1. ペンキの匂いがする家
僕、安藤湊(あんどうみなと)、26歳。都内の制作会社で、映像の編集をしている。
CM、企業のPR動画、SNS用の短い広告。撮ってきた素材を切って、つないで、色を整えて、音をのせる。納期はいつも昨日で、修正はいつも今すぐで、気づけば一日中、暗い編集室で画面の色温度ばかり見ていた。青を足せ、もっと暖かく、ここは秋っぽく――他人の季節を作りすぎて、自分が今どの季節にいるのか、わからなくなっていた。
家賃の更新を機に、僕は変わったシェアハウスに越した。
私鉄の駅から歩いて十分。商店街の外れに建つ、廃業した銭湯を改装した家。煙突がまだ残っていて、玄関のすりガラスには、消えかけた「ゆ」の字。脱衣所だった広間が共用リビングで、ボイラー室が物置で、二階に住人の個室が並んでいる。
内見のとき、大家の梶さんは、嬉しそうにこう言った。
「ここね、男湯のほうは物置にしちゃったんだけど。女湯のほうは、まだ手をつけてないの。富士山の絵、残ってるからさ。もったいなくて」
その夜、越してきた最初の晩。荷ほどきに疲れて廊下に出ると、奥のほうから、つん、とペンキの匂いがした。
誰もいないはずの、元・女湯のほうから。
2. 脚立の上の人
引き戸が、少しだけ開いていた。
隙間から、白い光が漏れている。僕はなんとなく、そっと中を覗いた。
タイル張りの、広い浴室。湯船はもう空っぽで、底に脚立が立てられている。蛍光灯の作業灯が、正面の壁を煌々と照らしていた。
その壁に、富士山があった。
横幅で五メートルはある、大きな絵。青い空、白い雪をいただいた山、手前に広がる松林。銭湯の壁絵だ。でも、ところどころ塗りがかすれて、色が褪せている。その褪せた山に、脚立の上に立った誰かが、刷毛で、青を足していた。
(……人、いるじゃないか)
背の高い、髪をひとつに束ねた女の人。ペンキで汚れたつなぎを着て、こちらに背を向けたまま、黙々と刷毛を動かしている。空の青と、山の青と、影の青。同じ青に見えるのに、何種類もの青を、迷いなく塗り分けていく。
僕は、編集室で散々「青を足せ」と言われてきた。なのに、本物の青を、こんなにまっすぐ塗る人を、初めて見た気がした。
見惚れていたら、引き戸が、僕の手の重みで、かたんと鳴った。
彼女が、振り返った。
3. 銭湯絵師見習い
「……あ。新しく入った人?」
低くて、落ち着いた声だった。僕より、少し年上に見えた。
「す、すみません。今日越してきた、安藤です。ペンキの匂いがして、つい」
「うるさかったですよね。夜じゃないと、ここ使えなくて」
彼女は脚立を降りて、刷毛を缶の縁で拭いた。手の甲にも、頬にも、青いペンキがついている。
「これ……あなたが、描いてるんですか」
「描き直してる、が正しいです。元からあった絵を、消えないように、塗り重ねてるだけ」
彼女は、白岩澪(しらいわみお)さん、28歳。二つ年上。本職は――銭湯の壁絵を描く、銭湯絵師の見習いだという。
「親方について、修行中です。でも今、銭湯ってどんどん減ってて。描く現場が、ほとんどないんですよ。だから腕がなまらないように、ここの絵を、勝手に練習台にさせてもらってて」
「大家さんは、知ってるんですか」
「梶さん? むしろ大喜びです。『うちの富士山、生き返らせてくれ』って」
ふっ、と彼女が口角だけで笑った。表情はほとんど動かないのに、その小さな笑みが、やけに印象に残った。
「邪魔して、ごめんなさい。匂い、二階まで行きますよね。窓、開けときます」
「いえ。……むしろ、すごく、きれいだったので」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ目を見開いて、それから、刷毛に視線を戻した。
「……まだ、空しか塗ってないですけどね」
4. 刷毛を洗う係
それから僕は、夜になると、元・女湯を覗くのが癖になった。
澪さんは、たいてい、そこにいた。仕事の現場がないぶん、時間はあるのだという。脚立に立ち、息を止め、瞬きもせずに、青を塗る。そのくせ、作業が一段落すると、ふっと肩の力を抜いて、こちらを見る。
「安藤さん。また見てる」
「すみません、つい」
「……手、空いてます?」
ある夜、彼女がそう言って、刷毛を一本、差し出してきた。
「描くのは無理だけど。刷毛を洗うのは、誰でもできます。これ、洗ってくれると、助かる」
銭湯絵に使うペンキは、油性で、独特だった。専用の薄め液をバケツに張って、刷毛をしごき、毛先の根元まで青を抜いていく。教わったとおりにやると、最初は濁っていた液が、だんだん澄んでいく。
「これ……根元に色が残ると、だめなんですよね」
「よく気づきましたね。根元で固まると、次に塗るとき、毛先が割れる。仕上がりに出ます」
「映像も、同じです。前のカットの色が残ってると、次のカットが濁る」
彼女が、ふっと笑った。
「……似てますね。私たち、やってること」
その夜から、僕は「刷毛を洗う係」になった。澪さんが塗り、僕が洗う。広い浴室に、刷毛をしごく音と、ぴちゃぴちゃという水音だけが響く。編集室の、矢印みたいな矢の催促が一つもない、静かな夜だった。
5. 何種類もの青
澪さんは、無口な人だった。
でも、青の話になると、別人みたいに、言葉が増えた。
「銭湯の富士山って、ぜんぶ青に見えるでしょう。でも、空の青と、山の青は、別なんです。空はちょっと緑を入れて、抜けるように。山は、ほんの少し赤を混ぜて、重くする。遠近で、青を変えるんです」
「……それ、画面の色補正と、まったく同じです」
「でしょうね。安藤さんなら、わかると思った」
彼女は、湯船の縁に腰かけて、薄め液で薄まった青を、指先で見つめた。
「私、本当は、自分の絵を描きたかったんです。美大で、絵を。でも、就職もうまくいかなくて。たまたま見た銭湯の富士山に、泣くほど感動して。それで、親方に弟子入りした」
「すごいじゃないですか」
「すごくないです。だって、銭湯、もうほとんど残ってない。私が一人前になるころには、描く壁が、一枚もないかもしれない」
作業灯に照らされた横顔が、少しだけ、寂しそうだった。
「消えていくものを、必死で描き直してるんです。バカみたいでしょう」
「……バカじゃないですよ」
僕は、思わず言っていた。
「僕なんか、毎日、明日には消える動画を作ってます。三日でバズって、四日で誰も覚えてない。……でも澪さんの富士山は、ここに残る。少なくとも、僕は、ずっと覚えてます」
彼女が、ゆっくりこちらを見た。作業灯の白い光の中で、その目が、わずかに揺れていた。
「……安藤さんって、ずるい言い方しますね」
低い声が、少しだけ、湿っていた。
6. 銭湯に行く
ある日曜、澪さんに「付き合ってほしいところがある」と言われた。
行き先は、まだ営業している、町の銭湯だった。電車を乗り継いだ先の、煙突から本物の湯気を上げる古い一軒。彼女は暖簾の前で立ち止まって、嬉しそうに僕を見た。
「ここの富士山、親方が三十年前に描いたんです。一回、本物の現役の絵、見てほしくて」
男湯と女湯に分かれる前、二人で番台にお金を払った。
「……じゃあ、向こうで。のぼせないでくださいね」
「澪さんこそ」
男湯の壁にも、堂々とした富士山があった。湯気の向こうで、青が、生きているみたいに鮮やかだった。これを、彼女は毎晩、ひとりで追いかけているのか。そう思うと、僕は、湯に浸かりながら、妙に胸が熱くなった。
風呂上がり、脱衣所の前で待っていると、髪を下ろした澪さんが出てきた。
つなぎでも作業灯でもない、上気した頬の彼女。Tシャツに、濡れた髪。いつもの彼女とまるで違って、僕は、コーヒー牛乳の瓶を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。
「……なんですか、その顔」
「いや。……髪、下ろしてるの、初めて見たので」
「…………」
彼女は何も言わずに、僕の手からコーヒー牛乳を奪って、ぐいっと飲んだ。耳が、ほんの少し、赤かった。
帰り道、夕焼けの商店街を、二人で並んで歩いた。空が、彼女の塗る山の青から、ゆっくりオレンジに変わっていく。僕は久しぶりに、編集ソフトを通さずに、空の色を、ただ、きれいだと思った。
7. 仕上げの夜
富士山の絵は、その週末、完成に近づいた。
最後に残ったのは、頂上の雪。澪さんは脚立の一番上に立って、白い絵の具を、慎重に、置くように塗っていく。
「ここだけは、失敗できないんです。雪が決まると、山が、ぐっと立ち上がる」
「……手伝えること、ないですか」
「ありますよ。下から見てて、傾いてないか、教えて」
僕は、浴室の入り口から、彼女と富士山を、まっすぐ見上げた。
「……ちょっと、右が高い、かも」
「……ほんとだ。さすが、編集の人。目がいい」
最後の白を置き終えて、彼女が、ふう、と長い息を吐いた。脚立を降りて、僕の隣に立ち、二人で、完成した富士山を見上げる。
褪せていた青が、よみがえっていた。空が抜けて、山がそびえて、頂上の雪が、しんと光っている。タイルの湯船に、富士山が逆さまに映り込んで、まるで本物の湖みたいだった。
「……すごい。生き返った」
「……うん」
彼女の声が、震えていた。見ると、澪さんの目から、ぽろっと、涙がこぼれていた。
「……ごめんなさい。完成すると、いつも、泣いちゃうんです。終わっちゃうのが、寂しくて」
「……終わらないですよ」
「え」
「この絵、ここに残るんでしょう。僕、毎日、見ます。……それに、澪さんも、ここに、いるじゃないですか」
彼女が、こちらを向いた。涙で濡れた目が、作業灯の白い光を、いっぱいに溜めて光っている。
距離が、思っていたより、ずっと近かった。
8. タイルの上で
どちらからともなく、顔が近づいた。
ペンキの匂いと、薄め液の匂いと、その奥に、銭湯で嗅いだ彼女の髪の匂い。完成したばかりの富士山の下で、僕たちの影が、タイルの壁に、ひとつに重なった。
唇が、触れた。
ちゅ……。
やわらかくて、少しだけ、しょっぱかった。涙の味だ。一度離れると、澪さんが、潤んだ目で僕を見上げて、つぶやいた。
「……ずっと、刷毛だけ、洗わせてて。ごめんね」
「いえ。……僕は、洗えて、よかったです」
「……ばか」
今度は、彼女のほうから、背伸びをして、唇を寄せてきた。ちゅっ……んっ……。さっきまで毅然と脚立に立っていた人が、僕のシャツの裾を、きゅっと握って、震えている。
「……澪さん」
「……澪、でいい。刷毛、一緒に洗った仲だし」
「……澪」
名前を呼ぶと、彼女が、びくっと肩を震わせて、僕の胸に、こつんと額を当てた。
「……ここ、人来ないけど。さすがに、タイル、固いよ」
「……上に、何か敷きます。養生シート、そこに」
二人で、浴室の隅に積まれた、まだきれいな養生シートを広げた。作業灯を一つだけ残して、彼女が、もう一つを、ぱちんと消す。薄暗くなった浴室で、富士山の青だけが、ぼんやり浮かんでいた。
9. 青の下で
シートの上に、澪さんをそっと座らせた。見下ろすと、彼女が、いつもの落ち着いた表情を崩して、潤んだ目で僕を見上げてくる。
「……脱がせて、いい?」
「……うん。でも、つなぎ、ペンキだらけ」
「知ってます。毎晩、見てたので」
つなぎのファスナーを、ゆっくり下ろす。中から、Tシャツに包まれた、思っていたよりずっと華奢な体が現れた。袖を抜かせ、Tシャツをめくり上げると、彼女が「ん……」と小さく息を詰めた。
ブラのホックを外すと、ぷつんと弾けて、白い胸がこぼれた。脚立の上では凛としていた人の、やわらかな部分。先端は、もう、つんと尖っている。
「……っ、あんまり、見ないで」
「……きれいだ。澪の塗る、雪みたいに、白い」
「……そういうの、ほんと、ずるい」
僕は、その胸を、下からそっと包んだ。手のひらに、あたたかくて柔らかい重みが沈む。
ふにっ……。
「んっ……♡」
ゆっくり揉みながら、尖った先を、指の腹で、こりっと転がす。
「ひゃっ♡♡ そこ……だめっ……♡」
無口な人の、抑えきれずに漏れた声。それが、僕の頭の芯を、じんと痺れさせた。もう片方の胸に顔を寄せて、先端を口に含む。ちゅっ……れろ……ちゅぱっ……。
「んあっ♡♡ 声、出ちゃう……っ♡♡」
澪が、手の甲で口を押さえた。普段あんなに静かなのに、今は必死で声を殺している。そのギャップに、くらくらした。
胸を可愛がりながら、もう片方の手を、彼女の腰へ、下着の中へと、そっと滑らせた。
「……触るよ」
「……うん♡ 来て」
濡れたところに、直接、指で触れる。くち……と、小さな水音がした。すじに沿って指をゆっくり上下させ、小さな突起を探り当てて、転がす。くりっ……くりくりっ……。
「んんっ♡♡♡ そこっ……だめ、だめっ……♡♡」
彼女の腰が、がくがくと震える。中指を、ぬかるんだ入り口に、ゆっくり沈めた。ずぷっ……。
「んああっ♡♡♡」
(……あたま、まっしろ……青しか、見えない……♡)
中をやさしくかき回されて、澪は、もう何も考えられないみたいに、僕の腕にしがみついた。指を曲げて、奥のざらついたところを擦ると、彼女の体が、大きくしなる。
「あっ♡♡ 湊くんっ……それ、すごいっ……♡♡♡」
初めて名前を呼ばれて、胸が、ぎゅっとなった。びくびくと跳ねる腰を支えながら、指の動きを速める。
「いくっ……♡♡♡ 湊くん、私っ……いっちゃうっ……♡♡♡♡」
びくんっ♡♡♡――。
きゅうっと指を締めつけて、澪が、僕の腕の中で達した。力が抜けて、シートに沈み込む。荒い息のあいだから、潤んだ目で僕を見上げて、震える手を伸ばしてきた。
「……湊くんも。私で、気持ちよくなって」
10. ひとつになる
服を脱いで、澪をシートにそっと横たえた。富士山の青が、彼女の白い肌に、淡く映り込んでいる。高ぶりが、濡れた入り口に触れた。
「……痛かったら、言って。ちゃんと、つけるから」
「……うん♡ そういうとこ、好き」
薄い膜をつけて、ゆっくりと、腰を進めた。
ずぷ……ずずっ……。
「んんっ♡♡♡ あっ……いっぱい……♡♡」
奥まで、ゆっくり満たされていく。彼女の中が、僕を、きゅうっと包み込んだ。澪の目尻に、生理的な涙がにじむ。僕は動きを止めて、その涙を、唇でそっと拭った。
「……平気?」
「……うん♡ 動いて。湊くんの、好きに……♡」
ずちゅっ♡ ずちゅっ♡♡――。
ゆっくりと動き始める。最初はこわれものを扱うように。でも、彼女が「もっと」と腰を揺らすと、僕の余裕は、だんだん溶けていった。
「あっ♡♡ 奥っ……当たるっ……♡♡♡」
「……澪。可愛い。ずっと、こうしたかった」
「私もっ……♡♡ 毎晩、湊くんが、覗きに来るの……待ってたっ……♡♡♡」
富士山の青の下で、肌の触れ合う音と、彼女の甘い声が、広い浴室にこだまする。他人の季節ばかり作って、自分が空っぽだった僕を、澪が、名前を呼んで、夢中になって、求めてくれる。それが、どうしようもなく、うれしかった。
「また、来ちゃうっ……♡♡♡ 湊くんっ……いっしょにっ……♡♡♡♡」
「……っ、俺も、もう……」
ずんっ♡♡♡――奥を深く突いた瞬間、彼女の体が、大きく跳ねた。僕は澪を強く抱きしめて、低く呻く。薄い膜越しに、自分が震えるのが伝わった。
「んんんっ♡♡♡♡」
絶頂の余韻の中で、僕たちは、しばらく動けずに、ただ抱き合っていた。彼女の心臓の音が、僕の胸に、速く、まっすぐ伝わってくる。タイルの底に映る富士山の湖が、二人の影で、そっと揺れていた。
11. 青を見分けられる夏
気づくと、磨りガラスの窓が、うっすら白み始めていた。
澪が、僕の胸に頬を寄せて、寝息を立てている。ペンキと、薄め液と、彼女の髪の匂い。僕はもう、この匂いから、たぶん一生離れられない気がした。
そっと髪を撫でると、彼女が薄く目を開けて、いつもの落ち着いた声で、ぽつりと言った。
「……完成した夜は、寂しいって言ったでしょう」
「うん」
「今日は、寂しくない。……初めて」
彼女が、僕の胸の中で、もぞもぞと顔を上げた。富士山を見上げて、それから、僕を見て、ふっと、口角だけで笑う。あの夜、最初に見惚れた、あの笑み。
「ねえ。次の銭湯、見つかったら。……手伝ってくれる? 刷毛、洗う係」
「……雇われましょうか。専属で」
「給料、出ないよ」
「……コーヒー牛乳でいいです。風呂上がりの」
彼女が、声を出さずに笑って、僕の肩に、こつんと頭を預けた。
その朝、二人で、まだ富士山の青が乾ききらない元・女湯を出た。脱衣所の広間に、夏の朝日が差し込んでいた。
「あれ。二人とも、早いね。……っていうか、なんで二人いっしょに、女湯から出てくるの」
ばっちり起きていた大家の梶さんと、廊下で鉢合わせた。澪の耳が、みるみる赤くなる。僕は、咳払いをして、できるだけ平静を装った。
「……富士山、完成したので。報告を」
「……ふーん。富士山ねえ」
梶さんは、にやにやしながら、それ以上は何も聞かずに、台所へ消えていった。澪が、はあ、と息を吐いて、僕の腕を、ぽすっと叩いた。
「……バレてる」
「……バレてますね」
二人で、顔を見合わせて、笑った。
毎日、他人の季節の色ばかり作って、自分が今どの季節にいるのか、わからなくなっていた僕に。澪が、何種類もの青を、見分ける目をくれた。空の青と、山の青。そして、彼女の塗る、生き返った富士山の青を。
その夏、僕はようやく、自分の季節の色を、まっすぐ、きれいだと思えるようになった。
― 終 ―