深夜のオフィスビルは、昼間とまるで別の生き物になる。
私、桐谷遥(きりたに はるか)、二十八歳。商業施設の内装を手がける設計事務所で、プランナー兼設計担当として働いている。聞こえはいいけれど、要するに、図面と模型とプレゼン資料に追われて、毎晩終電ぎりぎりまで会社に残っている。
その夜も、私がオフィスを出たのは零時前だった。フロアの蛍光灯はとっくに半分落とされて、自分のデスクライトだけが孤島みたいに灯っている。重いノートパソコンを鞄に押し込んで、私はエレベーターで一階へ降りた。
(……今日も、終わらなかった)
一階のエントランスは、もっと暗い。昼間は受付嬢が二人座っているカウンターも、今は無人だ。ただ一つ、その隣の警備員室の小さなデスクだけに、ぽつんと灯りがついている。
そこに、その人はいた。
「……お疲れさまです」
紺色の制服を着た、若い夜間警備員。三浦律(みうら りつ)くん。たぶん、私より少し年下。背が高くて、無口で、必要なこと以外はほとんど喋らない。毎晩こんな時間まで残る私に、彼はいつも、その一言だけをかけてくれる。
「……お疲れさまです。お先に失礼します」
声が掠れていた。疲れすぎて、自分の声なのに他人みたいだった。私は会釈して、自動ドアの外へ出た。蒸し暑い、初夏の夜の空気が頬を撫でる。振り返ると、ガラスの向こうで、彼の灯りだけが、暗いビルの中で静かに光っていた。
三浦くんのことを、私は最初、ちょっと近寄りがたい人だと思っていた。
夜間の警備員さんなんて、普段は顔も覚えない。けれど、この半年、私の残業がいよいよ常軌を逸してきてから、零時前後のエントランスで顔を合わせるのは、決まって彼になった。
同僚の美月に、一度だけその話をしたことがある。
「遥、最近ほんと帰り遅いよね。体壊すよ」
「わかってるんだけど。あの商業施設の改装、私の担当だから」
「真面目すぎ。……ていうか、夜の一階こわくない? あの警備員さん、無愛想だし」
「無愛想……かな。私は、別に」
別に怖くない。むしろ。そう言いかけて、私は飲み込んだ。
無口だけれど、無愛想とは違う気がしていた。彼は、私が通るたびに、ちゃんと顔を上げて「お疲れさまです」と言う。それだけのことなのに、誰もいない真夜中のビルで、その一言があるのとないのとでは、世界の温度がまるで違った。
その日から、私は少しだけ、彼のデスクの灯りを意識するようになった。
異変に気づいたのは、梅雨入り間近の、ある蒸し暑い夜だった。
その日も終電ぎりぎりまで粘って、ふらふらでエレベーターを降りた私は、エントランスの自動販売機の前で立ち止まった。喉が、からからに渇いていた。けれど、財布はもう鞄の底。出すのも億劫で、私はそのまま帰ろうとした。
「……桐谷さん」
呼ばれて、振り返る。彼が私の名前を知っていたことに、まず驚いた。三浦くんは、警備室のデスクから立ち上がって、こちらへ来た。手に、温かい缶コーヒーを一本持っている。
「これ。よかったら」
「え……いいんですか? でも」
「自分、買いすぎたんで。微糖ですけど」
そう言って、彼は私の手に、ことん、と缶を握らせた。じんわりと、手のひらに熱が伝わる。
「……ありがとう、ございます」
受け取ってしまってから、私は気づいた。蒸し暑いこの季節に、わざわざ温かいコーヒーを「買いすぎる」人なんて、いない。これは、たぶん。
(……私に、くれるために?)
外に出て、ベンチで一口飲んだ。甘くて、温かくて、空っぽの胃にゆっくり染みた。たかが缶コーヒー一本。それなのに、その夜、私はなかなか家に帰る気になれなくて、しばらくベンチに座っていた。
それから、温かい缶コーヒーは、私の真夜中の習慣になった。
零時前後、私がエレベーターを降りると、警備室のデスクの端に、いつのまにか一本、缶コーヒーが置かれている。彼は何も言わない。私が「ありがとうございます」と言うと、ただ小さく頷くだけ。けれど、毎晩、必ず温かい。
ある夜、私はそのデスクの上に、見慣れないものを見つけた。分厚い参考書だ。表紙に「建築」の二文字が見える。
「三浦くん、それ……建築の本ですか?」
「あ……はい。夜、暇な時間に、勉強してて」
「勉強?」
「一級建築士、目指してて。……昼間は時間取れないんで、夜のこの仕事、ちょうどいいんです」
意外だった。無口で、ただ静かに座っているだけだと思っていた彼が、毎晩、誰もいないこのデスクで、図面の勉強をしていたなんて。
「私、設計の仕事してるんです。内装ですけど」
「……知ってます」
「え」
「桐谷さん、いつも図面の筒、抱えて降りてくるから。……すごいなって、思ってました」
ぶっきらぼうに、でもまっすぐに言われて、私は返す言葉に詰まった。彼の目が、参考書の図面と、私の抱えた筒とを、同じものとして見ていることが、なんだか嬉しかった。
その夜から、缶コーヒーの受け渡しのあとに、少しだけ言葉を交わすのが、決まりになった。
梅雨の晴れ間の、ある夜のことだった。
その日は珍しく仕事が一段落して、私は零時前にフロアを出た。でも、なぜだかまっすぐ帰る気になれなくて、エントランスで三浦くんと立ち話をしていた。すると、彼がふと、天井を見上げて言った。
「桐谷さん。……今日、月、きれいですよ」
「月?」
「屋上、出られるんです。巡回で。……ちょっとだけ、見ます?」
警備員の彼にしか開けられない扉を抜けて、私たちは屋上に出た。十五階建てのビルの屋上は、風が通って、昼間の蒸し暑さが嘘みたいに涼しかった。眼下に、眠らない街の灯りが、どこまでも広がっている。そして頭上に、梅雨の晴れ間の、丸い月。
「……わ。すごい」
「自分、巡回でここ来るたびに、ちょっとだけ、見てくんです。……息抜きに」
「秘密の場所ですね」
「……はい。桐谷さんが、初めてです。一緒に見るの」
その一言に、胸が小さく跳ねた。フェンスに肘をついて、私たちは並んで街を見下ろした。私は、自然と、ずっと誰にも言えなかったことを、こぼしていた。
「私、最近、自分がなんのために働いてるのか、わかんなくなる時があって。図面引いて、直されて、また引いて。終電で帰って、寝て、また会社で。……空っぽみたいな日があるんです」
「……」
「ごめんなさい、こんな話」
「いえ。……自分、桐谷さんの図面、見たことないですけど」
彼は、街の灯りを見たまま、ぽつりと続けた。
「あの灯り、ぜんぶ、誰かが図面引いた場所ですよ。店とか、ビルとか。……桐谷さんが直した店も、たぶん、あの中にある。空っぽなわけ、ないです」
無口な人が、絞り出すみたいに言った言葉が、まっすぐ胸に刺さった。私は、月のせいにして、にじんだ涙を、こっそり指で拭った。
それから、私は気づかないふりができなくなった。
毎晩、零時が近づくと、心が、少しだけ急く。仕事が終わるからじゃない。一階に降りれば、彼がいるからだ。温かい缶コーヒー。建築の参考書。屋上の月。そのぜんぶが、私の擦り切れた一日の、いちばん柔らかい部分になっていた。
(……これ、たぶん、もう)
認めるのが、こわかった。だって彼は年下で、警備員と利用者で、私たちはただ、夜のロビーですれ違うだけの関係で。
そんなある日、美月が、何気なく言った。
「そういえばさ、あの無愛想な警備員さん、秋でいなくなるらしいよ」
「……え?」
「設備の人が言ってた。建築士の試験受かったら、設計の事務所に移るんだって。夢があるねえ」
「……そっか」
胸の奥が、ひやりとした。彼が夢へ進むのは、嬉しいことのはずなのに。私は、その夜、エントランスで缶コーヒーを受け取りながら、彼の横顔を、いつもより長く見つめてしまった。
(……いなくなっちゃう。あと、少しで)
言葉にできない焦りが、胸の中で、静かに膨らんでいった。
そうして、梅雨が明けかけた、七月の頭。
私の担当する商業施設の改装プレゼンが、いよいよ翌日に迫った。最終の図面と模型写真が、どうしても間に合わない。気づけば終電はとっくになく、フロアに残っているのは私一人。時計は、深夜二時を回っていた。
ふらつきながらコーヒーを買いに一階へ降りると、三浦くんが、心配そうな顔で立ち上がった。
「桐谷さん。……まだ、帰らないんですか」
「明日、大事なプレゼンで。どうしても、今日中に仕上げないと」
「終電、もう」
「……うん。今日は、徹夜です」
無理して笑った私を、彼はじっと見ていた。それから、一度巡回に出て、戻ってくると、こう言った。
「……自分、一時間に一回、巡回でこのフロア来ます。何かあったら、内線、鳴らしてください」
「……ありがとう」
それから明け方まで、彼は本当に、一時間ごとにそっとフロアを覗いてくれた。そのたびに、温かい飲み物を、黙ってデスクに置いていく。彼が見てくれているというだけで、私は、もうひと頑張りできた。
空が白みはじめた頃、私はやっと、最後の図面に「完成」のレイヤーを重ねた。
「……できた」
声に出した瞬間、張りつめていた糸が切れて、私はデスクに突っ伏した。ちょうど、巡回の三浦くんが入ってきた。
「桐谷さん!? 大丈夫ですか」
「……できた、の。やっと。……三浦くんが、いてくれたから」
涙が、勝手にあふれた。徹夜の疲れと、間に合った安堵と、それから、ずっと胸にあった気持ちが、ぜんぶ一緒に、こぼれてしまった。
彼は、私の異変に気づいて、そっと肩に手を置いた。
「……このフロアじゃ、休めない。下の、仮眠室、来ます? 警備の。少し、横になったほうがいい」
警備員用の小さな仮眠室は、エントランスの奥にあった。簡素なソファベッドと、小さな窓。窓の外は、夜明け前の、薄青い空。彼が私を座らせて、自分は少し離れた椅子に腰を下ろした。律儀な人だ。
「……三浦くん」
「はい」
「秋で、いなくなっちゃうって、ほんとですか。建築士、受かって」
彼は、少し驚いた顔をして、それから、静かに頷いた。
「……まだ、受かってないですけど。受かったら、設計の事務所に。ずっと、それが夢だったんで」
「……そっか。よかった。おめでとう、ございます」
「桐谷さん、なんで、泣きそうなんですか」
ずるい。気づいてるくせに。私は、もう、隠せなかった。
「……私、毎晩、零時が待ち遠しかったんです。仕事が終わるからじゃなくて、三浦くんに、会えるから。缶コーヒーも、屋上の月も、巡回のたびに覗いてくれたのも、ぜんぶ……ぜんぶ、好きでした」
言ってしまった。徹夜明けの頭で、もう、止められなかった。
「いなくなっちゃうって聞いて、すごく、嫌だって思った。……三浦くんが、好きです。年下とか、警備員とか、関係なく」
仮眠室が、しんと静まった。彼は、しばらく黙っていた。それから、椅子から立ち上がって、ゆっくり、私の前に膝をついた。
「……自分、ずっと、桐谷さんのこと、見てました」
「え」
「毎晩、図面の筒抱えて、ふらふらで降りてくる人。……無理してるの、わかってたから。せめて、温かいもん一本でもって。……それが、いつのまにか」
無口な彼が、必死に言葉を探していた。
「言うつもり、なかったんです。自分、もうすぐここ辞めるし。困らせるだけだと思って。……でも、先に言われたら、もう、無理です」
「……自分も、好きです。桐谷さん」
その言葉が、薄青い夜明けの部屋に、静かに落ちた。
どちらからともなく、距離が縮まった。
膝をついた彼の手が、私の頬に触れる。大きくて、少しごつごつした、でも、優しい手。私は逃げなかった。逃げたくなかった。彼の顔がゆっくり近づいて、私はそっと目を閉じた。
唇が、重なる。
「ん……」
少し乾いた、けれど温かい唇。缶コーヒーの、微糖の匂いがした。私の心臓は、ばくばくと鳴っていた。一度離れて、目を合わせて、もう一度、今度は少し深く。
ちゅ……ちゅっ……
「は……三浦、くん……」
「……律で、いいです。下の名前」
「……律、くん」
名前を呼ぶと、彼の腕が、私の背中に回って、ぎゅっと抱き寄せられた。徹夜で冷えた体に、彼の体温が、じんと沁みてくる。
「……桐谷さん。やめてほしかったら、言ってください」
「……遥、です」
「え」
「私も、名前で。……それと、やめないで、ください」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。律くんが、ふっと息を漏らして、私をソファベッドにそっと横たえた。窓の外は、まだ夜明け前。誰も来ない、二人きりの小さな部屋。
唇を重ねながら、彼の手が、私のブラウスのボタンを、おそるおそる外していく。
「ん……っ」
「……手、震えてます。自分」
「……私も。一緒、ですね」
二人して、ちょっと笑った。緊張しているのが、お互い伝わって、それが、なんだか愛おしかった。
れろ……ちゅ……
「ん……ふ……っ」
ブラウスの前がはだけて、ブラごしに、彼の手がそっと胸に触れた。
「あ……っ」
「……痛くないですか」
「いた……くない、です……」
恥ずかしくて、私は顔を背けた。薄明かりの中で、自分の肌が晒されていくのが、どうしようもなく心許ない。でも、彼の手つきが、壊れ物を扱うみたいに優しくて、その優しさに、体の力が少しずつ抜けていった。
ブラのホックが外されて、胸が彼の前にこぼれる。律くんは、それをそっと手で包んだ。
「……きれいです」
「やだ……見ないで……」
「……見たいです。だめ、ですか」
その聞き方が、ずるい。私は何も言えなくなって、こくんと小さく頷いた。彼の指が、つんと立ちはじめた先端を、そっとかすめる。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、変な、声、出ちゃう……」
口では恥ずかしがるのに、彼が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。防音じゃないこの部屋で、と頭の隅で思ったけれど、もう止められなかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私のスカートの中、太腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いて。遥さんの、ペースで」
その声に、自然と体がほどけた。いつも、私の残業のペースに、黙って付き合ってくれた人。今も、私のリズムに、ちゃんと合わせてくれている。彼の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れた。
「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱くなっているのが、自分でも分かった。やがて下着がずらされて、彼の指が、直接そこに触れる。
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてます」
「言わないで……っ♡ キス、のときから……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、彼の指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹でくるくると撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ち、いいですか」
「……っ♡ うん……っ♡」
指が、ゆっくり中へ入ってくる。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、こわごわ、けれど確かめるように広げていく。胸の先と、下の突起と、中を、同時に優しく可愛がられて、私はもう、何も考えられなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「……いいですよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、高みへ押し上げられた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。彼の腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。
「……大丈夫ですか」
「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」
息を切らせる私の額に、汗で張りついた前髪を、律くんがそっとよけてくれた。その仕草の優しさに、また泣きそうになった。
「……律くん」
「はい」
「……最後まで、してほしい、です。律くん、となら」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人となら、言えた。律くんが、ごくりと喉を鳴らす。
「……無理は、しないでください」
「無理じゃ、ない。私が、したいの」
彼は、財布から小さな包みを取り出した。ちゃんと用意があったことに、なんだか胸が温かくなる。こういうところまで、この人は律儀だ。
「痛かったら、すぐ言ってください。……止めるんで」
「……うん」
狭いソファベッドの上で、律くんが私にそっと覆いかぶさってくる。脚の間に体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
「……いきます。ゆっくり」
「……はい……っ」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、私の中が彼を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……ぁ……っ」
「……止めます?」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
律くんは、私の様子を窺いながら、ほんの少しずつ、進んでくる。途中で何度も止まって、私の額にキスをして、また少し進む。その気遣いに、苦しさが、だんだん別のものに変わっていった。
やがて、根元まで、彼が収まった。繋がった場所から、じんわりと熱が広がっていく。
「……入って、る……?」
「……はい。全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
胸がいっぱいになって、涙がにじんだ。ガラス一枚を隔てて、毎晩すれ違うだけだった人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。律くんが、私の涙を指でそっと拭った。
「……動いて、平気ですか」
「うん……っ。来て、律くん……っ」
彼が、ゆっくり動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、私の体を気遣う、本当にゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。苦しさの奥から、じわじわと、知らない感覚が芽生えてくる。
「……痛く、ないですか」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」
「気持ち、よくなってきました?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、律くんの、好き……っ♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも分からなくなった。たぶん、どっちもだった。
律くんの額から落ちた汗が、私の胸にぽつりと落ちる。無口な人が、私の名前を、何度も呼んでくれた。
「遥さん……遥」
「……っ♡ 名前……」
「遥。……ずっと、呼びたかった」
名前で呼ばれて、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。私は彼の首に腕を回して、自分から唇を求めた。繋がりながらキスをするのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「ん……っ♡ ふ……っ♡」
「遥。……自分、秋に、ここ離れても」
「……っ?」
「ちゃんと、会いに来ます。設計の仕事、同じ街でやるんで。……だから」
「……っ♡♡ うん……っ♡ 待ってる……っ♡」
その約束が、繋がった場所から、体の芯まで沁みていく。律動が、少しずつ深くなった。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 律くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……自分も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 律くんと、一緒……っ♡」
律くんが、私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 律くん……っ♡♡」
「……っ、遥……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。律くんが、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ、律くん……」
「……遥。痛く、なかったですか」
「……ちょっと、痛かった。……でも、それより、ずっと、幸せでした」
律くんが、私の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
小さな窓から、夜が、すっかり明けていた。
仮眠室の中まで、夏の朝の光が差し込んでくる。私は律くんの腕に頭を預けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。徹夜明けの体は、くたくたなのに、不思議と、満たされていた。
「……私、これから、そのままプレゼンなんですよ」
「……大丈夫ですか、それ」
「ふふ。たぶん、今日の私、すごくいい顔してると思う」
「……顔?」
「うん。空っぽじゃない顔」
律くんが、私の言葉の意味に気づいて、少し照れたように、目を伏せた。あの、屋上で言ってくれた言葉を、私はちゃんと覚えていた。あなたの直した店も、あの街の灯りの中にある、って。
「ねえ、律くん。建築士、受かったらさ」
「はい」
「いつか、一緒に、お店の図面、引きましょうよ。内装は私が、構造は律くんが」
「……それ、自分の夢、まるごとですよ」
「じゃあ、二人の夢にしましょう」
律くんが、ふっと笑った。あの、口の端だけがほんの少し上がる、無口な人の笑い方。それが、たまらなく好きだと思った。
私たちは服を着て、仮眠室を出た。エントランスには、夜が明けて、もう昼間の顔が戻りはじめている。受付には、まだ誰もいない。ただ、警備室のデスクの上に、彼の建築の参考書と、飲みかけの温かい缶コーヒーが、二本、並んで置かれていた。
「……律くん。缶コーヒー、いつも、ありがとうございました」
「……気づいてたんですか。買いすぎ、嘘だって」
「気づきますよ。この季節に、温かいの、毎晩ですもん」
二人で、ちょっと笑った。自動ドアの外に出ると、初夏の朝の風が、火照った頬に気持ちよかった。眠らない夜のビルは、もう、眠らない街の中に溶けて、ただの大きなオフィスビルに戻っていた。
「……遥。今夜も、残業ですか」
「うーん。プレゼン次第。……でも、今日からは」
「今日からは?」
「零時に下に降りるの、ちょっとだけ、楽しみになりそう」
律くんが、私の手を、そっと握った。建築の参考書のページをめくり続けてきた、その指が。私は、しっかりと握り返した。
ガラスの向こうで、ただ一つ灯っていたあの灯り。今は、それが、すぐ隣にある。
「……おやすみなさい、じゃなくて。おはようございます、ですね。律くん」
「……はい。おはようございます、遥」
夏のはじまりの朝日が、二人の影を、長く、一つに重ねて、歩道に伸ばした。
― 終 ―