その朝、祖母の包丁が、トマトの皮で滑った。
刃を押し当てても、つるりと表面を逃げるだけで、皮一枚、食い込まない。むきになって力を入れたら、今度は実のほうがぐしゃっと潰れて、まな板に赤い汁が広がった。私は、潰れたトマトを見おろしたまま、しばらく動けなかった。
私、立花美緒(たちばな みお)、二十八歳。商店街の外れにある、古いデパートの地下、その惣菜売り場で量り売りをして三年になる。ひじき、きんぴら、切り干し大根。ガラスケースの向こうで、同じ総菜を、同じグラム数だけ、同じ笑顔ですくって、パックに詰める。
立花美緒「いらっしゃいませ。はい、ちょうど百グラムですね」
一日に何百回、その声を出すだろう。マニュアルどおりの角度に口角を上げて、お釣りを両手で渡して、頭を下げる。気づいたら、家に帰っても、その笑顔の形のまま顔がこわばっていることがある。鏡を見て、ぞっとする。これは、私の顔だっけ。
包丁が切れなくなっていたことに、私はずっと、気づかないふりをしていた。切れないなりに、力で押せば、なんとかなっていたから。トマトが滑ったその朝、ようやく、認めた。
立花美緒(……切れなくなってたの、包丁だけじゃ、ないのかも)
これは、祖母の菜切り包丁だった。私に料理を教えてくれた祖母が、三年前に亡くなって、形見に貰った一本。黒く焼きの入った、古い鋼の包丁。祖母の手の中ではいつも、すうっと吸い込まれるように野菜が切れていたのに、私の手の中で、それは、すっかり鈍ってしまっていた。
*
休みの日、私は、その包丁を新聞紙にくるんで、商店街へ出た。
研ぎに出せる店なんて、今どきあるんだろうか。半分あきらめながら、ふだんは通らない裏通りに入ってみる。アーケードの華やかさから一本外れただけで、そこは時間が止まったような、古い路地だった。乾物屋、判子屋、傘の修理屋。その並びの、いちばん奥まったところに、その店はあった。
ガラスの引き戸に、すりガラスで「研」と一文字。ほかには何も書いていない。看板すら、出ていない。
引き戸を開けると、しゃり、しゃり、と、規則正しい音がしていた。水の匂いと、鉄の匂い。薄暗い土間の奥で、男の人が一人、低い研ぎ台に向かって、背中を丸めていた。砥石の上を、銀色の刃が、一定のリズムで往復している。
真鍋湊「……いらっしゃい」
顔も上げずに、その人は言った。低い、抑えた声。私がいることには気づいているのに、手元のリズムは、一秒も乱れない。私は、なんだか声をかけるのがためらわれて、しばらく、その背中を見ていた。
刃を砥石に当てる角度が、ずっと、変わらない。寄せては返す波みたいに、しゃり、しゃり、と、まったく同じ音が続く。乱れない。迷わない。その揺るがなさに、私は、なぜか少し、気圧された。
立花美緒「あの……包丁、研いでもらえますか」
ようやくそう言うと、その人は、研いでいた刃を水で流して、布で拭い、それからやっと、顔を上げた。三十歳くらいだろうか。日に焼けてはいないけれど、芯の通った、静かな目をしていた。私の手の新聞紙を、ちらりと見る。
真鍋湊「……見せて」
*
新聞紙を開いて、祖母の菜切りを差し出すと、その人は、両手で受け取った。
刃を、蛍光灯のほうへ、すっとかざす。刃先を、目を細めて、端から端まで、なめるように見ていく。それから、親指の腹を、刃にそっと当てて、横へ滑らせた。切るのではなく、引っかかりを確かめるみたいに。その手つきが、あんまり丁寧で、私は、息を詰めて見ていた。
真鍋湊「……いい鋼だ。古いけど、いい。ちゃんと使われてきた包丁です」
立花美緒「祖母の、形見で。……私が、すっかり、駄目にしちゃって」
真鍋湊「駄目になんて、なってないですよ」
さらりと、その人は言った。
真鍋湊「刃こぼれ、何箇所か。あと、ずっと、同じ角度で研がれてなかったみたいだ。刃が、丸まってる。……でも、欠けたわけじゃない。研ぎ下ろせば、また切れます」
研ぎ下ろせば、また切れる。なんでもないことのように言われたその言葉が、なぜか、胸の奥に、とん、と落ちた。私は、自分の包丁の話をされているのに、まるで、自分自身のことを言われた気がして、うまく返事ができなかった。
真鍋湊「一週間、預かります。鋼は、急いで研ぐと、刃が荒れるから」
立花美緒「……はい。お願いします」
帳場の奥から、ふいに、明るい声がした。
君江さん「あら、めずらしい。湊(みなと)ちゃんとこに、若いお客さん」
隣の乾物屋のおばさんが、勝手口から顔を出していた。君江(きみえ)さん、と、あとで知る。背中をまるめた研ぎ師の人は、湊さん、というらしい。
君江さん「この子ねえ、口は重いけど、腕は確かだから。お祖父さんから継いだ研ぎ屋でね。……ほんと、今どき、よく続けてるよ」
真鍋湊「……君江さん。仕事中なんで」
ぶっきらぼうに言って、湊さんは、私の包丁を、布の上にそっと置いた。その置き方の、壊れ物を扱うみたいな慎重さを、私は、見てしまった。
*
一週間後、私は、包丁を受け取りに行った。
湊さんは、奥から、白い晒に包んだ包丁を持ってきて、私の前で、ゆっくりと開いた。黒かった鋼の刃に、すっと、銀色の細い線が走っていた。刃の先だけ、新しく研ぎ下ろされて、光っている。
真鍋湊「……試してみますか」
帳場の隅に、小さなまな板と、ミニトマトが一つ、用意してあった。客に試させるために、わざわざ。私は、おそるおそる、包丁を握った。トマトの上に、刃を、そっと乗せる。力なんて、ほとんど入れていない。
それなのに、刃は、すうっと、トマトの皮を割って、実の中へ、音もなく沈んでいった。
立花美緒「……あ」
切れた。なんの抵抗もなく、まっぷたつに。断面が、つやつやと濡れて光っている。あの朝、潰れたトマトの赤い汁を、まな板に広げた私とは、まるで別人みたいだった。
立花美緒「……すごい。全然、力、いらない」
真鍋湊「切れる刃は、力がいらないんです。むしろ、力で押す包丁ほど、危ない。滑って、自分の指を切る」
湊さんは、淡々と言った。けれど、その言葉は、また、私の中の、別の場所に届いた。私は、ずっと、力で押してきた。切れない笑顔を、力で押し出して、お客さんに向けてきた。すり減った自分を、気力で押して、毎朝、地下へ降りていた。
立花美緒「……あの。私にも、これ、研げるようになりますか」
気づいたら、そう訊いていた。自分でも、なんでそんなことを言ったのか、わからなかった。ただ——この、しゃり、しゃり、という、揺るがない音の中に、もう少し、いたかった。
湊さんが、少しだけ、目を見開いた。
*
それから私は、休みのたびに、その研ぎ屋に通うようになった。
湊さんは、月に一度だけ、近所の人向けに、簡単な研ぎ方を教えているのだという。本当は、教えても儲けにはならない。みんな、すぐに切れなくなる安い包丁を使い捨てるから、研ぎになんて出さない。それでも湊さんは、来た人には、教える。
真鍋湊「砥石は、水に浸けてから。……これ、中砥(なかと)。まずはこれで、刃をつける」
低い研ぎ台の前に、並んで座る。肩が触れそうな近さに、私は、最初の日、息を詰めた。湊さんは、私の手に、包丁を握らせて、刃を砥石に当てさせる。
真鍋湊「角度。刃と砥石の間に、十円玉が二枚、入るくらい。……それを、ずっと、変えない」
私が研ぎ始めると、刃は、すぐにぐらついて、角度が定まらなかった。しゃり、ごり、しゃり、と、音がばらばらになる。湊さんの、あの、波みたいに揃った音とは、似ても似つかない。
立花美緒「……難しい。すぐ、ぶれちゃう」
真鍋湊「最初は、みんなそう」
そう言って、湊さんの手が、後ろから、私の手の甲に重なった。
真鍋湊「……力じゃない。腕じゃなくて、ここ。手首を、固定して。あとは、体ごと、前へ」
私の手の上から、彼の手が、角度を導く。鉄と、水と、砥石の匂いのする手だった。ごつごつしているのに、添える力は、驚くほど優しい。彼の手に導かれると、しゃり、と、初めて、音が、一本の線になって揃った。
立花美緒「……あ。今の、揃った」
真鍋湊「そう。……それです。それを、覚えて」
すぐに、彼の手は離れた。離れた手の温度の名残が、私の手の甲に、じんと残った。私は、その感触を消したくなくて、しばらく、研ぐふりをして、手を動かしていた。
*
通ううちに、ぽつり、ぽつりと、湊さんのことを知った。
彼も、昔は、ここにいなかったらしい。大学を出て、東京で、刃物メーカーの品質管理の仕事をしていた。一日中、数値で刃の鋭さを測る仕事。何ニュートンの力で何ミリ食い込むか、規格に合っているか。
真鍋湊「……でも、その刃、一度も、自分で研いだことがなかった。測るばっかりで」
砥石を洗いながら、湊さんは、めずらしく、自分から話した。
真鍋湊「祖父がここで死んで。店を畳む話になって、最後に一度だけ、祖父の研ぎ台に座ってみたんです。……そしたら、こわくなった。自分は、刃のことを、何も知らなかったって」
立花美緒「それで、継いだんですか」
真鍋湊「……気づいたら、会社、辞めてた。馬鹿ですよね。儲からないって、わかってるのに」
馬鹿だなんて、思わなかった。誰にも頼まれず、儲かりもしないものを、黙って守っている。その横顔を、私は、いつのまにか、また、目で追っていた。気づいたら、目で追っている。それが、最近、癖になっていた。
君江さん「湊ちゃんはねえ」
お茶を持ってきた君江さんが、にやにやしながら、口を挟んだ。
君江さん「無口だけどね、見るとこは、ちゃんと見てるのよ。この子。……ねえ美緒ちゃん、あんた最近、来るたんびに、顔がやわらかくなってきたよ」
立花美緒「……え」
真鍋湊「……君江さん」
湊さんが、低く制したけれど、その耳が、少しだけ、赤かった。私は、お茶の湯呑みで、慌てて顔を隠した。
*
ある日の夕方、店じまいの時刻になっても、私は、なかなか腰を上げられずにいた。
外は、しとしとと、長雨が降っていた。この季節の雨は、いつまでも降りやまない。湊さんは、その日研いだ刃物を、一本ずつ、晒で拭いて、片づけていた。私は、研ぎ終えた自分の練習用の包丁を握ったまま、なんとなく、口を開いた。
立花美緒「……私、毎日、同じことばっかりしてて」
真鍋湊「ん」
立花美緒「ひじきを、百グラムすくって、笑って、お釣り渡して。それを、一日に何百回も。……気づいたら、笑ってるのに、心が、全然、動いてないんです。切れない包丁みたいに。表面を、つるつる、滑ってるだけで」
言ってから、こんな暗いこと、と、自分で笑おうとした。でも、笑えなかった。湊さんは、拭く手を止めて、私のほうを、まっすぐに見た。急かさない、静かな目で。
真鍋湊「……立花さん。研ぎでいちばん難しいの、なんだと思います」
立花美緒「……角度を、変えないこと?」
真鍋湊「それもある。でも、いちばんは——研ぎ下ろす勇気です」
彼は、自分の包丁の、刃のつけ根を、指でなぞった。
真鍋湊「丸まった刃を、本当に切れるようにするには、丸まったぶんだけ、鋼を削って、捨てなきゃいけない。減るんですよ、包丁が。それが、こわい人は、表面だけ、撫でて研いだ気になる。……でも、それじゃ、切れない」
立花美緒「……減らさないと、切れない」
真鍋湊「すり減ったところは、削って、新しい刃を出せばいい。鋼は、なくなりはしない。芯は、ちゃんと、残る」
私は、息ができなくなった。それは、包丁の話だった。でも、彼は、たぶん、私を見ながら、言っていた。すり減った、と思っていた自分の三年間。それは、削り落としていい部分だった。芯は、ちゃんと、残っている。
涙が、ひとつぶ、こぼれた。慌てて拭おうとした手を、湊さんが、そっと、止めた。
真鍋湊「……いいんですよ。研ぎ場は、水で濡れてるのが、当たり前だから」
*
雨は、何日も降り続いて、そして、ようやく上がった。
その夜、私は、仕事帰りに、傘も差さずに、研ぎ屋へ向かっていた。雨上がりの路地は、しっとりと濡れて、街灯の明かりを、地面に滲ませていた。閉店時間はとうに過ぎているのに、すりガラスの「研」の字の奥に、まだ、灯りがついていた。
引き戸を、そっと開ける。しゃり、しゃり、と、あの音がしていた。湊さんが、一人、研ぎ台に向かっていた。君江さんは、もう帰ったあとらしい。土間に灯る裸電球の明かりだけが、彼の背中と、濡れた砥石を、淡く照らしていた。
立花美緒「……こんばんは」
湊さんが、振り返った。少し、驚いた顔をして、それから、手を止めた。
真鍋湊「……どうしたんですか、こんな時間に」
立花美緒「研ぎ場、見たくて。……夜の」
苦しい言い訳だと、自分でも思った。本当は、ただ、彼に会いたかった。雨が上がったら、もう、通う口実の包丁も、すっかり切れるようになってしまっていた。これ以上、研ぐものがなくなる前に、伝えなきゃ、と思った。
立花美緒「湊さん。私、もう、祖母の包丁、ちゃんと切れるんです。練習用のも。……研いでもらう理由、なくなっちゃった」
真鍋湊「……そうですね」
立花美緒「でも、私、まだ、ここに来たい。……研ぐもの、なくても」
言ってしまってから、頬が、かっと熱くなった。湊さんが、ゆっくりと立ち上がって、私のほうへ、一歩、近づいた。鉄と水の匂いが、ふっと、近くなる。
真鍋湊「……立花さん」
立花美緒「みお、です。……美緒」
真鍋湊「……美緒さん。俺も、ずっと」
彼の手が、私の頬に、そっと触れた。砥石でかさついた、それでも、温かい手だった。
真鍋湊「あなたが来るたびに、研ぎ場の音が、いつもと違って聞こえた。……自分でも、こわいくらい」
顔が、近づいてくる。研ぎと同じだ、と思った。急がない。角度を、変えない。まっすぐに、ためらいなく。その揺るがなさに、私の体の奥が、きゅう、と疼いた。
唇が、重なった。
ちゅ……。
立花美緒「ん……っ」
雨上がりの夜の、静かなキスだった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。彼の唇が、私の唇を、確かめるように食む。
ちゅ……ちゅぷ……
立花美緒「は……ん……っ」
唇の隙間から、舌が、おずおずと触れあう。私は、自分から、彼の作務衣の胸元を、きゅっと握っていた。離れたくなくて。
真鍋湊「……奥に、部屋がある。祖父の使ってた。……いい?」
立花美緒「……うん」
*
奥の四畳半は、砥石と、研ぎの道具と、古い刃物の箱が積まれた、彼らしい部屋だった。窓の外は、雨上がりの、澄んだ夜気。湊さんが、私を、布団の上に、そっと座らせる。隣に座った彼の肩から、温度が伝わってくる。
真鍋湊「……緊張、してる?」
立花美緒「してる。……でも、嫌じゃない。むしろ、こうしたかった。たぶん、初めて、トマトが切れた、あのときから」
自分で言って、驚いた。でも、本当だった。湊さんが、少し目を見開いて、それから、ふっと笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
立花美緒「ん……ふ……っ」
キスをしながら、彼の手が、私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。刃を砥石に当てるときと同じ、迷いのない、でも乱暴じゃない手つき。急かされないのに、いや、急かされないからこそ、肌が、勝手に熱くなる。
真鍋湊「……きれいだ」
立花美緒「やだ……電気、明るいのに……」
真鍋湊「見たい。……ちゃんと、あなたを」
恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
立花美緒「ん……っ」
鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震えた。背中に回った手が、ブラのホックを、ためらいなく外す。胸が、彼の前にこぼれ出た。湊さんの手が、それを、そっと包む。
立花美緒「あ……っ」
真鍋湊「……柔らかい」
立花美緒「もう……いちいち、言わないで……っ」
刃の引っかかりを確かめるみたいに、ゆっくりと、形を確かめるように揉まれて、私は枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと尖りはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。
立花美緒「ひゃ……っ、そこ……っ」
真鍋湊「ここ、弱い?」
立花美緒「……っ、意地悪、言わないでよぉ……っ」
口では強がるのに、湊さんが、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
立花美緒「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。儲からない研ぎ屋を黙って守るこの人の手と唇が、今は、私のことだけを、丁寧に世話してくれている。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
立花美緒「ん……っ♡」
真鍋湊「力、抜いて。……研ぎと、同じ。手首だけ固定して、あとは、預けて」
その声に、自然と、体の力が抜けた。いつも力を入れすぎる私の体から、初めて、誰かに預けるみたいに、力が抜けていく。湊さんの指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。
立花美緒「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が、小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、彼の指が、直接、そこに触れた。
くちゅ、と。
立花美緒「ひゃ……っ♡」
真鍋湊「……もう、こんなに」
立花美緒「言わないで……っ♡ 手、重ねられた、とき、から……っ。砥石の、前で……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、湊さんの指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
立花美緒「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
真鍋湊「うん。……わかった」
指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
立花美緒「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、いちばん感じる場所を、探り当てるように撫でる。
真鍋湊「……ここ?」
立花美緒「っ♡♡ そこ……っ♡ わかるの、上手すぎ……っ♡」
弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
立花美緒「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
真鍋湊「いいよ。……イって」
立花美緒「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。
立花美緒「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。湊さんの腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。
真鍋湊「……イったね」
立花美緒「……っ、言わないで、ってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、湊さんが、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。
*
立花美緒「……ねえ、湊さん」
真鍋湊「ん」
立花美緒「私ばっかり、ずるい。……湊さんのも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人になら、言えた。湊さんが、ごくりと喉を鳴らす。私は、ゆっくり体を起こして、彼の作務衣の帯に手をかけた。脱がせると、引き締まった、しなやかな体が現れる。一日中、研ぎ台に向かってきた人の体だ、と思った。
湊さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
真鍋湊「……いい?」
立花美緒「うん……っ。来て」
真鍋湊「……つけるから、待って」
立花美緒「……うん」
避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。夜遅くに突然飛び込んできた私を、それでも、ちゃんと大事にしてくれる。その律儀さも、誰も見ていない刃を、晒で一本ずつ拭く手と、同じだ、と思った。準備を終えて、湊さんが、もう一度、私の頬に手を添えた。
真鍋湊「……いくよ」
立花美緒「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
立花美緒「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。
ずず……っ
立花美緒「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
真鍋湊「……っ、すごく、熱い」
根元まで収まって、湊さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっと空っぽだった私の体の真ん中が、じんわり、満たされていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
立花美緒「……湊さんの、形に、なってる……っ♡」
真鍋湊「ああ。……動くよ」
湊さんが、ゆっくり、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
立花美緒「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。
真鍋湊「……気持ちいい?」
立花美緒「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
真鍋湊「俺も。……あなたが店に来るたび、ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、いつも自分の分を後回しにしてきた私は、すっかり、忘れていた。だんだん、律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
立花美緒「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
真鍋湊「ここ、好き?」
立花美緒「っ♡♡ 好き……っ♡ 湊さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが、体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちもだった。湊さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
立花美緒「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
真鍋湊「……っ、すごい、締まってる」
立花美緒「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
雨上がりの夜の、しんとした静けさと、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、四畳半に満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっと空っぽだった胸の真ん中が、彼でいっぱいに満たされていく。
真鍋湊「……美緒さん、そろそろ……っ」
立花美緒「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
湊さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
立花美緒「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 一緒に……っ♡♡」
真鍋湊「……っ、美緒……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
立花美緒「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。湊さんが、私の上で、はぁ、と大きく、息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
立花美緒「……はぁ……っ♡ すごかった……」
真鍋湊「……美緒さん」
立花美緒「ん……?」
真鍋湊「呼び捨て、しちゃった。さっき。……ごめん」
立花美緒「……ふふ。いいよ。むしろ、嬉しかった」
雨上がりの夜気の中で、私たちは、しばらく、そうして抱き合っていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。私は、生まれて初めて、すり減っていた自分の真ん中に、ちゃんと、芯が残っていたことを、知った気がした。
*
朝、目が覚めると、窓の外が、嘘みたいに、晴れていた。
長雨が上がったあとの、洗われたような青空。私は、湊さんの腕に頭を預けて、その光を、ぼんやり眺めていた。研ぎ台のほうから、かすかに、砥石と水の匂いがする。
立花美緒「……ねえ、湊さん」
真鍋湊「ん」
立花美緒「私、今日も、仕事。デパ地下の、量り売り」
真鍋湊「……うん」
立花美緒「ひじき、百グラム。きんぴら、百グラム。同じこと、今日も、繰り返すと思う。それは、変わらない。……でも」
私は、体を起こして、枕元に置いた、祖母の菜切り包丁を見た。晒に包まれた、黒い鋼。刃の先だけ、銀色に光っている。
立花美緒「これからは、ときどき、思い出す。……すり減ったって、削り直せば、また切れるって。芯は、ちゃんと、残ってるって。だから、もう、切れない笑顔を、力で押さなくていいんだって」
湊さんが、しばらく黙って、それから、ゆっくり身を起こした。研ぎ台のほうへ行って、何かを手にして、戻ってくる。手のひらに乗るくらいの、小さな砥石だった。角の取れた、使い込まれた一つ。
真鍋湊「……これ、持っていって」
立花美緒「えっ、いいの? 大事なものじゃ……」
真鍋湊「祖父が、いちばん長く使ってた中砥。……俺が、研ぎを覚えた砥石です」
彼は、その砥石を、私の手に、そっと預けた。
真鍋湊「家で、自分で研げるように。……刃が鈍ったな、って思ったら、自分で、研ぎ下ろせばいい。角度だけ、忘れないで」
息が、止まった。私は、その砥石を、両手で、ぎゅっと握りしめた。ぽろぽろと、涙がこぼれて、笑いながら、頷いた。
立花美緒「……うん。研ぐ。自分で、ちゃんと」
*
店を出ると、君江さんが、隣の乾物屋の戸を開けながら、私たちの顔を見比べて、目を細めた。
君江さん「あらあら。お泊まり? ……ずいぶん、いい顔してるじゃないの、二人とも」
真鍋湊「……君江さん。余計なこと、言わないで」
君江さん「だってねえ。湊ちゃんが、自分の砥石を、誰かに持たせるなんて、初めてよ。この子、祖父さんの道具、後生大事にしまい込んでるんだから。よっぽど、ねえ。……美緒ちゃん。この子、口は重いけど、芯は、あの鋼みたいに、まっすぐだから。また、おいで。研ぐもの、なくてもさ」
立花美緒「……はい。必ず」
湊さんが、決まり悪そうに、晴れた空のほうを向いた。その耳が、また、少し赤かった。私は、おかしくて、それから、胸がいっぱいになって、笑った。
アーケードのほうへ歩きながら、私は、もらった小さな砥石を、エプロンのポケットの上から、そっと押さえた。これから地下へ降りて、また、同じ笑顔を、量り売りするのだろう。でも、もう、こわくなかった。
立花美緒(……鈍ったら、研げばいい。それだけのことだったんだ)
商店街の路地に、雨上がりの光が、まっすぐに差し込んでいた。すりガラスの「研」の一文字が、その光を受けて、しんと、白く光っていた。次にこの戸を開けるのは、たぶん、研ぐもののない日だ。それでいい、と、私は、もう、わかっていた。
― 終 ―