バスが最後の集落を過ぎると、窓の外から、人の暮らしの気配が、ひとつずつ消えていった。
私、早坂詩織(はやさか しおり)、二十九歳。都内のIT企業で、カスタマーサポートのチャット対応をしている。画面の右下に、問い合わせが、ひっきりなしに積み上がる。一件あたりの返信は、平均九十秒以内。深夜だろうと、休みの日だろうと、通知は、容赦なく光る。
早坂詩織(……返さなきゃ。早く、返さなきゃ)
その癖が、抜けなくなったのは、いつからだったろう。エレベーターの中でも、信号待ちでも、湯船の中でも、私の親指は、勝手にスマホを撫でていた。即レス。とにかく、即レス。返すのが遅れると、誰かが、私に失望する気がした。
先月、会議の途中で、急に、画面の文字が、読めなくなった。目の前が、白くちらついて、自分の名前を呼ばれているのに、声が、遠かった。過呼吸、と診断された。医者は、私のカルテより先に、私の顔を、長く見た。
カネさん「……少し、休んでください。火を、絶やしすぎてる人の顔だ、それ」
産業医の、最後の一言だけが、なぜか、耳に残った。火を、絶やしすぎてる。意味が、わからなかった。私は、自分の中に、火があることすら、もう、忘れていた。
有給を、無理やり一週間くっつけた。行き先は、決めなかった。決めると、また「効率のいいプラン」を、組み立ててしまう気がしたから。私は、ただ、いちばん本数の少ないバスに乗って、終点まで来た。電波が、二本になり、一本になり――山あいの、小さな谷で、ふつりと、圏外になった。
スマホが、光らなくなった。それだけのことで、私は、自分の呼吸の音を、何年ぶりかに、聞いた気がした。
*
終点のバス停には、屋根もなかった。
晩秋の山里は、もう、夕方の気配だった。色を落としかけた紅葉が、斜面いちめんに散らばって、夕日に、ぼうっと燃えている。冷たい空気の底に、何か、香ばしい匂いが、混じっていた。焚き火とも、違う。もっと、深くて、乾いた匂い。
予約した宿は、谷の奥の、一軒だけの古民家だった。出迎えてくれたのは、腰の曲がった、小柄なおばあさんだった。
カネさん「あらあら、こんな何にもないとこへ、ようこそ。早坂さん? カネ、って呼んでちょうだい。……まあ、ずいぶん、いいバスに乗ってきたねえ。あれ、一日二本しかないのに」
早坂詩織「……すみません、何も、調べてなくて。たまたま、来たバスに」
カネさん「いいのよ。ここへ来る人は、たいてい、たまたま来るんだから」
カネさんは、からから笑って、私を、囲炉裏のある板の間に通した。荷を下ろすと、さっきの、香ばしい匂いが、また鼻をくすぐった。窓の外、谷の少し下のほうから、細い煙が、まっすぐ、立ちのぼっている。
早坂詩織「あの煙は……?」
カネさん「炭窯。うちの孫が、焼いてるの。今ちょうど、火を入れて、何日目かねえ。あの子、窯に火が入ってる間は、ほとんど、家に帰ってこないんだから」
炭。そういえば、囲炉裏の中で、赤くなった炭が、ぱちりと、小さく爆ぜた。私が一日中さばいてきた、何百件もの「至急」「すぐに」という言葉とは、まるで違う時間の匂いが、この家には、満ちていた。
*
翌朝、目が覚めて、私は、自分が、目覚ましもかけずに眠ったことに、驚いた。
何年も、五時半の振動で、無理やり一日を始めていた。それなのに、ここでは、障子の白さと、鳥の声と、遠くの川の音だけで、自然と、目が開いた。体が、やけに軽かった。
朝食のあと、私は、なんとなく、谷を下りた。煙の立つほうへ。理由なんて、なかった。ただ、あの香ばしい匂いの、もとを、見てみたかった。
斜面を少し下りたところに、土を盛った、かまくらのような窯があった。そのそばに、トタン屋根の小屋。煙突から、白い煙が、ゆらゆらと立っている。窯の焚き口の前に、一人の男の人が、しゃがんでいた。
汚れた作業着。煤で黒くなった頬。火を見つめる、まっすぐな横顔。私の足音に気づいて、彼は、ふっと、こちらに目を上げた。けれど、何も言わず、すぐに、また火に視線を戻した。
早坂詩織「……あの、おはようございます。宿の、客で」
矢野樹「……ああ。祖母の」
低い声だった。それきり、彼は、黙って、焚き口に、薪を一本、くべた。突き放されたわけじゃない。ただ、火から、目を離さない人なんだ、と思った。私は、邪魔をしてはいけない気がして、少し離れた切り株に、そっと腰を下ろした。
彼――矢野樹(やの いつき)さんは、それから、一時間近く、ほとんど動かなかった。ときどき、煙突を見上げ、煙の色を確かめ、焚き口に手をかざして、また、薪をくべる。たったそれだけの繰り返しを、彼は、信じられないくらい、丁寧にやっていた。
私は、いつのまにか、その横顔を、ずっと、目で追っていた。
*
昼近くになって、樹さんが、ようやく、立ち上がった。
矢野樹「……ずっと、いたんですか。寒かったでしょう」
早坂詩織「あ……いえ。なんだか、見てたら、時間が、わからなくなって」
矢野樹「炭焼きは、そういうもんで。……一日中、火の番してても、何も進んでないように見える。けど、窯の中じゃ、ちゃんと、進んでる」
そう言って、彼は、煙突を指さした。
矢野樹「煙、見てください。昨日まで、もっと白くて、もうもうしてた。今日は、ほら、薄くなって、青っぽいでしょう。匂いも、変わる。……木が、炭に変わっていく合図」
言われて、私は、煙を、じっと見た。たしかに、まっすぐ立ちのぼる煙は、朝より、ずっと、透き通っていた。
早坂詩織「……どのくらい、かかるんですか。一窯」
矢野樹「火を入れてから、出すまで。だいたい、一週間。最後の一晩は、つきっきりで、温度を上げて、ねらす」
一週間。私が、何百件のチャットを、九十秒ずつ、さばいていく時間で、この人は、たった一窯の炭を、火のそばで、じっと、待っている。その時間の流れの差に、私は、なぜか、胸の奥が、しんと静かになった。
早坂詩織「……急がないんですね」
矢野樹「急げないんですよ。火は」
彼は、当たり前のことのように、言った。
矢野樹「焚きつけすぎると、木が、燃え尽きて、灰になる。弱すぎると、生焼けで、ぼろぼろの炭になる。……ちょうどいい火を、ずっと、保つ。それだけ」
ちょうどいい火を、保つ。その言葉が、なぜか、私の、ずっと張りつめた何かに、そっと触れた。私は、ちょうどいい、を、もう、ずっと、忘れていた。とにかく、速く。とにかく、多く。燃やせるだけ、燃やして――そうして、私は、自分の火を、灰になるまで、焚きつけ続けてきたのかもしれなかった。
*
その日から、私は、毎日、谷を下りた。
樹さんは、私が来ても、追い返さなかった。かといって、世話を焼くでもない。彼は、ただ、火のそばに、私がいることを、許してくれていた。私は、切り株に座って、彼の手元を、見ていた。煤で汚れた、節くれだった手。薪を選ぶときの、迷いのない指。火ばさみで、熾火を、そっと寄せる、その慎重さ。
三日目の昼、樹さんが、保温瓶のお茶を、二つの湯呑みに分けて、片方を、私に寄こした。
矢野樹「……まだ、いたんですね。退屈でしょう、こんなの見てて」
早坂詩織「ううん。……退屈の、しかたを、忘れてたんです、私。久しぶりに、思い出してます」
樹さんが、少し、不思議そうに、私を見た。私は、湯呑みを、両手で包んだ。炭火で沸かしたお茶は、まろやかで、体の芯から、温まった。
早坂詩織「……私、東京で、一日中、人の問い合わせに、答える仕事をしてて。九十秒以内に、返さなきゃいけなくて。……返して、返して、返し続けてたら、ある日、急に、画面の字が、読めなくなって」
ぽろっと、こぼれた。会ったばかりの人に。会社の同僚にも、家族にも、言えなかった本音が。言ってから、私は、力なく笑った。
早坂詩織「火を、絶やしすぎてる顔だ、って、お医者さんに言われて。……意味、わからなかったんです。でも、ここで、火を見てたら、なんとなく、わかった気が、して」
樹さんは、急かさない目で、私を見ていた。それから、煙突の煙を、ちらりと見上げて、ぽつりと言った。
矢野樹「……俺は、ここから、出たことが、ないんですよ」
早坂詩織「えっ」
矢野樹「じいさんが、この窯、焼いてた。子どもの頃から、ずっと、横で見てて。……じいさんが、足を悪くして、誰も継がないって話になったとき、俺が、やる、って言った。ほかに、やりたいこと、なかったから、っていうより」
彼は、焚き口の、揺れる火を見た。
矢野樹「この火を、消したくなかった。それだけで」
誰に頼まれたわけでもない。儲かるわけでもない。それでも、彼は、この谷に残って、祖父の火を、守り続けている。出ていくことばかり考えて、走り続けてきた私とは、正反対の人だった。その、根を張った静けさを、私は、いつのまにか、また、目で追っていた。
*
五日目の夕方、樹さんが、煙突を、長いこと見上げていた。
矢野樹「……明日の晩、いよいよ、です」
早坂詩織「いよいよ?」
矢野樹「最後の、ねらし。一晩中、温度を上げて、煙が、透明になって、消えるまで、見届ける。……窯から、目を、離せない夜」
彼は、少し迷ってから、私のほうを見た。
矢野樹「……もし、よかったら。見てます? 一晩。長いし、寒いし、何にも、面白くないけど」
私は、東京に帰るバスを、明後日に予約していた。明日の夜を、ここで明かしたら、帰りは、ぎりぎりになる。いつもの私なら、効率を考えて、断っていた。
早坂詩織「……はい。見たい、です」
考えるより先に、口が、動いていた。樹さんが、ふっと、口の端を、わずかに上げた。煤で汚れた顔の中で、その笑みだけが、妙に、白かった。
*
翌日の夜、谷は、しんしんと冷えた。
宿で借りた半纏を着込んで、私は、窯場へ下りた。トタン屋根の小屋の中、樹さんは、焚き口に、薪をくべ続けていた。火が、勢いを増している。窯のまわりだけが、橙色に、ぼうっと明るかった。
矢野樹「……これ、座ってて。火のそば。冷えるから」
彼は、火の前に、もう一つ、切り株を寄せてくれた。肩が、触れそうな近さ。私は、少しだけ、息を詰めた。
夜が、深まっていく。樹さんは、三十分おきに、煙突を見て、焚き口の火を、整える。私は、その繰り返しを、すぐ隣で、見ていた。火の粉が、ぱちぱちと、闇に舞い上がっては、消えていく。
早坂詩織「……きれい」
矢野樹「火の粉?」
早坂詩織「うん。……あんなに、勢いよく燃えてるのに、窯の中は、急がないんですよね。不思議」
矢野樹「表で、焚きつけて。窯の中の熱は、じっくり、まわす。……外が、せっかちでも、中まで、せっかちにしちゃ、だめなんです」
外が、せっかちでも。私は、自分の胸に、そっと、手を当てた。私は、ずっと、外のせっかちさを、そのまま、体の真ん中まで、流し込んでいた。九十秒の催促を、心臓の鼓動みたいに、刻み続けて。
早坂詩織「……樹さん。私、ここに来て、初めて、目覚まし、かけずに、眠れたんです」
矢野樹「……そう」
早坂詩織「スマホが、圏外で。誰も、私に、すぐ返せって、言ってこなくて。……それだけで、息が、できたの」
樹さんが、火ばさみを、置いた。橙色の光が、彼の横顔を、深く照らす。
矢野樹「……ずっと、誰かの火、焚きつけてたんでしょう。あなた」
早坂詩織「え……?」
矢野樹「自分の火が、消えかけてんのに、気づかないくらい。人のために、焚いて、焚いて」
息が、止まった。それは、産業医に言われた、あの言葉の、続きみたいだった。けれど、樹さんの声には、診断の冷たさが、なかった。火のそばで、長く、ものを見てきた人の、温度があった。
早坂詩織「……よく、わかりますね」
矢野樹「炭焼きなんで。火の、減り具合は、つい」
さらりと言って、彼は、また、焚き口に向き直った。けれど、その横顔の、耳のあたりが、火明かりのせいだけじゃなく、少し、赤い気がした。私は、半纏の襟を、ぎゅっと握った。減りかけた火を、見つけてもらった胸の奥が、じんと、熱を持っていた。
*
夜半を過ぎて、煙が、変わった。
矢野樹「……来た。見てください、煙」
立ち上がった樹さんの隣で、私も、煙突を見上げた。それまで、白く濁っていた煙が、月明かりの中で、すうっと、青みを帯びて、透き通っていく。香ばしい匂いが、つんと、鋭くなった。
早坂詩織「……ほんとだ。透明に、なってく」
矢野樹「もう少し。……あれが、ふっと消えたら、窯を、止める。木が、ぜんぶ、炭になった合図」
私たちは、肩を寄せて、煙を、見上げ続けた。冷たい夜気の中で、火のある側だけが、温かかった。樹さんの肩から、薪と煤と、ほんのり汗の混じった匂いがして、私は、その匂いを、なぜか、もっと近くで、嗅ぎたくなった。
煙が、細く、細くなって――やがて、空に、溶けるように、消えた。
矢野樹「……止めます」
樹さんが、手早く、焚き口と、煙突を、土と石で、塞いでいく。窯の中の火を、空気を断って、ゆっくり、熾火のまま、閉じ込めるのだという。さっきまで、轟々と燃えていた窯が、ふっと、静かになった。残ったのは、土の中に、こもった、深い熱だけ。
早坂詩織「……終わった、んですか」
矢野樹「いや。ここから、二日、窯の中で、ゆっくり冷ます。……いちばん、急いじゃいけない、ところ」
彼は、煤だらけの手で、額の汗を拭った。そうして、橙色の名残の中で、私のほうを、まっすぐ、見た。
矢野樹「……付き合ってくれて、ありがとう。一晩。退屈、だったでしょう」
早坂詩織「……ううん」
私は、首を振った。胸が、いっぱいで、声が、震えた。
早坂詩織「……私、明日、帰るんです。東京に」
矢野樹「……ですよね」
早坂詩織「帰ったら、また、通知が、光って。九十秒に、追われて。……それは、たぶん、変わらない。でも」
言葉が、つかえた。樹さんが、私のほうへ、一歩、近づいた。火を塞いだあとの、静かな闇の中で。
矢野樹「でも?」
早坂詩織「……今夜だけ。急がないでいたい。あなたの、この火のそばで。……ずっと、自分を焚きつけてばっかりだったから。一回だけ、ちゃんと、温まりたいの」
言ってしまってから、頬が、かっと熱くなった。樹さんが、ゆっくり、私の頬に、手を伸ばした。煤で汚れた、けれど、火のように温かい、大きな手だった。
矢野樹「……消えかけてたの、ずっと、ほっとけなかった。あなたの火」
顔が、近づいてくる。急がない人だ、と思った。その、急がなさに、かえって、体の奥が、とろりと、疼いた。
唇が、重なった。
ちゅ……。
早坂詩織「ん……っ」
煙と火の匂いのする、温かいキスだった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。彼の唇が、私の唇を、確かめるみたいに、食む。
ちゅ……ちゅぷ……
早坂詩織「は……ん……っ」
唇の隙間から、舌が、おずおずと触れあう。私は、自分から、彼の作業着の胸を、きゅっと握っていた。離れたく、なくて。
矢野樹「……小屋の奥。火の番のときに、寝泊まりする部屋。……ストーブも、ある。いい?」
早坂詩織「……うん」
*
小屋の奥の小部屋は、古い石油ストーブと、簡素な布団の、彼らしい部屋だった。窯の余熱が、土の壁ごしに、ほんのりと伝わってくる。樹さんが、私を、布団の上に、そっと座らせた。隣に座った彼の体から、火のそばにいた熱が、伝わってくる。
矢野樹「……緊張、してる?」
早坂詩織「してる。……でも、嫌じゃない。むしろ、こうしたかったの。たぶん、初めて、火を見てたあのときから」
自分で言って、驚いた。でも、本当だった。樹さんが、少し目を見開いて、それから、ふっと、優しく笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより、ずっと、熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
早坂詩織「ん……ふ……っ」
キスをしながら、彼の手が、私のニットの裾から、するりと入ってくる。薪を選ぶときと同じ、迷いのない、でも、乱暴じゃない手つき。急かされないのに、いや、急かされないからこそ、肌が、勝手に、熱くなる。
矢野樹「……あったかい。あなたの体」
早坂詩織「やだ……樹さんの手が、熱いんです……っ」
矢野樹「火、ずっと触ってたから」
ニットを脱がされて、肩が、夜気にさらされる。けれど、寒くなかった。彼の唇が、首筋に、ゆっくりと降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
早坂詩織「ん……っ」
鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌が、ぴくんと震えた。背中に回った手が、ブラのホックを、そっと外す。胸が、彼の前に、こぼれ出た。樹さんの手が、それを、火種を扱うみたいに、そっと、包む。
早坂詩織「あ……っ」
矢野樹「……柔らかい」
早坂詩織「もう……いちいち、言わないで……っ」
熾火をそっと寄せるみたいに、ゆっくりと、形を確かめるように揉まれて、私は、枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと尖りはじめた先を、かすめると、体が、びくっと跳ねた。
早坂詩織「ひゃ……っ、そこ……っ」
矢野樹「ここ、弱い?」
早坂詩織「……っ、意地悪、言わないでよぉ……っ」
口では強がるのに、樹さんが、先を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
早坂詩織「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。誰にも頼まれなくても祖父の火を守るこの人の手と唇が、今は、私のことだけを、丁寧に、温めてくれている。それが、たまらなく、嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり、撫で上げていく。
早坂詩織「ん……っ♡」
矢野樹「力、抜いて。……急がないから」
その声に、自然と、体の力が、抜けた。いつも、何かに追われて、強ばっていた体から、初めて、誰かに預けるみたいに、力が、抜けていく。樹さんの指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに、触れた。
早坂詩織「あっ……♡」
布越しでも、もう、そこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指が、そっと撫でるたびに、腰が、小さく、揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、彼の指が、直接、そこに触れた。
くちゅ、と。
早坂詩織「ひゃ……っ♡」
矢野樹「……もう、こんなに」
早坂詩織「言わないで……っ♡ 火の、番、してたとき、から……っ。肩、寄せて、煙、見てた、ときから……っ」
恥ずかしさで、消えたいのに、樹さんの指は、どこまでも、優しかった。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は、彼の腕に、しがみついた。
くちゅ……くちゅ……
早坂詩織「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
矢野樹「うん。……わかった」
指が、ゆっくり、中へ、滑り込んでくる。
ずぷ……っ
早坂詩織「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、いちばん感じる場所を、探り当てるように撫でる。
矢野樹「……ここ?」
早坂詩織「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 探すの、上手すぎ……っ♡」
弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では、止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
早坂詩織「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
矢野樹「いいよ。……ゆっくり、イって」
早坂詩織「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが、少しずつ速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ、押し上げられた。
早坂詩織「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。ストーブの、ぽうっという炎の音だけが、遠くで聞こえた。樹さんの腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。
矢野樹「……イったね」
早坂詩織「……っ、言わないで、ってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、樹さんが、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、煤の匂いのする指で、優しく、よけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。
*
早坂詩織「……ねえ、樹さん」
矢野樹「ん」
早坂詩織「私ばっかり、ずるい。……樹さんのも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人になら、言えた。樹さんが、ごくりと、喉を鳴らす。私は、ゆっくり体を起こして、彼の作業着の前を、はだけさせた。火のそばで働く人の、しなやかに引き締まった体が、現れる。一日中、薪を運び、火と向き合ってきた体だ、と思った。
樹さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口に、あてがわれた。
矢野樹「……いい?」
早坂詩織「うん……っ。来て」
矢野樹「……つけるから、待って」
早坂詩織「……うん」
避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。突然飛び込んできた私を、それでも、ちゃんと、大事にしてくれる。その律儀さも、誰も見ていない山の窯を、黙って守り続ける手と、同じだ、と思った。準備を終えて、樹さんが、もう一度、私の頬に、手を添えた。
矢野樹「……いくよ。ゆっくり」
早坂詩織「……うん。久しぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
早坂詩織「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと、大きかった。
ずず……っ
早坂詩織「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
矢野樹「……っ、すごく、熱い。中」
根元まで収まって、樹さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっと冷えて、空っぽだった私の体の真ん中が、じんわりと、満たされて、温まっていく。窯の余熱みたいに、ゆっくりと。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で、囁いた。
早坂詩織「……あったかい。……お腹の、奥まで」
矢野樹「ああ。……もう、冷やさないから。動くよ」
樹さんが、ゆっくり、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
早坂詩織「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと、落ちた。
矢野樹「……気持ちいい?」
早坂詩織「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
矢野樹「俺も。……火、見ながら、ずっと、あなたの肩が、気になってた」
その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、いつも、自分の分を後回しにしてきた私は、すっかり、忘れていた。だんだん、律動が深くなって、奥の、いちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は、跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
早坂詩織「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
矢野樹「ここ、好き?」
早坂詩織「っ♡♡ 好き……っ♡ 樹さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが、体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちも、だった。樹さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
早坂詩織「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
矢野樹「……っ、すごい、締まってる」
早坂詩織「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
ストーブの、ぽうっという音と、窯の余熱と、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、小部屋に満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっと冷えきっていた胸の真ん中が、彼の熱で、いっぱいに、満たされていく。
矢野樹「……詩織さん、そろそろ……っ」
早坂詩織「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
樹さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
早坂詩織「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 一緒に……っ♡♡」
矢野樹「……っ、詩織……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
早坂詩織「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ熱に、溶かされた。樹さんが、私の上で、はぁ、と大きく、息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
早坂詩織「……はぁ……っ♡ すごかった……」
矢野樹「……詩織さん」
早坂詩織「ん……?」
矢野樹「呼び捨て、しちゃった。さっき。……ごめん」
早坂詩織「……ふふ。いいよ。むしろ、嬉しかった」
窯の余熱の中で、私たちは、しばらく、そうして、抱き合っていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと、鳴っている。私は、生まれて初めて、急がなくていい場所で、ちゃんと、芯から、温まっていた。
*
朝、目が覚めると、障子が、いつもより、白く光っていた。
矢野樹「……起きた? 外、見てみて」
樹さんに促されて、私は、小屋の戸を、そっと開けた。息を、のんだ。谷いちめんの紅葉が、薄く、白い霜をまとって、朝日に、きらきらと、輝いていた。
カネさん「初霜だねえ」
声に振り返ると、いつのまにか、カネさんが、湯気の立つお椀を二つ、盆に載せて、立っていた。
カネさん「ふふ。……お客さん、ゆうべ、宿に帰ってこないんだもの。まあ、谷に、煙が立ってるうちは、この子、帰ってこないって、言ったでしょう。……どうやら、煙が、二人ぶんに、なってたみたいだねえ」
矢野樹「……ばあちゃん。余計なこと、言うな」
カネさん「だってねえ。この子が、窯場に、人を入れるなんて、初めてよ。火の番のとき、誰のことも、寄せつけないんだから。よっぽど、ねえ」
カネさんは、からから笑って、私に、お椀を、握らせた。炭火で炊いた、白いお粥だった。あったかい湯気が、霜の朝の空気に、ふわりと、ほどけていく。
*
その日の昼すぎ、私は、帰りのバスに、間に合わせなくては、ならなかった。
樹さんは、窯のそばで、二日かけて冷ました炭を、ちょうど、掻き出しているところだった。黒く、つやつやと光る、まっすぐな炭。叩くと、きん、と、金属みたいな、澄んだ音がした。
矢野樹「……これ」
彼は、その中から、よく締まった、小さな一片を選んで、布に包み、私の手に、握らせた。
早坂詩織「えっ……炭?」
矢野樹「……火持ちのいい、いちばんいい炭。これ一つで、長いこと、火が、もつ」
樹さんは、煤だらけの顔で、少しだけ、目を逸らしながら、言った。
矢野樹「東京、せっかちでしょう。……また、自分を、焚きつけすぎそうになったら。これ、見て。……急がなくても、ちゃんと、熱は、こもるって、思い出して」
息が、止まった。私は、その小さな炭を、両手で、ぎゅっと、包んだ。叩けば澄んだ音のする、固くて、まっすぐな炭。彼の手と、同じだった。ぽろぽろと、涙がこぼれて、私は、笑いながら、頷いた。
早坂詩織「……うん。焚きつけすぎない。……ちょうどいい火で、ちゃんと、自分を、温める」
*
バス停まで、樹さんが、送ってくれた。霜は、もう、とけて、谷は、しっとりと、濡れていた。
矢野樹「……一日二本だから。乗り遅れたら、明日になる」
早坂詩織「ふふ。……それも、悪くないかも」
矢野樹「……また、来てください。火が、入ってる頃に」
早坂詩織「……はい。必ず」
一日二本のバスが、谷の向こうから、ゆっくりと、近づいてくる。私は、握った炭を、コートの胸ポケットに、そっと、しまった。心臓の、すぐ上に。
早坂詩織(……見つけたんだ。私)
ずっと、通知に追われて、何もかも、即レスで返して。自分の中の火が、消えかけていることにも、気づけなかった。でも、私がほんとうに欲しかったのは、たぶん、ずっと、こういうものだった。急がなくていい場所。減りかけた火を、黙って見ていてくれる、温かい目。
バスに乗り込んで、窓ごしに振り返ると、樹さんは、まだ、そこに立っていた。霜のとけた、晩秋の谷の、淡い光の中で。
胸ポケットの炭の硬さを、私は、コートの上から、そっと押さえた。次にこの炭に火を入れるのは、東京で、自分を、また焚きつけすぎそうになった、その夜だ。そのとき私は、きっと、思い出す。窯の中で、急がずに、じっくり熱をまわす、あの火のことを。
早坂詩織(……ちょうどいい火で、いいんだ。もう)
バスが、走り出す。窓の外の山里が、初霜のとけた、やわらかな光に、ぼうっと、燃えていた。次にここへ来るのは、きっと、煙の立つ日がいい。私には、もう、それが、わかっていた。
― 終 ―