたし、これになると、無口になるみたいで。職場では、しゃべりっぱなしなのに」
笠原透「職場、なんのお仕事ですか」
羽鳥七海「小学校の先生です。二年生の担任。……一日じゅう、二十八人に囲まれて、ずーっと声出してるから。だから逆に、こういう、誰ともしゃべらないで、ちまちま手を動かす時間が、すごく、好きで」
接ぎ終えた器は、その日、先生が「風呂(むろ)」と呼ぶ、湿らせた木の箱の中にしまわれた。漆は、乾いた場所では固まらない。湿気のある暗がりで、何日もかけて、ゆっくり硬くなる。
梶井先生「来週まで、こいつは、ここで寝とる。あんたらは、家で、首を長くして待っとればいい」
帰り道、商店街のアーケードを、七海さんと並んで歩いた。十二月の風が冷たくて、彼女は、マフラーに顎を埋めていた。
羽鳥七海「来週、ちゃんと、くっついてるといいですね。お互いの」
笠原透「……ですね。なんか、子どもの工作の続きが気になる、みたいな気分です」
羽鳥七海「あはは、それ、わかります。月曜の図工、みたいな」
駅で別れるとき、また来週、と、彼女は手を振った。その「また来週」が、僕は、思いのほか、楽しみになっている自分に気づいた。
4. 待つあいだ
金継ぎは、待つ時間のほうが、ずっと長い。
塗っては、乾かす。削っては、また塗る。一回の教室でできる作業は、ほんの少しで、あとは、風呂の中で漆が固まるのを、ただ待つ。十年、修理より買い替えを選んできた僕には、その「待つ」が、最初、どうにも、もどかしかった。
二回目の教室の帰り、どちらからともなく、商店街の古い喫茶店に寄った。
羽鳥七海「あの蕎麦猪口、祖母のなんです」
七海さんは、温かいミルクティーを両手で包んで、ぽつりと言った。
羽鳥七海「去年、亡くなって。物を片付けてたら、出てきて。祖母が、夏にいつも、これでそうめんのつゆ、出してくれたんです。五人きょうだいで集まると、ちょうど、五つ。……でも、わたし、引っ越しのときに、自分で、一個、割っちゃって」
笠原透「……それは」
羽鳥七海「捨てようとしたんですよ。割れたの一個だけ。でも、そしたら、四つになっちゃうでしょう。五人で囲んだ食卓が、もう、戻らなくなるみたいで。……どうしても、捨てられなくて」
僕は、自分の、欠けた青いマグカップのことを思った。あの夜、ゴミ箱の上で止まった、指のことを。
笠原透「……僕も、似てるかもしれない。僕、ほんとは、なんでもすぐ捨てる人間なんです。壊れたら買い替える。修理は割に合わないって、お客にも言ってる。……なのに、あのカップだけ、どうしても、捨てられなかった」
羽鳥七海「ふふ。じゃあ、あのカップは、笠原さんにとって、特別だったんですね。本人も、気づいてなかっただけで」
そう言われて、僕は、なんだか、胸の奥を、そっと言い当てられた気がした。十年、毎朝、口をつけてきた縁。買い替えればいいと、ずっと思ってきたのに、いざ捨てようとして、できなかった。理屈じゃない何かが、たしかに、あそこに、溜まっていたのだ。
羽鳥七海「金継ぎって、たぶん、その逆の練習なんですよ」
笠原透「逆?」
羽鳥七海「捨てる、の。割れたところを、なかったことにして、新しいのに替えるんじゃなくて。割れたまんま、ちゃんと向き合って、時間かけて、継ぐ。……わたし、それが、やってみたかったのかも」
ミルクティーの湯気の向こうで、彼女が、また、えくぼを見せて笑った。その笑顔を、もっと見ていたいと、僕は、はっきり思った。
5. しくじりと、励まし
三回目の教室で、僕は、見事に、しくじった。
固まった麦漆のはみ出しを、彫刻刀みたいな道具で削る作業。先生に「少しずつ」と言われたのに、僕は、つい、ぐっと力を入れて、削りすぎた。継ぎ目の脇の、釉薬まで、白く、えぐってしまった。
笠原透「……あ」
血の気が引いた。十年使ったカップに、新しい傷を、自分で、つけてしまった。とっさに、いつもの考えが、頭をよぎる。——あー、もう駄目だ。これだから修理は。やっぱり、買い替えりゃよかった。
そのとき、隣から、七海さんが、ひょいと覗き込んだ。
羽鳥七海「あ、やっちゃいました? ……だいじょうぶ、だいじょうぶ」
笠原透「いや、でも、これ、釉薬まで……もう、傷が」
羽鳥七海「先生ー! 笠原さんが、削りすぎちゃったって」
呼ばれた梶井先生が、のそりと来て、僕のカップを覗き込んだ。そして、こともなげに、言った。
梶井先生「ああ、これな。錆漆(さびうるし)で、埋めりゃええ。漆に、砥の粉(とのこ)、混ぜてな。傷も、欠けも、ぜんぶ、漆が埋める。……金継ぎってのはな、笠原さん。失敗を、なかったことにする技術じゃない。失敗ごと、抱えて、きれいにする技術だ」
先生は、そう言って、僕の肩を、ぽん、と叩いて、戻っていった。
七海さんが、自分のことみたいに、ほっとした顔で、笑った。
羽鳥七海「ね。だいじょうぶでしょ。……むしろ、ここ、削れたぶん、あとで金がのったら、きっと、いちばんきれいな景色になりますよ」
笠原透「景色?」
羽鳥七海「先生が言ってた。継ぎ目の模様のこと、『景色』って呼ぶんですって。割れ方は、一つひとつ違うから、同じ景色は、二つとない。……失敗した分だけ、世界に一個の景色になる、って」
僕は、白くえぐれた傷を、もう一度、見た。さっきまで、それは、ただの「失敗」だった。でも、七海さんの言葉のあとでは、それが、これから金で縁取られる、世界に一つの「景色」に見えはじめていた。
ものを、買い替えてばかりの僕の人生には、たぶん、ひとつも、景色がなかった。
6. 漆を塗る
四回目、五回目。教室は、下塗り、中塗りと、漆を重ねる段階に入った。
接いだ継ぎ目の上に、細い筆で、黒い漆を、一本の線にして、塗っていく。乾かして、研いで、また塗る。線は、回を追うごとに、滑らかに、艶を増していった。
塗りの作業は、息を止めるくらいの集中がいる。僕も、いつのまにか、隣の七海さんと同じように、無口になっていた。二人とも、筆の先だけを見つめて、何分も、言葉がない。それでも、その沈黙が、ちっとも、気まずくなかった。同じ作業台で、同じ匂いの中で、同じ時間が、静かに流れていく。それが、心地よかった。
ふと、七海さんの筆が、止まった。
羽鳥七海「……ねえ、笠原さん。手、見せて」
笠原透「え?」
羽鳥七海「やっぱり。かぶれてる。ここ、手首のとこ、赤くなってる」
言われて見ると、たしかに、左の手首が、ぽつぽつと赤く、痒みが出ていた。先生に、最初に言われたとおりだ。漆は、人を選ぶ。
七海さんが、自分のポーチから、小さな軟膏を出して、僕の手首に、ちょん、とのせた。指先が、僕の肌に触れた。ひんやりして、やわらかかった。
羽鳥七海「わたしも、最初の年、ひどくかぶれたんです。だから、いつも持ってて。……つけときますね」
笠原透「……すみません。なんか、いつも、助けてもらってる」
羽鳥七海「ふふ。先生だから。世話、焼くの、癖なんです」
笠原透「……二年生の?」
羽鳥七海「あはは。笠原さんも、わたしの生徒ってこと?」
軟膏をのせた指先が、もう一度、手首を、そっと撫でた。たったそれだけの触れ方なのに、痒みより、その温度のほうが、ずっと長く、肌に残った。
帰り道、アーケードに、気の早いクリスマスの飾りが灯っていた。年の瀬の空気が、街を、せかせかと、駆け抜けていく。その中で、僕と七海さんだけが、漆が乾くのを待つみたいに、ゆっくり歩いていた。
羽鳥七海「次で、最後ですね。……金、蒔く回」
笠原透「終わっちゃいますね。教室」
羽鳥七海「……ちょっと、寂しいですね」
その「寂しい」が、教室が終わることなのか、それとも、と、僕は、自分に都合よく考えそうになって、慌てて、口を閉じた。
7. 金を蒔く夜
最後の、六回目。年も押し詰まった、十二月の終わりの土曜だった。
その日は、仕上げの回だった。継ぎ目の黒い線の上に、弁柄(べんがら)という、赤茶色の漆を、薄く塗る。それが、半乾きの、いちばんいい頃合いになったところで——金粉を、蒔く。
梶井先生「金は、高い。だから、いっぺんしか、勝負できん。漆が乾く前の、ほんの短い間に、ぜんぶ、決める。……あんたらの、待った時間の、ぜんぶが、ここに、のる」
先生が、小さな包みを開いた。中に、ほんとうの金の粉が、淡く、光っていた。
僕は、息を詰めて、真綿(まわた)の先に、金粉を含ませた。弁柄を塗った継ぎ目の線に、それを、そっと、撫でつけていく。赤茶色の線が、撫でるそばから、しん、と金色に変わっていく。
十年使った、青いマグカップ。欠けた三日月。僕が削りすぎて、えぐってしまった傷。そのぜんぶが、今、金の線で、つながっていった。
笠原透「……すごい」
思わず、声が漏れた。隣を見ると、七海さんも、自分の蕎麦猪口に、金を蒔き終えたところだった。真っ二つに割れていた藍色の器の、その割れ目に、一本の金の川が、流れていた。
羽鳥七海「……戻った。五個。……おばあちゃんの」
七海さんの目が、潤んでいた。彼女は、金の継ぎ目を、指で、そっとなぞった。
梶井先生「ようできた。二人とも。……継いだもんは、割れる前より、丈夫になる。割れたとこを、いちばん大事にするからな。……まあ、夫婦もんと、おんなじだ」
先生が、にやりと笑って、そう言うと、奥の部屋へ引っ込んだ。あとは、もう一度だけ風呂で乾かして、年明けに磨けば、完成だという。
二人だけになった作業台で、僕と七海さんは、しばらく、それぞれの器を、見つめていた。金の線が、夕方の、低い光に、にぶく光っていた。
羽鳥七海「……笠原さん。教室、終わっちゃいましたね」
笠原透「……うん」
笠原透「七海さん。……俺、教室、終わっても、あなたに、会いたいです」
言ってから、心臓が、跳ねた。十年、壊れたものを捨てるみたいに、人付き合いも、深くなる前に、いつも、手放してきた。こんなふうに、続けたい、と、自分から言ったのは、いつ以来か、思い出せなかった。
七海さんは、金の蕎麦猪口を、そっと布の上に置いて、こちらを向いた。えくぼが、消えていた。静かな、まっすぐな目だった。
羽鳥七海「……わたしも。教室の日が終わるの、ずっと、嫌だなって、思ってました。笠原さんに、会えなくなるのが」
漆の匂いのする、暗くなりかけた部屋で、僕は、彼女の手を取った。金粉の、かすかにざらついた指先だった。
8. 継ぎ目に触れる
どちらからともなく、顔を寄せて、唇を重ねた。
ちゅ、と。
羽鳥七海「……ん」
一度離れて、目を合わせて、もう一度。窓の外で、年の瀬の風が、商店街のアーケードを、鳴らしている。日がな子どもたちに囲まれて声を張っている人が、僕の腕の中で、こんなに静かに、こんなにやわらかく、息をしているのが、信じられなかった。
羽鳥七海「は……っ、笠原、さん……」
笠原透「……透で、いい。名前で、呼んで」
羽鳥七海「……透、さん」
唇の隙間から舌が触れて、七海さんが、おずおずと、それに応える。手を伸ばして、彼女の髪をまとめていたゴムを、そっと外した。長い髪が、はらりと、肩に落ちた。
笠原透「……奥に、座敷、あるって、先生、言ってた」
羽鳥七海「……うん。今日は、もう、先生、上に上がっちゃったって」
作業場の奥の、古い畳の小部屋。襖を閉めると、漆の匂いと、乾いた藺草(いぐさ)の匂いが、混ざった。七海さんを座らせて、隣に腰を下ろす。豆電球みたいな、小さな灯りだけが、彼女の頬を、淡く照らしていた。
笠原透「緊張してる?」
羽鳥七海「……してます。だって。……金継ぎ教室で、こんなことになると、思わないでしょ」
笠原透「それ、今、言うこと?」
羽鳥七海「……でも。透さんで、よかった。……隣の席が、透さんで」
その一言で、胸の奥が、熱くなった。もう一度、唇を重ねる。今度のキスは、さっきより深くて、もっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
羽鳥七海「ん……ふ……っ」
キスをしながら、彼女のニットの裾から、手を入れる。あたたかい、なめらかな背中。指が背骨をなぞると、七海さんの体が、ぴくんと震えた。
笠原透「……すごく、あったかい」
羽鳥七海「もう……っ、いちいち、言わないで……っ」
口では拒むのに、彼女の腕は、僕の首に、そっと回っていた。ニットを、頭から、ゆっくり脱がせる。下着に包まれた胸が、淡い灯りの下に、こぼれた。
羽鳥七海「……あんまり、見ないで」
笠原透「無理です。……きれいだから」
ホックを外すと、胸が、ふるりと、灯りの下に現れた。僕の手が、それを、そっと包む。
羽鳥七海「あ……っ」
形を確かめるように揉むと、七海さんは、口元を、手の甲で押さえた。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体が、びくっと跳ねる。
羽鳥七海「ひゃ……っ、そこ……っ」
笠原透「ここ?」
羽鳥七海「っ……意地悪、しないで……っ」
弱々しく拒むその声を聞いて、僕は、先端を、そっと口に含んだ。舌で転がすと、もう、だめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
羽鳥七海「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
教壇でいつも張っているはずの声が、甘く、勝手に漏れる。この声を聞けるのは、たぶん、世界で僕だけだ。そう思うと、たまらなかった。
9. 年の瀬の夜に
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、スカートの裾から、火照った腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
羽鳥七海「ん……っ♡」
笠原透「力、抜いて。……痛くしない」
その声に、七海さんの体から、少しずつ、力が抜けた。下着の上から、いちばん敏感なところに触れる。
羽鳥七海「あっ……♡」
布越しでも、もう、そこが熱を持っているのが、わかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れる。下着を脇によけて、直接そこに触れると——
くちゅ、と。
羽鳥七海「ひゃ……っ♡」
笠原透「……もう、こんなに」
羽鳥七海「言わないで……っ♡ 透さんの、せいだから……っ」
恥ずかしさで消えそうな顔をして、それでも七海さんは、僕の腕に、しがみついてきた。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でると、彼女の腰が、跳ねた。
くちゅ……くちゅ……
羽鳥七海「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
笠原透「七海さん、すごい顔してる。……可愛い」
羽鳥七海「やっ……見ないで……っ♡」
指が、ゆっくり、中へ滑り込んでいく。
ずぷ……っ
羽鳥七海「あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろに濡れていた。襖の外で、古いストーブが、しゅう、と低く鳴っている。弱い場所を指の腹で擦りながら、親指で突起を転がすと、七海さんの体は、もう、自分では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
羽鳥七海「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
笠原透「いいよ。イって」
羽鳥七海「やっ♡ 恥ずかしい……っ♡♡」
指の動きを速めると、七海さんの体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。
羽鳥七海「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、彼女が、僕の腕の中で、ぎゅっと、体を丸めた。息を切らせる七海さんの額に、汗で張りついた前髪を、指でよけて、そっとキスを落とす。
羽鳥七海「……ねえ、透さん」
笠原透「ん」
羽鳥七海「わたしばっかり、ずるい。……透さんも、来て」
静かな口ぶりなのに、声は、甘く震えていた。僕がシャツを脱ぐと、七海さんが、ぼうっと、それを見ていた。彼女をそっと畳に横たえて、覆いかぶさる。脚の間に体を割り込ませて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがった。
笠原透「……つけるから、待ってて」
羽鳥七海「……うん」
避妊具をつける僕を、七海さんが、潤んだ目で見ていた。こんな夜でも、ちゃんと手順を守る僕を、彼女が、ふっと笑った。
羽鳥七海「……そういうとこ。透さん、漆塗るときと、おんなじ。……省かないんだ」
笠原透「……あなたを、大事にしたいだけです」
もう一度、頬に手を添える。
笠原透「いくよ」
羽鳥七海「……優しく、して。……ひさしぶり、だから」
ずぷ……っ♡
羽鳥七海「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、七海さんが、僕の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きいのが、わかった。
ずず……っ
羽鳥七海「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
笠原透「……っ、七海さんの中、すごく、熱い」
根元まで収まって、僕は、ふっと息を吐いた。急がない。次の動きに、すぐ行かない。漆を、一層ずつ、乾かして待つみたいに、ひと呼吸、置く。
羽鳥七海「……透さん、止まってる」
笠原透「……乾くの、待ってる。あなたに、教わったとおりに」
羽鳥七海「っ♡♡ もう……こんなときに……っ」
七海さんが、泣き笑いみたいな顔をして、自分から、僕の首に腕を回して、唇を求めてきた。ゆっくり、動きはじめる。
ずちゅ……ぱちゅ……
羽鳥七海「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
引くたびに切なくて、奥に届くたびに、彼女の声が漏れる。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突くたびに、七海さんの体が、跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
羽鳥七海「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
笠原透「ここ、いい?」
羽鳥七海「っ♡♡ いいっ……♡ 透さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、僕自身のことなのか、七海さんにも、わからなくなったようだった。たぶん、どっちもだ。彼女の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
羽鳥七海「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
笠原透「七海さん、中、すごい締まってる」
羽鳥七海「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
ストーブの低い唸りと、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、古い座敷に満ちる。僕は、もう、何も考えられなかった。買い替えればいい、捨てればいい——そんな、いつもの理屈は、ここには、一つもない。あるのは、目の前の、継ぎ目を金で埋めた人だけだった。
笠原透「七海さん……そろそろ……っ」
羽鳥七海「うん……っ♡ わたしも……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
彼女を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速める。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
羽鳥七海「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 透さん、一緒に……っ♡♡」
笠原透「ああ……っ、七海さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
羽鳥七海「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、七海さんの体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。僕は、汗ばんだ彼女の上に、しばらく動けないまま、重なっていた。
羽鳥七海「……はぁ……っ♡ すごかった……」
笠原透「……七海さん。好きです。……隣の席で、割れた器、直してたあなたに、たぶん、最初の日から」
羽鳥七海「もう……っ、それ、いちばん、格好つかないとこじゃん……っ」
泣き笑いする彼女の頬に、僕は、何度も、キスを落とした。
10. 金の継ぎ目
年が明けて、最初の土曜。僕たちは、磨きの仕上げに、もう一度、教室へ行った。
風呂の中で、すっかり固まった漆。先生に教わりながら、継ぎ目を、菜種油と、細かい粉で、そっと磨く。曇っていた金が、磨くそばから、しっとりと、深い艶を帯びていった。
僕の、青いマグカップ。欠けていた三日月の縁に、金の月が、のっていた。削りすぎた、あの傷も、金で縁取られて、世界に一つの、景色になっていた。
梶井先生「ほら。できた。……新品より、ええ顔しとるだろう」
笠原透「……はい。ほんとに」
梶井先生は、僕と七海さんの器を、並べて、しばらく眺めていた。それから、にやりと笑った。
梶井先生「……あんたら、もう、二人で来とるみたいだな。最初の日と、顔が、違う。……まあ、ええ。割れたもん同士、しっかり、継いどけ」
先生に礼を言って、外へ出ると、冬の、よく晴れた空だった。七海さんが、自分の蕎麦猪口を、陽にかざした。藍色の器を流れる、金の川が、きらりと光った。
羽鳥七海「……ねえ、透さん。今度、これで、そうめん、食べに来ませんか。わたしの部屋で。……五個、ぜんぶ、戻ったから」
笠原透「夏まで、待つんですか」
羽鳥七海「あはは。気が早い。……でも、いいでしょ。金継ぎ、待つの、得意になったし」
僕は、自分の、金で継いだマグカップを、ポケットから出して、見た。十年、毎朝、口をつけてきた縁。あの夜、ゴミ箱の上で、捨てられなかったカップ。買い替えれば千円の、なんの変哲もない、青いカップ。
それが今、世界に一つの、金の景色を抱えて、僕の手の中にあった。
笠原透「……俺、ずっと、壊れたものは、捨てればいいと思って生きてきました。修理なんて、割に合わないって。人付き合いも、たぶん、そうやって、深くなる前に、手放してきた」
羽鳥七海「……うん」
笠原透「でも、ここで、教わったんです。割れたところを、なかったことにしないで、時間かけて、継ぐ。……割れたとこが、いちばん、きれいになるって。だから——」
僕は、七海さんの、金粉のざらついた手を、握った。
笠原透「あなたとも、そうしたい。……何かあっても、捨てないで。ちゃんと、継いで、いきたいです」
七海さんの目が、潤んで、それから、左の頬に、いちばん深いえくぼが、できた。
羽鳥七海「……うん。継ぎましょう。二人で。……割れたら、そのたびに、金、入れて。だんだん、金だらけに、なっちゃうくらい」
笠原透「それ、相当、喧嘩する前提ですね」
羽鳥七海「あはは。先生が言ってたもん。継いだもんは、割れる前より、丈夫になるって」
冬の陽だまりの中で、二つの器の、金の継ぎ目が、並んで光っていた。一つは、青いマグカップ。一つは、藍色の蕎麦猪口。どちらも、一度、割れて、欠けて、それでも、捨てられなかったもの。
買い替えてばかりで、ひとつも景色のなかった僕の毎日に、初めて、捨てられないものが、二つ、できた。一つは、金で継いだ、青いカップ。もう一つは、隣で笑う、この人だった。
― 終 ―