押し花、というのは、ただ花を本に挟んで潰すだけのものだと思っていた。
僕、藤野悠真(ふじの ゆうま)、二十歳。大学の経済学部に通う二年生だ。特にやりたいことがあって入った学部じゃない。点が取りやすそうで、つぶしが効きそうで——そういう理由だけで選んで、気づけば二年になっていた。サークルは半年で幽霊部員になり、バイトも続かず、講義は単位の取れるものだけ拾う。何ひとつ本気になれないまま、僕はキャンパスを、ふわふわと漂っていた。
そんな十一月のはじめ、学生課の掲示板に、一枚のバイト募集が貼ってあった。
『標本整理補助(週二・短期)。理学部標本庫。力仕事ほぼなし。座ってできます』
(……座ってできる。楽そうだな)
それだけの理由で、僕は応募した。指定された場所は、キャンパスのいちばん奥、植物園の裏手にある、蔦の這った古い木造の建物だった。「標本庫」と、かすれた木札が下がっている。重い引き戸を開けると、ひんやりと乾いた空気と——なんとも言えない、古い草と、樟脳の匂いが、僕を包んだ。
天井まで届く木の棚が、ずらりと並んでいる。棚という棚に、分厚い紙の束が、隙間なく詰まっている。その奥に、ひとりの人が、背を向けて座っていた。
(……誰だ、あの人)
机に向かって、大きな紙に貼りつけた一枚の葉に、細いペンで、何か書きこんでいる。集中しきっていて、僕が入ってきたことにも気づかない。窓から差す午後の光が、その横顔と、机の上の乾いた草を、白く照らしていた。
声をかけようとして、僕は、ふと、言葉を呑んだ。なんだか、邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
*
しばらくして、その人がペンを置き、ようやくこちらを向いた。
「……あなた、今度のバイトの子? 藤野くん?」
「あ……はい。藤野です」
「椎名(しいな)。院の二年。この標本庫、いま私が一人で片づけてるから。よろしく」
椎名透子(しいな とうこ)さん。大学院の修士二年で、植物分類学を専攻しているのだという。歳は僕の四つ上の、二十四。細身で、白衣でも作業着でもない、色の落ちた紺のセーターを着ていた。化粧っ気はないのに、目だけが、やけにくっきりと澄んでいる。
「力仕事はほとんどない、って書いたけど。代わりに、根気のいる仕事だよ。退屈かもしれない。それでも平気?」
「あ、はい。たぶん」
「……『たぶん』か」
椎名さんは、ふっと小さく笑って、それ以上は聞かなかった。そして、机の上の紙の束を、一つ、僕の前に置いた。新聞紙だ。古い新聞紙に、ぺたりと、一枚の植物が挟まっている。茎も、葉も、花も、紙みたいに薄く、乾いて、平らになっていた。
「これが、植物標本。さく葉標本っていうの。採ってきた植物を、こうやって平らに乾かして、台紙に貼って、ずっと残す。百年でも、二百年でも」
「二百年……ですか」
「うん。この標本庫にも、明治の標本がある。採った人は、とっくに死んでる。でも、植物だけは、ここに、生きてたときの姿のまま、残ってる」
そう言って、椎名さんは、棚の奥に目をやった。その横顔が、なんだか、墓守みたいに静かで、僕は、うまく言葉が継げなかった。
*
その日から、週に二度、火曜と木曜の夕方が、僕の新しい時間になった。
仕事は、椎名さんの言ったとおり、ひたすら地味だった。まず教わったのは、「新聞の挟み替え」。採ってきたばかりの植物は、新聞紙に挟んで、押し板で重しをして乾かす。けれど、ただ放っておくと、湿気でカビたり、色が悪くなったりする。だから、乾ききるまでの何日かは、毎日、新聞を新しいものに替えてやらなければいけない。
「植物を、傷つけないように。葉っぱの裏も表も、ちゃんと見えるように、形を整えて、そっと挟む。——そう、雑にやらない。一回雑にやると、その標本は、もう二度と、きれいにはならないから」
「……一回で、決まっちゃうんですね」
「そう。やり直しがきかない。生きてたものだから」
椎名さんの手は、信じられないくらい、丁寧だった。ピンセットの先で、しおれかけた花びらを、一枚ずつ、もとの形に起こしていく。萼の向きを直し、葉を裏返して、葉脈が見えるように整える。その手元を見ているだけで、僕は、なぜだか、息を詰めてしまう。
普段の椎名さんは、ほとんど喋らない。けれど、植物のことになると、急に言葉が増えた。
「ねえ、藤野くん。この葉っぱの縁、ぎざぎざしてるでしょ。これ、『鋸歯(きょし)』っていうの。この鋸歯の形が、種類を見分ける、いちばんの手がかりになる」
「……葉っぱのギザギザだけで、わかるんですか」
「わかる。慣れれば、葉っぱ一枚で、名前が言える。——植物はね、嘘をつかないから。同じ種類は、必ず、同じ形をしてるの」
嘘をつかない、という言葉が、なぜか、僕の胸の、やわらかいところに、ことんと落ちた。
*
新聞の挟み替えに慣れたころ、椎名さんは、次の仕事を教えてくれた。乾いた標本を、台紙に貼りつけて、ラベルを書く作業だ。
ラベルには、決まったことを書く。和名。それから、ラテン語の学名。採集した場所、採集した日、採集した人の名前。椎名さんは、製図用みたいな細いペンで、米粒くらいの小さな字で、それを書いていく。
「……このアルファベット、なんて読むんですか。ぜんぜん読めない」
「ラテン名。学名は世界共通で、ラテン語って決まってるの。たとえば、これ」
椎名さんが、ペンの先で、一枚の枯れた草を示した。
「ゲンチアナ・スカブラ。日本語だと、リンドウ。秋の終わりに、青い花を咲かせる」
「げんちあな……すかぶら」
「うん。発音、わりと上手」
椎名さんが、ちょっとだけ、口の端を上げた。それが、僕がはじめて見た、ちゃんとした笑顔だった。たったそれだけのことで、僕の心臓は、間抜けに一回、跳ねた。
同じバイトに入った同期の大滝(おおたき)は、その日、早々に音を上げていた。
「藤野、お前よくやるな。俺もう無理。座ってできるって書いてあったから来たのに、こんなの、ただ古い草に名前つけてるだけじゃん」
「……まあ、確かに、地味だよな」
「だろ? 何が楽しいんだか」
正直、最初は僕も、まったく同じことを思っていた。けれど——椎名さんの隣で、米粒みたいな字を書く横顔を見ているうちに、僕には、それが、どうしても「ただの草」には見えなくなっていた。
大滝は、次の週から、来なくなった。標本庫には、椎名さんと、僕だけが残った。
*
ある火曜の夕方、僕は、思いきって聞いてみた。
「椎名さんは、どうして、こんなに一人で……。この標本、全部、一人で片づけてるんですか」
「……うん。一人」
椎名さんは、ペンを置いて、棚の奥を、しばらく見ていた。それから、ぽつりと言った。
「この標本庫ね、来年の春に、取り壊しになるの。古くて、耐震がどうとかで。中の標本は、本館の新しい収蔵庫に移すことになってる。でも——移すには、一点ずつ、状態を確かめて、ラベルを直して、データに登録しなきゃいけない。何万点も、あるのに」
「何万点……。それを、椎名さん一人で?」
「うん。——ここの標本の、半分以上はね、私の先生が、作ったものなの。蓑島(みのしま)先生っていう、おじいちゃん先生。六十年、この標本庫に通って、たった一人で、こつこつ集めた」
椎名さんの声が、少しだけ、湿った。
「先生、去年の秋に、亡くなったの。山に、植物を採りに行く途中で、倒れて。……先生の標本を、ゴミみたいに、よその手で雑に運ばせるの、私、どうしても、嫌で。だから、一点ずつ、ちゃんと、私が看取ってから、送り出したいの」
看取る、という言葉を、椎名さんは、植物に使った。生きていたものだから、と。僕は、その横顔から、目が離せなかった。
「……椎名さんは、その、植物分類って、就職とか、あるんですか」
「ふふ。痛いとこ突くね。ない。ほとんど、ない」
椎名さんは、笑った。けれど、その笑いは、少し、寂しそうだった。
「親にも言われたよ。そんな、お金にもならない地味なこと、いつまでやるのって。同期は、もうみんな、就職してく。私だけ、こんな古い建物で、死んだ草に、名前つけてる」
「……」
「でもね。台紙に、標本を一枚、きれいに貼れたとき。あ、私、これが好きなんだって、思い出すの。——藤野くんには、わかんないか。何かを、好きで好きで、たまらないって感じ」
わかんない、と言われて、僕は、なぜか、無性に悔しかった。何ひとつ本気になれない、漂ってばかりの自分の、いちばん痛いところを、やさしく言い当てられた気がして。
「……僕にも、いつか、わかりますか。そういうの」
「……どうだろう。でも」
椎名さんは、僕の顔を、まっすぐに見た。
「藤野くん。あなた、はじめてここに来たとき、私が標本書いてるの、邪魔しないで、黙って待っててくれたでしょ。あれ、ちょっと、嬉しかった。——あなた、たぶん、自分で思ってるより、丁寧な子だよ」
その一言が、漂うばかりだった僕の、どこか深いところに、錨みたいに、ゆっくりと、下りていった。
*
十一月の終わりの、よく晴れた日曜だった。椎名さんから、めずらしく、メッセージが来た。「もし暇なら、採集、手伝ってくれない?」と。
僕は、二つ返事で、キャンパスの裏山の登り口へ向かった。椎名さんは、リュックを背負って、胴乱(どうらん)という、植物を入れるブリキの筒を肩から下げて、待っていた。
「先生のコレクション、最後に、どうしても、もう一点だけ、足したくて」
「最後の一点?」
「先生の標本、整理してたら、空いてる番号が、一個だけあったの。先生が、亡くなった日に採りに行こうとして、果たせなかった分。——リンドウ。この裏山の、いちばん上にだけ咲く、青いやつ。先生が、六十年、毎年欠かさず採ってた」
ゲンチアナ・スカブラ。あのとき教わった、ラテン名の青い花。
落ち葉を踏んで、二人で、山道を登った。木枯らしが、梢を鳴らしていた。椎名さんは、登りながらも、ずっと、足元の草に目を配っていた。その目は、標本庫にいるときと同じ、澄んだ、強い目だった。
頂上近くの、日当たりのいい斜面で、椎名さんが、ふいに、足を止めた。
「……あった」
枯れかけた草の中に、ぽつん、ぽつんと、青い花が、咲いていた。空よりも、海よりも深い、吸い込まれそうな青。霜にあたって、もう、ほとんど終わりかけの、最後の花だった。
「先生。……ちゃんと、今年も、咲いてましたよ」
椎名さんが、しゃがんで、花に、そっと話しかけた。その横顔を、僕は、たぶん一生、忘れない。日に当たって、まつ毛が金色に光って、その目が、うっすら、濡れていた。
「……椎名さん」
「ありがとう、藤野くん。一人だと、ここ、来る勇気、なかったかも。先生が倒れた場所だから」
椎名さんは、慣れた手つきで、根を傷めないように、一株だけを、ていねいに採った。残りの花は、来年のために、そっと、そのままにして。青い花を胴乱に納めて、僕らは、山を下りた。下り道で、椎名さんの手が、一度だけ、僕の手の甲に、ふれた。冷たくて、少しだけ、震えていた。
*
採ってきたリンドウは、すぐに、新聞紙に挟まれた。
そして、毎日の挟み替えを経て、十二月の半ばには、すっかり、平らに、乾いた。青い花は、乾いても、不思議なくらい、青いままだった。あとは、台紙に貼って、最後のラベルを書けば——蓑島先生の、六十年のコレクションが、完結する。
その日は、朝から、空が、やけに低かった。夕方、僕が標本庫に着くころには、窓の外を、白いものが、ちらちらと、舞いはじめていた。
「……椎名さん。雪、降ってきました。今年、初めての」
「……ほんとだ。初雪」
椎名さんは、窓辺に立って、しばらく、雪を見ていた。それから、机に戻って、乾いたリンドウを、最後の空いた台紙の上に、そっと置いた。
「藤野くん。……この最後の一点、一緒に、貼ってくれる?」
「え……僕が? いいんですか。先生の、大事な」
「うん。あなたと、貼りたい。——あなた、丁寧だから」
僕の手は、緊張で、少し震えた。椎名さんに教わったとおり、細い紙テープで、茎を、葉を、一か所ずつ、台紙に留めていく。椎名さんの手が、僕の手に添えられて、角度を、そっと、直してくれる。二人の手が、青い花の上で、重なった。
「……できた」
「……できましたね」
台紙の隅に、椎名さんが、最後のラベルを貼った。そこには、先生の字を真似た、椎名さんの細い字で、こう書いてあった。「ゲンチアナ・スカブラ。採集者・蓑島先生、ならびに、椎名透子」。
その名前を見た瞬間、椎名さんの目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
「……終わっちゃった。先生の、六十年」
「椎名さん……」
「これで、私、ここに来る理由、なくなっちゃう。春には、この建物も、なくなる。——なんか、迷子になっちゃったみたい」
迷子。それは、僕が、ずっと自分に貼っていた言葉だった。窓の外で、雪が、音もなく、降り積もっていく。僕は、もう、こらえられなかった。泣いている椎名さんの、その細い肩に、そっと、手を回した。
*
「……藤野くん」
「はい」
「ごめん。バイトの子に、こんな……」
椎名さんは、顔を上げた。すぐ近くに、涙に濡れた目があった。乾いた草と樟脳の匂いの中で、その目だけが、生きている植物みたいに、瑞々しかった。
「……椎名さんは、迷子じゃないです」
「え?」
「僕、わかったんです。何かを好きで好きでたまらないって、こういうことなんだって。椎名さんを見てて、ずっと、教わってた。——僕は、漂ってただけだったけど。椎名さんは、ずっと、ここに、根を張ってた」
椎名さんの睫毛が、ふるりと、揺れた。
「だから、迷子なんかじゃない。次に根を張る場所を、探すだけです。……それ、僕にも、手伝わせてください」
しんと、標本庫が、静まった。雪あかりが、窓から、青白く差している。椎名さんが、ゆっくりと、目を閉じた。
僕は、その冷たい頬に手を添えて、そっと、唇を重ねた。
「ん……」
唇は、頬の冷たさとは裏腹に、やわらかくて、熱かった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し、深く。
ちゅ……ちゅっ……
「……藤野くん。バイトの子に、こんなの、だめなのに」
「……やめますか」
「……やめないで」
椎名さんが、僕のシャツを、きゅっと握った。標本庫の隅、棚の陰には、誰も来ない、蓑島先生が長年使っていたという、小さな作業部屋があった。僕は、椎名さんの手を引いて、二人で、そこへ入った。
*
古い木の机と、すり切れたソファが一つだけの、狭い部屋だった。電気ストーブをつけると、じんわりと、空気があたたまっていく。雪あかりと、ストーブの赤い灯りだけが、部屋を、淡く照らした。
もう一度、深く口づけながら、僕は、椎名さんのセーターの裾に、おそるおそる、手をかけた。
「……椎名さん、きれいです」
「……やめて。私、植物のことしか、取り柄ないのに」
「そんなことない。……ずっと、きれいだと思ってました」
そう言いながら、紺のセーターを、そっと脱がせる。下から現れた肌は、いつも標本に向かう、あの白い手と同じくらい、白くて、なめらかだった。陽の当たらない場所に、ずっと隠れていた肌。それが、ストーブの灯りに、ふわりと、浮かんだ。
「……あんまり、見ないで」
「……無理です」
れろ……ちゅ……
「ん……っ」
首筋に唇を這わせると、椎名さんの体が、びくりと、跳ねた。植物の前ではあんなに静かで、揺るがない人が、僕の腕の中で、少しずつ、ほどけていく。それが、たまらなく、愛おしかった。
「……藤野くん。ストーブ、暑いね……」
「……じゃあ、こっち、来てください」
すり切れたソファに、僕は、椎名さんを、そっと横たえた。
*
横たわった椎名さんに、ゆっくりと、覆いかぶさる。あらわになった胸を、壊れ物の標本に触れるみたいに、そっと、手で包んだ。
「あ……っ」
「……痛くないですか」
「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと立ちはじめた先端をかすめると、椎名さんの肩が、ぴくんと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、変な、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、僕がそっと先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、椎名さんの体から、ふっと、力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、雪の夜のしずけさに、こぼれる。誰もいない標本庫でよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聞かせたくない。僕だけが、知っていたい。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、太腿の内側を、ゆっくりと撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いてください。椎名さんのペースで」
「……っ、藤野くんが、そう言うと、ずるい……っ」
いちばん敏感なところに、指でそっと触れると、もう、そこが熱くなっているのがわかった。撫でるたびに、椎名さんの腰が、小さく揺れる。やがて直接そこに触れると——
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてます」
「言わないで……っ♡ キス、の、ときから……っ」
恥ずかしさで顔を背ける椎名さんに、僕は何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でた。椎名さんが、僕の腕に、ぎゅっと、しがみつく。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ちいいですか」
「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくりと、中へ沈めていく。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。標本に向かうときの、あの張りつめた集中とは、まるで逆。椎名さんの中は、やわらかく、ほどけていた。指の動きに合わせて、その体が、だんだん高まっていくのが、わかる。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「いいですよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、椎名さんの体が、びくびくっと、跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、椎名さんはぎゅっと体を丸めて、達した。いつも凛として、植物の前で背筋を伸ばしている人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が、締めつけられた。
「……大丈夫ですか」
「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」
息を切らす椎名さんの額に張りついた前髪を、僕は、そっと、よけた。
*
「……藤野くん」
「はい」
「……最後まで、してほしい。藤野くんと、なら」
植物のことしか喋らない、無口なその人が、頬を染めて、そんなことを言う。僕は、ごくりと、喉を鳴らした。
「……無理、してないですか」
「してない。私が、したいの。……今夜のこと、ちゃんと、私の中に、残しておきたいの」
標本みたいに、と椎名さんは、小さく笑った。その言葉に、僕は、胸が熱くなった。財布の中に、念のため入れていた小さな包みを取り出すと、椎名さんが、それを見て、ほっとしたように、ふっと笑った。
「……そういうとこ、ちゃんとしてる」
「椎名さんに、丁寧にやれって、教わったので」
「……もう。こんなときに」
すり切れたソファの上で、僕は、椎名さんに、そっと、体を進めた。熱く張りつめたものを、入り口に、あてがう。
「……いきます。痛かったら、すぐ言ってください」
「……うん」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、椎名さんは僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、椎名さんの中が、僕を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……あ……っ」
「……止めますか」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、椎名さんの様子を窺いながら、ほんの少しずつ、進んだ。途中で何度も止まって、額にキスを落として、また、少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。繋がった場所から、じんわりと、熱が、広がっていく。
「……全部、入ってる……?」
「はい。……全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
椎名さんの目に、うっすら、涙がにじんでいた。ずっと、机越しに、標本越しに、教わる距離越しに見ていた人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を、指で、そっと拭った。
「……動いて、平気ですか」
「うん……っ。来て、藤野くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、椎名さんの体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、その声が、漏れる。
「……痛くないですか」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」
「気持ちよく、なってきました?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、藤野くんの、好き……っ♡」
口走ってから、椎名さんは自分の言葉に、また、顔を赤くした。それが体のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちもだったんだと思う。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「藤野くん……っ♡」
「透子さん」
「……っ♡ 名前……」
「透子さん。……ずっと、こう呼びたかった」
下の名前で呼ぶと、椎名さんは僕の首に腕を回して、自分から、唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ、深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 藤野くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……僕も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 藤野くんと、一緒……っ♡」
僕は、椎名さんをぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 藤野くん……っ♡♡」
「……っ、透子さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、椎名さんの体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。雪の降る夜の標本庫で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
「……はぁ……っ、藤野くん……」
「……透子さん。痛くなかったですか」
「……痛かった、けど。……それより、ずっと、あったかかった」
僕は、椎名さんの汗ばんだ額に、何度も、キスを落とした。
*
窓の外を見ると、雪は、いつのまにか、すっかり止んでいた。
ソファに身を寄せ合ったまま、僕らは、しばらく、何も言わずにいた。乾いた草と樟脳の匂いの中で、椎名さんの体だけが、あたたかく、湿っていた。机の上には、完成したばかりの、青いリンドウの標本が、雪あかりに、青く、静かに、光っていた。
「……ねえ、藤野くん」
「はい」
「私ね、春には、ここを出て、たぶん、遠くの植物園に行く。研究員の口が、一つだけ、見つかりそうなの。お給料は、ぜんぜん安いけど」
「……根を張る場所、見つかったんですね」
「うん。……藤野くんが、探すの手伝うって、言ってくれたから。なんか、勇気が出た」
椎名さんは、僕の胸に、こてんと、頭を預けてきた。
「だから……これ、今夜だけ、にしたくない。遠くなっても。藤野くんが、嫌じゃなければ」
「嫌なわけ、ないです」
僕は、椎名さんの髪に、唇を寄せた。
「僕、決めたんです。来年、植物の勉強、ちゃんとやってみようと思って。経済学部だけど、理学部の講義、潜りで取れるか、聞いてみます。——透子さんの、いちばん後ろの後輩として」
「ふふ。……それ、私を追いかけてくる口実?」
「半分は。……もう半分は、本気です。何かを好きで好きでたまらないって、どんな感じか、もっと知りたくなったんで」
椎名さんが、顔を上げて、くしゃっと、笑った。あの裏山で、リンドウを見つけたときと同じ、生きている植物みたいに、瑞々しい笑顔だった。
「……生意気な、後輩」
「透子さんに、鍛えられたので」
*
春になって、古い標本庫は、予定どおり、取り壊された。
蓑島先生の六十年分の標本は、一点残らず、本館の新しい収蔵庫へ、椎名さんの手で、ていねいに送り出された。あの青いリンドウも、いちばん新しい番号をもらって、六十年のコレクションの、最後の一点として、永く、残ることになった。百年でも、二百年でも。採った人が、いなくなっても。
椎名さんは、約束どおり、遠くの植物園へ旅立った。月に一度、僕は、長い電車に乗って、会いに行く。白衣を着て、温室で働く透子さんは、相変わらず、植物のことになると、急に、おしゃべりになる。
押し花、というのは、ただ花を本に挟んで潰すだけのものだと思っていた。でも、本当は、違った。生きていたものの、いちばんきれいな姿を、丁寧に、丁寧に、ずっと先まで、残してやること。——人の心も、たぶん、同じなんだと、僕は、あの雪の夜に、彼女に教わった。
何ひとつ本気になれなかった僕は、もう、どこにもいない。漂うのを、やめたのだ。隣で笑う、この人のそばに、僕はようやく、自分の根を、下ろしはじめていた。
― 終 ―