絵を高精細データに写し取るばかりで本物の絵に一度も触れないまま擦り切れていた美術館アーカイブ係の僕が、長雨の雨漏りでシミになった祖父の掛軸を抱えて飛び込んだ商店街の小さな表具店で、紙は生きていると言って湿りと乾きの“間”で軸を仕立て直す無口な同い年の女表具師に裏打ちの手ほどきを受けるうちに惹かれ、梅雨明けの夜の作業場で結ばれた話

1. 絵に触れない仕事

僕、三宅透、二十八歳。

市立美術館の、デジタルアーカイブ室で働いている。

仕事は、収蔵されている絵を、一枚ずつ、高精細のスキャナーで、データに写し取ること。

掛軸、屏風、古い日本画。

何百年も前の絵を、僕は、毎日、画素にしている。

三宅透(色味、もう少し。ガンマを、〇・〇二、落とす)

光を当てて、撮って、色を、数値で合わせる。

モニターの中で、絵は、どこまでも鮮明になる。拡大すれば、絵師の筆の毛先まで、見える。

でも、僕は、その絵に、一度も、触れたことがない。

学芸員が白手袋で運んできた軸を、僕は、ガラスの台に載ったまま、撮るだけ。

絵そのものは、いつも、ガラスの向こうにある。

三宅透(……これで、千二百枚目、か)

データは、増えていく。サーバーの中に、何テラバイトも、絵が、眠っている。

でも、ふと、思うことがあった。

僕は、絵の、なにを、知っているんだろう。

紙の厚みも、墨の匂いも、軸を巻くときの手触りも、僕は、なに一つ、知らない。

ただ、表面を、光で、なぞっているだけ。

そんな僕の住む古アパートで、ある晩、事件が、起きた。

梅雨の、長雨。

天井の隅から、ぽたり、ぽたり、と、雨漏りが、はじまったのだ。

三宅透「……うそ、だろ」

慌てて見上げた、その真下。

押し入れから出して、壁に立てかけてあった、桐箱が、あった。

亡くなった祖父の、形見の、掛軸。

蓋を開けると、巻かれた軸の、いちばん外側に、雨水が、じわりと、染みていた。

富士の、山水画。

その裾野のあたりに、茶色いシミが、ぽつり、ぽつり、と、広がりはじめていた。

三宅透「……っ」

何百枚もの絵を、データにしてきたくせに。

自分の、たった一本の、本物の軸が、傷んでいくのを、僕は、ただ、見ていることしか、できなかった。


2. 路地裏の表具店

翌朝、僕は、シミの広がった軸を、桐箱ごと抱えて、街へ、飛び出した。

スマホで、調べた。

「掛軸 修理」「表具 直し」。

検索しても、出てくるのは、大きな美術修復会社ばかり。見積もりだけで、何万、と書いてある。

途方に暮れて、歩いているうちに、僕は、引っ越してきたばかりの、この街の商店街に、迷い込んでいた。

八百屋、乾物屋、シャッターの下りた金物屋。

その、いちばん奥。

クリーニング屋と、しもた屋の間の、細い路地に、その店は、あった。

「美濃表具店」。

すすけた木の看板に、墨で、そう、書いてある。

ガラス戸の向こうに、何本もの、巻かれた軸と、刷毛と、大きな板が、見えた。

三宅透(……表具って、これか)

半信半疑で、僕は、立て付けの悪いガラス戸を、からから、と、開けた。

途端、ふわり、と、独特の匂いに、包まれた。

古い紙と、糊と、それから、雨に湿った、水の匂い。

天井まで届く、大きな板に、何枚もの紙が、ぴんと、張りつけてある。

その奥で、藍色の前掛けをした、若い女の人が、長い刷毛を、片手に、こちらを、振り向いた。

美濃葵「……いらっしゃい」

歳は、たぶん、僕と、同じくらい。

ひっつめた黒髪。化粧っ気のない顔。けれど、その目は、妙に、まっすぐで、目を、引いた。

三宅透「あの……掛軸の、シミを、直していただきたくて。雨漏りで、濡れてしまって」

僕が、おそるおそる、桐箱を差し出すと、彼女は、刷毛を置いて、両手で、それを、受け取った。

軸を、作業台の上に、そっと、広げる。

その手つきが、おそろしく、丁寧だった。

美濃葵「……ああ。これは、水シミだね。紙が、水を、吸っちゃってる」

美濃葵「でも……まだ、墨は、流れてない。早かったね。来るの」

三宅透「直り、ますか」

彼女は、シミの縁を、指の腹で、そっと、なぞった。

美濃葵「直る。……というか、これは、直すんじゃない。仕立て直す、の」

三宅透「仕立て、直す?」

美濃葵「うん。一回、全部、剥がして。裏から、打ち直して。また、軸に、仕立てるの」

そう言って、彼女は、初めて、僕を、まっすぐ、見上げた。

美濃葵「……時間、かかるよ。梅雨だし。それでも、いい?」


3. 紙は生きている

預けるのに、伝票を、書いてもらう。

その間、僕は、店の中を、見回していた。

壁という壁に、仕立て途中の軸が、立てかけてある。

大きな板には、和紙が、何枚も、ぴんと、張られて、乾かされている。

僕が、毎日、データにしている「絵」の、その、裏側の、世界。

三宅透「……あの。あれは、なにを、してるんですか。あの、板に、貼ってあるの」

つい、訊いていた。

彼女は、伝票を書く手を止めずに、答えた。

美濃葵「仮張り。裏打ちした紙を、あの板に張って、ゆっくり、乾かしてるの」

美濃葵「紙はね、濡れると伸びて、乾くと縮む。その縮む力で、軸が、まっすぐ、平らになる」

三宅透「……縮む力で?」

美濃葵「そう。だから、急いで乾かしちゃ、だめ。歪むから」

彼女は、書き終えた伝票を、僕に、渡した。

美濃葵「紙は、生きてるの。湿気を吸って、吐いて。今日みたいな雨の日は、ちょっと、ふくらんでる」

美濃葵「だから、表具屋は、空模様を、読むんだよ。今日は張れる日か、待つ日か」

その言葉が、僕の、どこか、乾いていた場所に、すっと、染みた。

僕は、毎日、絵を、データにしている。

データは、湿気も吸わない。膨らみも、縮みもしない。撮った、その瞬間の絵を、永遠に、固めて、しまう。

でも、目の前のこの人は、絵の「生きている」ところを、相手に、している。

三宅透「……僕、絵を、データにする仕事を、してるんです。美術館で」

ぽつり、と、漏らすと、彼女は、少し、目を、見開いた。

美濃葵「へえ。じゃあ、絵には、詳しいんだ」

三宅透「……いえ。詳しいのは、画素と、色の数値だけで。本物の絵には……一度も、触ったこと、ないんです」

言ってから、自分でも、少し、情けなくなった。

彼女は、しばらく、僕の顔を、見て。

それから、ふっ、と、口の端で、笑った。

美濃葵「……変なの。絵に触らない、絵の仕事か」

その笑い方が、なんだか、悪くなくて。

僕は、また、ここに、来たいと、思ってしまった。


4. 常連の丸尾さん

それから、僕は、ときどき、その表具店に、寄るようになった。

進み具合を、訊きに行く、という口実で。

ある日、店に入ると、先客が、いた。

腰の曲がった、白髪の、おじいさんだった。

丸尾さん「葵ちゃん、この前の屏風な、うちの床の間に、ぴったり、収まったよ。ありがとうな」

美濃葵「よかった。丸尾さんとこの、あの古い屏風、骨が、だいぶ、傷んでたから」

丸尾さん、という、近所の常連さんらしい。

聞けば、もう何十年も、この店に、通っているのだという。

丸尾さん「この店はな、葵ちゃんの、親父さんの代からだ。いや、その前の、じいさんの代から、かな」

丸尾さんは、しわくちゃの顔で、そう言って、それから、僕のほうを、じろり、と、見た。

丸尾さん「……おや。見ない顔だね。あんた、葵ちゃんの、客かい」

三宅透「あ、はい。祖父の掛軸を、直してもらってて」

丸尾さん「ふうん」

丸尾さんは、にやり、と、笑って、葵さんを、見た。

丸尾さん「葵ちゃんも、若い客が来て、よかったなあ。いつも、わしらみたいな、年寄りばっかりで」

美濃葵「……丸尾さん。余計なこと、言わないの」

葵さんが、めずらしく、少し、頬を、赤らめて、丸尾さんを、戸口へ、押しやった。

その背中が、出ていったあと、彼女は、ぽつり、と、言った。

美濃葵「……親父が、三年前に、死んでね。継ぐ人、私しか、いなくて」

美濃葵「掛軸なんて、もう、誰も、床の間に、飾らない時代だし。儲からないよ、こんな店」

板に張られた紙を、見上げる、その横顔が、少しだけ、寂しそうだった。

美濃葵「でも……閉めるの、できなくてさ。この匂いの中じゃないと、私、息、できないみたいで」

その言葉を、僕は、なぜだか、ずっと、覚えていた。


5. 裏打ちの“間”

祖父の掛軸の、裏打ちをする日。

見学していいか、と訊いたら、葵さんは、少しだけ迷って、それから、頷いた。

美濃葵「……いいよ。でも、息、止めててね。埃と、風が、いちばんの敵だから」

剥がされて、一枚の絵だけになった富士の山水が、作業台の上に、裏返しに、広げられている。

葵さんが、刷毛に、薄く溶いた糊を、含ませた。

新しい裏打ち紙に、しゅっ、しゅっ、と、均一に、糊を、引いていく。

その刷毛さばきに、迷いが、ない。

三宅透「……すごい。一筆も、止まらないんですね」

美濃葵「止まったら、そこだけ、糊が、溜まる。溜まったら、乾いたとき、波打つ。だから、止まれないの」

糊を引いた紙を、彼女は、撫で刷毛で、絵の裏に、そっと、重ねた。

中央から、外へ。空気を、追い出すように。

ぽん、ぽん、と、刷毛で、軽く、叩いていく。

その、ひと続きの動きを、僕は、息を、止めて、見ていた。

データなら、一瞬だ。シャッターを、押せば、終わる。

でも、この人は、一枚の紙を、絵に重ねるのに、こんなにも、長い、ていねいな、時間を、かける。

美濃葵「……はい。あとは、これを、仮張りして。乾くまで、待つ」

三宅透「どのくらい、待つんですか」

美濃葵「最低でも、一週間。梅雨だから、もっと、かかるかも」

三宅透「……一週間。そんなに」

つい、声が出た。職業病だった。データなら、待ち時間なんて、ない。

葵さんが、刷毛を、洗いながら、ふっと、笑った。

美濃葵「あなた、せっかちだね。いつも、時間に、追われてるでしょ」

ぎくり、と、した。

美濃葵「でもね。待つのも、仕事のうちなの。紙が、いちばん、いい具合に、縮むのを、待つ」

美濃葵「急かしたら、絵が、歪む。……人と、おんなじ」

人と、おんなじ。

その言葉が、なぜだか、僕の胸に、しんと、落ちた。

板に張られた、祖父の富士を、二人で、しばらく、ただ、見ていた。

ゆっくり、ゆっくり、紙が、息を、吐いて、縮んでいく。

その「間」の中に、いると、僕の、いつも急いていた呼吸も、少しずつ、ゆっくりに、なっていった。

ふと、横を見ると、葵さんの、まつげの長い横顔が、すぐ、そこに、あった。


6. 雨の夜の作業場

それから、僕は、口実をつけては、店に、通うようになった。

亡くなった祖母の、古い色紙。実家から見つかった、傷んだ短冊。

直してもらうものなんて、すぐに、尽きた。

それでも、僕は、行った。

ある夜、閉店間際に、駆け込むと、葵さんは、ちょうど、別の軸の、裂地を、裁っている、ところだった。

美濃葵「あ。三宅さん。……もう、来ないかと、思った」

三宅透「すみません。仕事が、長引いて」

美濃葵「ちょうど、よかった。手、ちょっと、貸して」

招かれるまま、僕は、作業台の、隣に、座った。

裏打ちした紙を、仮張り板に、張る作業。

葵さんが、刷毛で、糊を、紙の縁に、引く。僕は、言われるまま、その紙の端を、両手で、ぴんと、持った。

美濃葵「そう。たるませないで。でも、引っぱりすぎない。……うん、そのくらい」

肩が、触れそうなほど、近い。

糊と、紙と、ほんの少し、彼女の髪の匂いが、した。

窓の外は、しとしとと、梅雨の、雨。

紙を張る、しゅっ、という、刷毛の音だけが、店の中に、満ちていた。

美濃葵「……あのね。この店、ほんとは、たたもうかって、何度も、思ったの」

ぽつり、と、葵さんが、言った。

美濃葵「親父が死んで。注文も、減って。一人で、こんな広い作業場、持て余して」

美濃葵「でも……どうしても、できなかった。この、糊の匂いを、止めたく、なくて」

雨の音の中で、彼女の、横顔は、少し、心細そうだった。

三宅透「……止めなくて、よかったです」

僕は、思わず、言っていた。

三宅透「僕、ここに来ると、なんだか、息が、できるんです。データを、追わなくて、すむ。本物の、紙の、匂いがして。……だから、この店が、好きです」

言ってから、「好き」の主語が、店なのか、彼女なのか、自分でも、曖昧になった。

葵さんは、少し、黙って。

それから、張り終えた紙を、板に、そっと、撫でつけた。

美濃葵「……ありがと。そんなこと言ってくれる人、久しぶり」

その声が、いつもより、ずっと、柔らかかった。


7. 梅雨の晴れ間

数日後の、日曜の朝。

スマホが、鳴った。

預かりのとき、念のため、と交換していた、葵さんの番号、だった。

美濃葵「三宅さん? 急に、ごめんね。あの……今日、店、休みなんだけど」

三宅透「はい」

美濃葵「久しぶりに、晴れたから。……古い裂地を、見に、行くんだけど。三宅さんの掛軸の、表装の、相談も、したくて。よかったら、一緒に、来ない?」

電話の向こうの声が、少しだけ、緊張しているように、聞こえた。

僕は、跳ねる心臓を、抑えて、できるだけ、平静を装って、答えた。

三宅透「行きます。ぜひ」

待ち合わせた商店街の入口に、葵さんは、もう、来ていた。

いつもの、藍色の前掛け姿じゃ、なかった。

白いブラウスに、淡い色の、ロングスカート。下ろした、長い、黒髪。

作業台の前で見る「表具師」とは、まるで、別人みたいで。

僕は、思わず、見とれて、しまった。

美濃葵「……なに、じろじろ、見て」

三宅透「あ、いや。髪、下ろしてるの、初めて見たので」

美濃葵「……そりゃ、休みだもん」

ぶっきらぼうに、言って、でも、葵さんの頬は、少し、赤かった。

梅雨の晴れ間の空は、久しぶりに、高くて。

訪ねたのは、古い織物を扱う、裂地屋だった。

葵さんは、棚から、古い金襴や、緞子を、一枚ずつ、引き出して、僕の掛軸の、富士の色に、合わせていく。

美濃葵「この、藍鼠の、緞子。……どう? 富士の裾野の、青に、よく合うと思う」

三宅透「……綺麗ですね。葵さんが、選ぶと、絵が、もっと、絵に、見える」

美濃葵「ふふ。でしょ。表具はね、絵に、似合う『着物』を、着せてやる仕事なの」

その横顔が、生き生きと、輝いていて。

僕は、また、見とれた。

帰り道、川沿いの土手のベンチで、休憩した。

自販機で買った、冷たいラムネを、二人で、飲む。

美濃葵「三宅さんって、最初に来たとき、すっごい、思いつめた顔、してた」

三宅透「そりゃ、しますよ。祖父の軸が、傷んで。自分は、なに一つ、できなくて」

美濃葵「ふふ。でもね。……正直、通ってきてくれるの、ちょっと、嬉しかったんだ」

葵さんが、川のほうを見たまま、ぽつり、と、言った。

美濃葵「親父が死んでから、店、ずっと、一人で。来るのも、丸尾さんみたいな、年配の人ばっかりで」

美濃葵「だから、三宅さんが、わざわざ、通ってきてくれるの。……顔、見ると、なんか、私のほうが、ほっと、してた」

僕は、ラムネの瓶を、ぎゅっと、握った。

三宅透「葵さん」

美濃葵「ん?」

三宅透「正直に言うと。……直してもらうもの、もう、とっくに、なくなってたんです」

葵さんが、こちらを、向いた。

三宅透「先月くらいから。それでも、通ってたのは。……葵さんに、会いたかったからです」

言ってしまった。

顔が、かっと、熱くなる。

葵さんは、目を丸くして、それから、ぷっ、と、吹き出した。

美濃葵「……知ってたよ、そんなの」

三宅透「えっ」

美濃葵「だって、三宅さんが持ってくる色紙、最後のほう、どこも、傷んでなかったもん」

美濃葵「表具師、なめないで」

そう言って、いたずらっぽく、笑う。

その笑顔を見ていたら、もう、止まらなかった。

三宅透「葵さん。僕、あなたのことが、好きです」

川風が、一度、二人の間を、吹き抜けた。

葵さんの、下ろした髪が、ふわりと、揺れる。

美濃葵「……うん」

葵さんは、晴れ間の光に頬を染めて、まっすぐ、僕を、見た。

美濃葵「私も。……三宅さんが、あのガラス戸を開けてくるの、毎週、待ってた」

土手の上で、僕たちは、どちらからともなく、手を、重ねた。

何枚もの紙を、絵に重ねてきた、彼女の指は、思っていたより、ずっと、温かかった。


8. 作業場の灯り

その帰り道、商店街に着く頃には、また、夕立の雲が、出てきた。

ぽつり、ぽつり、と、降りはじめた雨を避けて、僕たちは、美濃表具店の軒下に、駆け込んだ。

美濃葵「……入って。雨、止むまで」

葵さんが、ガラス戸の鍵を、開ける。

その指先が、少しだけ、震えていた。

薄暗い店の奥、大きな作業台のある、板の間に、彼女が、灯りを、ともす。

裸電球の、オレンジ色の、やわらかな光。

そのまわりで、仮張りされた紙が、ぴんと、張りつめて、静かに、乾いていた。

美濃葵「ここ、親父の代から、ずっと、絵を、仕立ててきた場所。……あんまり、人を、入れたこと、ないんだ」

お茶を淹れてくれる、その背中を、僕は、後ろから、そっと、見ていた。

下ろした髪から、覗く、白い、うなじ。

裂地屋を歩いたせいか、ほんのり、汗ばんでいる。

湯呑みを二つ、お盆にのせて、葵さんが、振り返った。

そして、すぐ近くに立っていた僕と、目が、合って。

美濃葵「……三宅、さん」

三宅透「透で、いいです」

美濃葵「……透、さん」

僕は、お盆を、そっと、近くの台に、置かせた。

そして、葵さんの頬に、手を、添えた。

彼女の目が、ゆっくりと、閉じられる。

唇を、重ねた。

ちゅっ。

美濃葵「……ん」

柔らかくて、少しだけ、ラムネの味が、した。

一度離れて、見つめ合う。

葵さんの頬が、土手のときよりも、もっと、赤い。

三宅透「……もう一回、いい?」

美濃葵「……うん」

今度は、もっと、深く。

ちゅっ……ちゅるっ……

唇を重ねながら、彼女の腰に、腕を回す。

葵さんの手が、おずおずと、僕のシャツの背中を、きゅっと、握った。

紙の乾く匂いだけが満ちる作業場で、雨の音が、だんだん、強くなっていった。


9. 重なる夜

作業台の、奥。

古い、畳敷きの、板の間に、僕は、葵さんを、そっと、座らせた。

美濃葵「……あんまり、見ないで。私、こういうの、ずいぶん、久しぶりで」

三宅透「僕も、緊張してます」

美濃葵「……ふふ。紙は、あんなに、落ち着いて、触るのに」

ブラウスのボタンを、一つずつ、外していく。

白い肩と、淡い色のブラジャーが、現れた。

普段、藍色の前掛けに隠れている体は、思っていたより、ずっと、女らしかった。

三宅透「……綺麗だ」

美濃葵「やだ……言わないでよ」

葵さんが、両腕で、胸元を、隠す。

その手を、僕は、そっと、どけた。

背中に手を回して、ホックを、外す。

かちり、と。

肩から紐が滑り落ちて、ふるん、と、白い胸が、こぼれた。

美濃葵「……っ」

僕は、その柔らかさを、両手で、そっと、包んだ。

むにゅ、と、指が、沈んでいく。

美濃葵「ん……っ」

三宅透「……柔らかい」

美濃葵「もう……いちいち、言わないの……っ」

口では強がるのに、葵さんの息は、もう、少し、上がっていた。

指の先で、つんと色づいた先端に触れると、体が、びくっと、跳ねた。

美濃葵「ひゃっ……そこ……」

三宅透「ここ、弱い?」

美濃葵「……っ、知らない……」

僕は、片方の先端を、口に、含んだ。

ちゅっ……れろっ……

美濃葵「あっ……ん……っ」

作業台の前の、あの凛とした「表具師」とは、まるで違う。

甘くて、頼りない声が、葵さんの口から、ぽろぽろ、こぼれる。

そのギャップに、僕は、たまらなくなった。

舌で先端を転がしながら、もう片方の胸を、やわやわと、揉む。

美濃葵「透さん……っ、それ……だめ……っ」

葵さんの太ももが、もじもじと、すり合わさっている。

僕は、そっと、スカートの裾から、手を、忍ばせた。

三宅透「……脱がせて、いい?」

美濃葵「……うん」

スカートを脱がせると、淡い色の、下着だけに、なった。

その中心は、もう、しっとりと、湿りはじめていた。

布越しに、そっと指でなぞると。

美濃葵「んっ……」

葵さんの腰が、ぴくんと、跳ねた。

三宅透「……もう、濡れてる」

美濃葵「……言わないでって……っ。だって、透さんが……」

恥ずかしそうに、顔を背ける葵さん。

僕は、最後の一枚を、ゆっくり、脱がせた。

露わになったそこは、裸電球のオレンジの光に、しっとりと濡れて、光っていた。

指で、優しく、敏感な突起を、撫でる。

くちゅ、と、小さな水音が、した。

美濃葵「あっ……♡」

三宅透「気持ちいい?」

美濃葵「……っ、うん……っ♡」

円を描くように撫でながら、指を、ゆっくり、中へ、滑らせた。

ずぷ、と。

美濃葵「んあっ……♡」

熱くて、きつい中が、僕の指を、きゅっと、締めつける。

感じる場所を探って、指の腹で、ゆっくり、擦る。

美濃葵「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」

葵さんが、板の間に、ぎゅっと、指を、立てた。

いつも、薄い紙を、息を詰めて扱っている彼女が、僕の指一本に、こんなに、乱れている。

それが、愛おしくて、たまらなかった。

美濃葵「透さん……っ♡ だめ……それ続けたら……っ♡」

三宅透「いいよ。イって」

美濃葵「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」

指の動きを速めると、葵さんの体が、ぐっと、反った。

美濃葵「あっ♡ あっ♡ ——っ♡♡♡」

びくびく、と腰が震えて、中が、きゅうっと、締まる。

息を切らせる葵さんの額に、汗で張りついた前髪を、僕は、そっと、よけてやった。

美濃葵「……はぁ……っ。透さんも……」

葵さんが、潤んだ目で、僕を、見上げた。

美濃葵「私だけ、ずるい……。透さんも、ちゃんと、来て」

僕は、避妊具をつけて、葵さんの脚の間に、体を、進めた。

熱く張りつめたものを、濡れた入り口に、あてがう。

三宅透「……いくよ」

美濃葵「……うん。来て」

ゆっくり、腰を、進めた。

ずぷ……っ♡

美濃葵「んっ……あぁ……っ♡♡」

先端が入った瞬間、葵さんが、僕の背中に、しがみついた。

きつい。でも、とろとろに濡れているから、彼女の中は、僕を、奥まで、すんなりと、受け入れていく。

ずず……っ

美濃葵「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」

三宅透「……葵さんの中、すごく、熱い」

根元まで収まって、僕は、一度、深く、息を、吐いた。

繋がった場所から、あのガラス戸を開けて通った日々の距離が、じんわりと、埋まっていく。

ゆっくり、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

美濃葵「あっ♡ ん……っ♡」

最初は、彼女を気遣う、優しい律動。

三宅透「葵さん、気持ちいい?」

美濃葵「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」

三宅透「僕も。……ずっと、こうしてたい」

葵さんが、僕の首に腕を回して、自分から、唇を、求めてきた。

キスをしながら、奥を突くたびに、彼女の体が、跳ねる。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

美濃葵「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」

三宅透「ここ、好き?」

美濃葵「っ♡♡ 好き……っ♡ 透さんの、好き……っ♡♡」

それが、絵を仕立てる手のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちも、だった。

古い板の間が、小さく、軋む。

紙の乾く匂いと、二人の息と、肌のぶつかる音が、作業場に、満ちていく。

美濃葵「透さん……っ♡ もう……っ♡」

三宅透「僕も……っ。一緒に」

美濃葵「うん……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」

僕は、葵さんを、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡

美濃葵「あっ♡ あっ♡ イクっ……♡ 透さん、一緒に……っ♡♡」

三宅透「……っ、葵さんっ」

ぱちゅんっ——♡♡♡

美濃葵「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥で、僕が震えるのを、葵さんの体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。

二人で、同じ波に、さらわれた。

汗ばんだ体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。

しとしと、と、雨の音が、まだ、続いている。

荒い息が、少しずつ、紙の乾いていく、静かな「間」に、戻っていく。

美濃葵「……はぁ……っ。すごかった……」

三宅透「……葵さん」

美濃葵「ん……?」

三宅透「いま、僕、データのこと、なんにも、考えてなかったです」

葵さんが、ぷっと吹き出して、僕の胸を、ぽかっと、叩いた。

美濃葵「……変なこと、言う人」

そう言って、僕の胸に、頬を、すり寄せた。


10. 朝、富士がよみがえる

翌朝。

ガラス戸の外が、白みはじめた頃、僕は、目を覚ました。

板の間に並んで、毛布にくるまった葵さんが、すうすうと、寝息を立てている。

その寝顔は、刷毛を握っているときの、張りつめた横顔とは、まるで違って、あどけなかった。

しばらくして、葵さんが、ん、と身じろぎして、目を、開けた。

美濃葵「……おはよ」

三宅透「おはよう」

美濃葵「……あ。雨、止んでる」

ガラス戸を、すこし開けると、雨上がりの、澄んだ朝の空気が、店の中に、流れ込んできた。

夜のあいだに、梅雨が、明けたらしい。

水たまりに、青い空が、映っていた。

三宅透「……梅雨、明けましたね」

美濃葵「ほんとだ」

葵さんは、まぶしそうに、目を細めて。

それから、ふと、思い出したように、立ち上がって、仮張り板の前に、僕を、連れて行った。

美濃葵「見て。透さんの、おじいさんの軸。……ちょうど、乾いた」

板から、ゆっくり、剥がされた、富士の山水。

水シミの茶色は、もう、どこにも、なかった。

新しい裏打ち紙に支えられて、絵は、しゃんと、平らに、伸びている。

藍鼠の緞子の表装に、着替えて。

雪をいただいた富士が、朝の光の中で、まるで、息を吹き返したように、青く、澄んでいた。

三宅透「……すごい。よみがえった、みたいだ」

美濃葵「でしょ。紙はね、傷んでも、終わりじゃないの。裏から、また、支えてやれば。ちゃんと、もう一回、絵に、戻る」

僕は、その富士を、しばらく、ただ、見ていた。

何百枚も、データにしてきたけれど。

僕が、本当に「絵だ」と、胸の底から思えたのは、たぶん、この一本が、初めてだった。

美濃葵「……ねえ、透さん」

三宅透「ん?」

美濃葵「親父の店、継いだとき。一人で、こんな店、やっていけるのかなって、ずっと、不安だったの」

美濃葵「でも……今、ちょっとだけ、心強い」

朝の光の中で、彼女が、まっすぐ、僕を、見た。

その手のひらは、傷んだ富士を、もう一度、絵に、戻してくれた、手だ。

僕は、その手を、ぎゅっと、握った。

三宅透「僕、絵に、触らない仕事を、してきたけど。……これからは、葵さんの手の仕事を、いちばん近くで、見ていたいです」

美濃葵「……うん」

葵さんが、照れたように、それでも、嬉しそうに、笑った。

ちょうど、そのとき。

商店街のほうから、ことこと、と、杖の音がして。

丸尾さん「おーや、葵ちゃん。朝から、ずいぶん、いい顔して、戸を、開けてるねえ」

茄子の漬物を片手に、丸尾さんが、にやにやしながら、やってきた。

美濃葵「ま、丸尾さん! 朝から、なんなの!」

丸尾さん「やーい、やっと、くっついたか。葵ちゃんの、親父さんも、空の上で、安心してるよ」

けらけら笑う丸尾さんに、葵さんは、顔を真っ赤にして、でも、嬉しそうだった。

絵を、データに写し取るばかりで、本物の絵に、一度も、触れずにいた僕は。

長雨の雨漏りに、背中を押されて、飛び込んだ、路地裏の、小さな表具店で。

傷んだ絵を、もう一度、絵に戻す、不器用で、まっすぐな人と、恋人に、なった。

三宅透「今日、仕事終わったら、また来ます」

美濃葵「うん。……待ってる」

仕立て上がった祖父の富士を、葵さんが、桐箱に、そっと、納めてくれた。

僕は、それを胸に抱いて、梅雨明けの、青い空の下を、歩き出した。

データの中ではなく、この手の中に、たしかに、一本の絵が、ある。

その重みが、なんだか、ひどく、あたたかかった。

― 終 ―


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