毎日デパ地下の量り売りで同じ笑顔を切り売りするうち、自分がすっかり刃こぼれしていたことにも気づけなくなっていた私が、亡き祖母の菜切り包丁を抱えて飛び込んだ商店街の路地裏の小さな研ぎ屋で、刃を一定の角度で当てることだけを教える無口な若い研ぎ師に通ううちに惹かれ、長雨の上がった初夏の夜に研ぎ場で結ばれた話

その朝、祖母の包丁が、トマトの皮で滑った。

刃を押し当てても、つるりと表面を逃げるだけで、皮一枚、食い込まない。むきになって力を入れたら、今度は実のほうがぐしゃっと潰れて、まな板に赤い汁が広がった。私は、潰れたトマトを見おろしたまま、しばらく動けなかった。

私、立花美緒(たちばな みお)、二十八歳。商店街の外れにある、古いデパートの地下、その惣菜売り場で量り売りをして三年になる。ひじき、きんぴら、切り干し大根。ガラスケースの向こうで、同じ総菜を、同じグラム数だけ、同じ笑顔ですくって、パックに詰める。

立花美緒「いらっしゃいませ。はい、ちょうど百グラムですね」

一日に何百回、その声を出すだろう。マニュアルどおりの角度に口角を上げて、お釣りを両手で渡して、頭を下げる。気づいたら、家に帰っても、その笑顔の形のまま顔がこわばっていることがある。鏡を見て、ぞっとする。これは、私の顔だっけ。

包丁が切れなくなっていたことに、私はずっと、気づかないふりをしていた。切れないなりに、力で押せば、なんとかなっていたから。トマトが滑ったその朝、ようやく、認めた。

立花美緒(……切れなくなってたの、包丁だけじゃ、ないのかも)

これは、祖母の菜切り包丁だった。私に料理を教えてくれた祖母が、三年前に亡くなって、形見に貰った一本。黒く焼きの入った、古い鋼の包丁。祖母の手の中ではいつも、すうっと吸い込まれるように野菜が切れていたのに、私の手の中で、それは、すっかり鈍ってしまっていた。

休みの日、私は、その包丁を新聞紙にくるんで、商店街へ出た。

研ぎに出せる店なんて、今どきあるんだろうか。半分あきらめながら、ふだんは通らない裏通りに入ってみる。アーケードの華やかさから一本外れただけで、そこは時間が止まったような、古い路地だった。乾物屋、判子屋、傘の修理屋。その並びの、いちばん奥まったところに、その店はあった。

ガラスの引き戸に、すりガラスで「研」と一文字。ほかには何も書いていない。看板すら、出ていない。

引き戸を開けると、しゃり、しゃり、と、規則正しい音がしていた。水の匂いと、鉄の匂い。薄暗い土間の奥で、男の人が一人、低い研ぎ台に向かって、背中を丸めていた。砥石の上を、銀色の刃が、一定のリズムで往復している。

真鍋湊「……いらっしゃい」

顔も上げずに、その人は言った。低い、抑えた声。私がいることには気づいているのに、手元のリズムは、一秒も乱れない。私は、なんだか声をかけるのがためらわれて、しばらく、その背中を見ていた。

刃を砥石に当てる角度が、ずっと、変わらない。寄せては返す波みたいに、しゃり、しゃり、と、まったく同じ音が続く。乱れない。迷わない。その揺るがなさに、私は、なぜか少し、気圧された。

立花美緒「あの……包丁、研いでもらえますか」

ようやくそう言うと、その人は、研いでいた刃を水で流して、布で拭い、それからやっと、顔を上げた。三十歳くらいだろうか。日に焼けてはいないけれど、芯の通った、静かな目をしていた。私の手の新聞紙を、ちらりと見る。

真鍋湊「……見せて」

新聞紙を開いて、祖母の菜切りを差し出すと、その人は、両手で受け取った。

刃を、蛍光灯のほうへ、すっとかざす。刃先を、目を細めて、端から端まで、なめるように見ていく。それから、親指の腹を、刃にそっと当てて、横へ滑らせた。切るのではなく、引っかかりを確かめるみたいに。その手つきが、あんまり丁寧で、私は、息を詰めて見ていた。

真鍋湊「……いい鋼だ。古いけど、いい。ちゃんと使われてきた包丁です」

立花美緒「祖母の、形見で。……私が、すっかり、駄目にしちゃって」

真鍋湊「駄目になんて、なってないですよ」

さらりと、その人は言った。

真鍋湊「刃こぼれ、何箇所か。あと、ずっと、同じ角度で研がれてなかったみたいだ。刃が、丸まってる。……でも、欠けたわけじゃない。研ぎ下ろせば、また切れます」

研ぎ下ろせば、また切れる。なんでもないことのように言われたその言葉が、なぜか、胸の奥に、とん、と落ちた。私は、自分の包丁の話をされているのに、まるで、自分自身のことを言われた気がして、うまく返事ができなかった。

真鍋湊「一週間、預かります。鋼は、急いで研ぐと、刃が荒れるから」

立花美緒「……はい。お願いします」

帳場の奥から、ふいに、明るい声がした。

君江さん「あら、めずらしい。湊(みなと)ちゃんとこに、若いお客さん」

隣の乾物屋のおばさんが、勝手口から顔を出していた。君江(きみえ)さん、と、あとで知る。背中をまるめた研ぎ師の人は、湊さん、というらしい。

君江さん「この子ねえ、口は重いけど、腕は確かだから。お祖父さんから継いだ研ぎ屋でね。……ほんと、今どき、よく続けてるよ」

真鍋湊「……君江さん。仕事中なんで」

ぶっきらぼうに言って、湊さんは、私の包丁を、布の上にそっと置いた。その置き方の、壊れ物を扱うみたいな慎重さを、私は、見てしまった。

一週間後、私は、包丁を受け取りに行った。

湊さんは、奥から、白い晒に包んだ包丁を持ってきて、私の前で、ゆっくりと開いた。黒かった鋼の刃に、すっと、銀色の細い線が走っていた。刃の先だけ、新しく研ぎ下ろされて、光っている。

真鍋湊「……試してみますか」

帳場の隅に、小さなまな板と、ミニトマトが一つ、用意してあった。客に試させるために、わざわざ。私は、おそるおそる、包丁を握った。トマトの上に、刃を、そっと乗せる。力なんて、ほとんど入れていない。

それなのに、刃は、すうっと、トマトの皮を割って、実の中へ、音もなく沈んでいった。

立花美緒「……あ」

切れた。なんの抵抗もなく、まっぷたつに。断面が、つやつやと濡れて光っている。あの朝、潰れたトマトの赤い汁を、まな板に広げた私とは、まるで別人みたいだった。

立花美緒「……すごい。全然、力、いらない」

真鍋湊「切れる刃は、力がいらないんです。むしろ、力で押す包丁ほど、危ない。滑って、自分の指を切る」

湊さんは、淡々と言った。けれど、その言葉は、また、私の中の、別の場所に届いた。私は、ずっと、力で押してきた。切れない笑顔を、力で押し出して、お客さんに向けてきた。すり減った自分を、気力で押して、毎朝、地下へ降りていた。

立花美緒「……あの。私にも、これ、研げるようになりますか」

気づいたら、そう訊いていた。自分でも、なんでそんなことを言ったのか、わからなかった。ただ——この、しゃり、しゃり、という、揺るがない音の中に、もう少し、いたかった。

湊さんが、少しだけ、目を見開いた。

それから私は、休みのたびに、その研ぎ屋に通うようになった。

湊さんは、月に一度だけ、近所の人向けに、簡単な研ぎ方を教えているのだという。本当は、教えても儲けにはならない。みんな、すぐに切れなくなる安い包丁を使い捨てるから、研ぎになんて出さない。それでも湊さんは、来た人には、教える。

真鍋湊「砥石は、水に浸けてから。……これ、中砥(なかと)。まずはこれで、刃をつける」

低い研ぎ台の前に、並んで座る。肩が触れそうな近さに、私は、最初の日、息を詰めた。湊さんは、私の手に、包丁を握らせて、刃を砥石に当てさせる。

真鍋湊「角度。刃と砥石の間に、十円玉が二枚、入るくらい。……それを、ずっと、変えない」

私が研ぎ始めると、刃は、すぐにぐらついて、角度が定まらなかった。しゃり、ごり、しゃり、と、音がばらばらになる。湊さんの、あの、波みたいに揃った音とは、似ても似つかない。

立花美緒「……難しい。すぐ、ぶれちゃう」

真鍋湊「最初は、みんなそう」

そう言って、湊さんの手が、後ろから、私の手の甲に重なった。

真鍋湊「……力じゃない。腕じゃなくて、ここ。手首を、固定して。あとは、体ごと、前へ」

私の手の上から、彼の手が、角度を導く。鉄と、水と、砥石の匂いのする手だった。ごつごつしているのに、添える力は、驚くほど優しい。彼の手に導かれると、しゃり、と、初めて、音が、一本の線になって揃った。

立花美緒「……あ。今の、揃った」

真鍋湊「そう。……それです。それを、覚えて」

すぐに、彼の手は離れた。離れた手の温度の名残が、私の手の甲に、じんと残った。私は、その感触を消したくなくて、しばらく、研ぐふりをして、手を動かしていた。

通ううちに、ぽつり、ぽつりと、湊さんのことを知った。

彼も、昔は、ここにいなかったらしい。大学を出て、東京で、刃物メーカーの品質管理の仕事をしていた。一日中、数値で刃の鋭さを測る仕事。何ニュートンの力で何ミリ食い込むか、規格に合っているか。

真鍋湊「……でも、その刃、一度も、自分で研いだことがなかった。測るばっかりで」

砥石を洗いながら、湊さんは、めずらしく、自分から話した。

真鍋湊「祖父がここで死んで。店を畳む話になって、最後に一度だけ、祖父の研ぎ台に座ってみたんです。……そしたら、こわくなった。自分は、刃のことを、何も知らなかったって」

立花美緒「それで、継いだんですか」

真鍋湊「……気づいたら、会社、辞めてた。馬鹿ですよね。儲からないって、わかってるのに」

馬鹿だなんて、思わなかった。誰にも頼まれず、儲かりもしないものを、黙って守っている。その横顔を、私は、いつのまにか、また、目で追っていた。気づいたら、目で追っている。それが、最近、癖になっていた。

君江さん「湊ちゃんはねえ」

お茶を持ってきた君江さんが、にやにやしながら、口を挟んだ。

君江さん「無口だけどね、見るとこは、ちゃんと見てるのよ。この子。……ねえ美緒ちゃん、あんた最近、来るたんびに、顔がやわらかくなってきたよ」

立花美緒「……え」

真鍋湊「……君江さん」

湊さんが、低く制したけれど、その耳が、少しだけ、赤かった。私は、お茶の湯呑みで、慌てて顔を隠した。

ある日の夕方、店じまいの時刻になっても、私は、なかなか腰を上げられずにいた。

外は、しとしとと、長雨が降っていた。この季節の雨は、いつまでも降りやまない。湊さんは、その日研いだ刃物を、一本ずつ、晒で拭いて、片づけていた。私は、研ぎ終えた自分の練習用の包丁を握ったまま、なんとなく、口を開いた。

立花美緒「……私、毎日、同じことばっかりしてて」

真鍋湊「ん」

立花美緒「ひじきを、百グラムすくって、笑って、お釣り渡して。それを、一日に何百回も。……気づいたら、笑ってるのに、心が、全然、動いてないんです。切れない包丁みたいに。表面を、つるつる、滑ってるだけで」

言ってから、こんな暗いこと、と、自分で笑おうとした。でも、笑えなかった。湊さんは、拭く手を止めて、私のほうを、まっすぐに見た。急かさない、静かな目で。

真鍋湊「……立花さん。研ぎでいちばん難しいの、なんだと思います」

立花美緒「……角度を、変えないこと?」

真鍋湊「それもある。でも、いちばんは——研ぎ下ろす勇気です」

彼は、自分の包丁の、刃のつけ根を、指でなぞった。

真鍋湊「丸まった刃を、本当に切れるようにするには、丸まったぶんだけ、鋼を削って、捨てなきゃいけない。減るんですよ、包丁が。それが、こわい人は、表面だけ、撫でて研いだ気になる。……でも、それじゃ、切れない」

立花美緒「……減らさないと、切れない」

真鍋湊「すり減ったところは、削って、新しい刃を出せばいい。鋼は、なくなりはしない。芯は、ちゃんと、残る」

私は、息ができなくなった。それは、包丁の話だった。でも、彼は、たぶん、私を見ながら、言っていた。すり減った、と思っていた自分の三年間。それは、削り落としていい部分だった。芯は、ちゃんと、残っている。

涙が、ひとつぶ、こぼれた。慌てて拭おうとした手を、湊さんが、そっと、止めた。

真鍋湊「……いいんですよ。研ぎ場は、水で濡れてるのが、当たり前だから」

雨は、何日も降り続いて、そして、ようやく上がった。

その夜、私は、仕事帰りに、傘も差さずに、研ぎ屋へ向かっていた。雨上がりの路地は、しっとりと濡れて、街灯の明かりを、地面に滲ませていた。閉店時間はとうに過ぎているのに、すりガラスの「研」の字の奥に、まだ、灯りがついていた。

引き戸を、そっと開ける。しゃり、しゃり、と、あの音がしていた。湊さんが、一人、研ぎ台に向かっていた。君江さんは、もう帰ったあとらしい。土間に灯る裸電球の明かりだけが、彼の背中と、濡れた砥石を、淡く照らしていた。

立花美緒「……こんばんは」

湊さんが、振り返った。少し、驚いた顔をして、それから、手を止めた。

真鍋湊「……どうしたんですか、こんな時間に」

立花美緒「研ぎ場、見たくて。……夜の」

苦しい言い訳だと、自分でも思った。本当は、ただ、彼に会いたかった。雨が上がったら、もう、通う口実の包丁も、すっかり切れるようになってしまっていた。これ以上、研ぐものがなくなる前に、伝えなきゃ、と思った。

立花美緒「湊さん。私、もう、祖母の包丁、ちゃんと切れるんです。練習用のも。……研いでもらう理由、なくなっちゃった」

真鍋湊「……そうですね」

立花美緒「でも、私、まだ、ここに来たい。……研ぐもの、なくても」

言ってしまってから、頬が、かっと熱くなった。湊さんが、ゆっくりと立ち上がって、私のほうへ、一歩、近づいた。鉄と水の匂いが、ふっと、近くなる。

真鍋湊「……立花さん」

立花美緒「みお、です。……美緒」

真鍋湊「……美緒さん。俺も、ずっと」

彼の手が、私の頬に、そっと触れた。砥石でかさついた、それでも、温かい手だった。

真鍋湊「あなたが来るたびに、研ぎ場の音が、いつもと違って聞こえた。……自分でも、こわいくらい」

顔が、近づいてくる。研ぎと同じだ、と思った。急がない。角度を、変えない。まっすぐに、ためらいなく。その揺るがなさに、私の体の奥が、きゅう、と疼いた。

唇が、重なった。

ちゅ……。

立花美緒「ん……っ」

雨上がりの夜の、静かなキスだった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。彼の唇が、私の唇を、確かめるように食む。

ちゅ……ちゅぷ……

立花美緒「は……ん……っ」

唇の隙間から、舌が、おずおずと触れあう。私は、自分から、彼の作務衣の胸元を、きゅっと握っていた。離れたくなくて。

真鍋湊「……奥に、部屋がある。祖父の使ってた。……いい?」

立花美緒「……うん」

奥の四畳半は、砥石と、研ぎの道具と、古い刃物の箱が積まれた、彼らしい部屋だった。窓の外は、雨上がりの、澄んだ夜気。湊さんが、私を、布団の上に、そっと座らせる。隣に座った彼の肩から、温度が伝わってくる。

真鍋湊「……緊張、してる?」

立花美緒「してる。……でも、嫌じゃない。むしろ、こうしたかった。たぶん、初めて、トマトが切れた、あのときから」

自分で言って、驚いた。でも、本当だった。湊さんが、少し目を見開いて、それから、ふっと笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。

ちゅぷ……れろ……ちゅ……

立花美緒「ん……ふ……っ」

キスをしながら、彼の手が、私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。刃を砥石に当てるときと同じ、迷いのない、でも乱暴じゃない手つき。急かされないのに、いや、急かされないからこそ、肌が、勝手に熱くなる。

真鍋湊「……きれいだ」

立花美緒「やだ……電気、明るいのに……」

真鍋湊「見たい。……ちゃんと、あなたを」

恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。

ちゅ……ちゅっ……

立花美緒「ん……っ」

鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震えた。背中に回った手が、ブラのホックを、ためらいなく外す。胸が、彼の前にこぼれ出た。湊さんの手が、それを、そっと包む。

立花美緒「あ……っ」

真鍋湊「……柔らかい」

立花美緒「もう……いちいち、言わないで……っ」

刃の引っかかりを確かめるみたいに、ゆっくりと、形を確かめるように揉まれて、私は枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと尖りはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。

立花美緒「ひゃ……っ、そこ……っ」

真鍋湊「ここ、弱い?」

立花美緒「……っ、意地悪、言わないでよぉ……っ」

口では強がるのに、湊さんが、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

立花美緒「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。儲からない研ぎ屋を黙って守るこの人の手と唇が、今は、私のことだけを、丁寧に世話してくれている。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。

立花美緒「ん……っ♡」

真鍋湊「力、抜いて。……研ぎと、同じ。手首だけ固定して、あとは、預けて」

その声に、自然と、体の力が抜けた。いつも力を入れすぎる私の体から、初めて、誰かに預けるみたいに、力が抜けていく。湊さんの指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。

立花美緒「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が、小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、彼の指が、直接、そこに触れた。

くちゅ、と。

立花美緒「ひゃ……っ♡」

真鍋湊「……もう、こんなに」

立花美緒「言わないで……っ♡ 手、重ねられた、とき、から……っ。砥石の、前で……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、湊さんの指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。

くちゅ……くちゅ……

立花美緒「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」

真鍋湊「うん。……わかった」

指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。

ずぷ……っ

立花美緒「あぁ……っ♡」

熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、いちばん感じる場所を、探り当てるように撫でる。

真鍋湊「……ここ?」

立花美緒「っ♡♡ そこ……っ♡ わかるの、上手すぎ……っ♡」

弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では止まらなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

立花美緒「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」

真鍋湊「いいよ。……イって」

立花美緒「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」

指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。

立花美緒「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。湊さんの腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。

真鍋湊「……イったね」

立花美緒「……っ、言わないで、ってば……っ♡」

息を切らせる私の額に、湊さんが、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。

立花美緒「……ねえ、湊さん」

真鍋湊「ん」

立花美緒「私ばっかり、ずるい。……湊さんのも、ちゃんと、ちょうだい」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人になら、言えた。湊さんが、ごくりと喉を鳴らす。私は、ゆっくり体を起こして、彼の作務衣の帯に手をかけた。脱がせると、引き締まった、しなやかな体が現れる。一日中、研ぎ台に向かってきた人の体だ、と思った。

湊さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。

真鍋湊「……いい?」

立花美緒「うん……っ。来て」

真鍋湊「……つけるから、待って」

立花美緒「……うん」

避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。夜遅くに突然飛び込んできた私を、それでも、ちゃんと大事にしてくれる。その律儀さも、誰も見ていない刃を、晒で一本ずつ拭く手と、同じだ、と思った。準備を終えて、湊さんが、もう一度、私の頬に手を添えた。

真鍋湊「……いくよ」

立花美緒「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」

ずぷ……っ♡

立花美緒「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。

ずず……っ

立花美緒「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」

真鍋湊「……っ、すごく、熱い」

根元まで収まって、湊さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっと空っぽだった私の体の真ん中が、じんわり、満たされていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。

立花美緒「……湊さんの、形に、なってる……っ♡」

真鍋湊「ああ。……動くよ」

湊さんが、ゆっくり、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

立花美緒「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」

最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。

真鍋湊「……気持ちいい?」

立花美緒「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」

真鍋湊「俺も。……あなたが店に来るたび、ずっと、こうしたかった」

その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、いつも自分の分を後回しにしてきた私は、すっかり、忘れていた。だんだん、律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

立花美緒「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」

真鍋湊「ここ、好き?」

立花美緒「っ♡♡ 好き……っ♡ 湊さんの、好きっ……♡♡」

口走ってから、それが、体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちもだった。湊さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。

ぱちゅんっ♡♡

立花美緒「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」

真鍋湊「……っ、すごい、締まってる」

立花美緒「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」

雨上がりの夜の、しんとした静けさと、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、四畳半に満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっと空っぽだった胸の真ん中が、彼でいっぱいに満たされていく。

真鍋湊「……美緒さん、そろそろ……っ」

立花美緒「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」

湊さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡

立花美緒「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 一緒に……っ♡♡」

真鍋湊「……っ、美緒……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

立花美緒「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。湊さんが、私の上で、はぁ、と大きく、息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。

立花美緒「……はぁ……っ♡ すごかった……」

真鍋湊「……美緒さん」

立花美緒「ん……?」

真鍋湊「呼び捨て、しちゃった。さっき。……ごめん」

立花美緒「……ふふ。いいよ。むしろ、嬉しかった」

雨上がりの夜気の中で、私たちは、しばらく、そうして抱き合っていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。私は、生まれて初めて、すり減っていた自分の真ん中に、ちゃんと、芯が残っていたことを、知った気がした。

朝、目が覚めると、窓の外が、嘘みたいに、晴れていた。

長雨が上がったあとの、洗われたような青空。私は、湊さんの腕に頭を預けて、その光を、ぼんやり眺めていた。研ぎ台のほうから、かすかに、砥石と水の匂いがする。

立花美緒「……ねえ、湊さん」

真鍋湊「ん」

立花美緒「私、今日も、仕事。デパ地下の、量り売り」

真鍋湊「……うん」

立花美緒「ひじき、百グラム。きんぴら、百グラム。同じこと、今日も、繰り返すと思う。それは、変わらない。……でも」

私は、体を起こして、枕元に置いた、祖母の菜切り包丁を見た。晒に包まれた、黒い鋼。刃の先だけ、銀色に光っている。

立花美緒「これからは、ときどき、思い出す。……すり減ったって、削り直せば、また切れるって。芯は、ちゃんと、残ってるって。だから、もう、切れない笑顔を、力で押さなくていいんだって」

湊さんが、しばらく黙って、それから、ゆっくり身を起こした。研ぎ台のほうへ行って、何かを手にして、戻ってくる。手のひらに乗るくらいの、小さな砥石だった。角の取れた、使い込まれた一つ。

真鍋湊「……これ、持っていって」

立花美緒「えっ、いいの? 大事なものじゃ……」

真鍋湊「祖父が、いちばん長く使ってた中砥。……俺が、研ぎを覚えた砥石です」

彼は、その砥石を、私の手に、そっと預けた。

真鍋湊「家で、自分で研げるように。……刃が鈍ったな、って思ったら、自分で、研ぎ下ろせばいい。角度だけ、忘れないで」

息が、止まった。私は、その砥石を、両手で、ぎゅっと握りしめた。ぽろぽろと、涙がこぼれて、笑いながら、頷いた。

立花美緒「……うん。研ぐ。自分で、ちゃんと」

店を出ると、君江さんが、隣の乾物屋の戸を開けながら、私たちの顔を見比べて、目を細めた。

君江さん「あらあら。お泊まり? ……ずいぶん、いい顔してるじゃないの、二人とも」

真鍋湊「……君江さん。余計なこと、言わないで」

君江さん「だってねえ。湊ちゃんが、自分の砥石を、誰かに持たせるなんて、初めてよ。この子、祖父さんの道具、後生大事にしまい込んでるんだから。よっぽど、ねえ。……美緒ちゃん。この子、口は重いけど、芯は、あの鋼みたいに、まっすぐだから。また、おいで。研ぐもの、なくてもさ」

立花美緒「……はい。必ず」

湊さんが、決まり悪そうに、晴れた空のほうを向いた。その耳が、また、少し赤かった。私は、おかしくて、それから、胸がいっぱいになって、笑った。

アーケードのほうへ歩きながら、私は、もらった小さな砥石を、エプロンのポケットの上から、そっと押さえた。これから地下へ降りて、また、同じ笑顔を、量り売りするのだろう。でも、もう、こわくなかった。

立花美緒(……鈍ったら、研げばいい。それだけのことだったんだ)

商店街の路地に、雨上がりの光が、まっすぐに差し込んでいた。すりガラスの「研」の一文字が、その光を受けて、しんと、白く光っていた。次にこの戸を開けるのは、たぶん、研ぐもののない日だ。それでいい、と、私は、もう、わかっていた。

― 終 ―


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