僕の世界では、一秒は、長すぎる。
僕、神谷蓮(かみや れん)、二十八歳。証券会社のシステム部門で、株の自動取引のプログラムを書いている。市場で値段が動いた、その一瞬に、誰よりも速く注文を出す。勝負を分けるのは、一秒の千分の一——ミリ秒だ。僕らは毎日、その一ミリ秒を、また一ミリ秒を、必死に削り続けている。
入社して六年、僕はずっと、時間を「短くする」ことだけを考えて生きてきた。気づけば、自分の時間まで、一ミリ秒単位で削られていた。
1. 釜の鳴る路地
その夜も、取引システムの障害対応で、終電を逃した。
会社のある町から、僕のアパートまでは、歩いても帰れる。頭が熱を持って眠れそうになかったから、遠回りして、ふだん通らない古い路地に入った。
戦争でも焼けなかったという、細い石畳の道だ。両側に、黒い板塀と、格子の家が続いている。スマホの画面ばかり見て歩いていた僕は、その一軒だけ、ぼんやりと暖かい灯りが漏れているのに、ふと足を止めた。
しゅんしゅん、と。
聞いたことのない音がした。やかんとも違う、もっと低くて、深い、お湯の沸く音。それが、風の音みたいに、長く尾を引いている。
板塀の途切れた門の奥、植え込みの石畳の先に、小さな平屋があった。にじり口というのだろうか、低い障子の引き戸が、半分開いている。中から、その音と、灯りが、こぼれていた。
神谷蓮(……茶室?)
立ち止まって覗き込んだ僕に、奥から、静かな声がした。
篠田椿「……どうぞ。冷えるでしょう、そんなところに立っていたら」
声のするほうを見ると、畳の上に、一人の女の人が座っていた。和服ではない、藍染めの作務衣のような上っ張り。背筋がぴんと伸びて、湯気の上がる鉄の釜の前で、こちらを見ている。色の白い、静かな顔だった。
神谷蓮「あ……すみません。音が、聞こえて、つい。怪しい者じゃ……」
篠田椿「知っています。最近よく、夜中に、この前を通る方ですよね。いつも、走るみたいに歩いて」
見られていたのか、と思って、僕は耳が熱くなった。彼女は、ふ、と小さく笑って、釜の蓋を、少しずらした。しゅんしゅんという音が、ふっと和らいだ。
篠田椿「お茶、一服だけ。よかったら」
2. 湯が沸くのを待つ
靴を脱いで、低いにじり口から、頭を下げて中に入る。
四畳半ほどの、小さな部屋だった。壁は煤けた土壁で、隅に炉が切ってあり、そこに鉄の釜がかかっている。床の間に、一輪、白い花が活けてある。電気の灯りはなくて、和蝋燭が一本、ゆらゆらと燃えているだけ。スマホの青白い光に慣れた目に、その橙色は、やけに優しかった。
篠田椿「篠田椿(しのだ つばき)です。ここで、茶の湯を教えています。……といっても、生徒は、数えるほどですけど」
神谷蓮「神谷です。……椿さん、同じくらいの歳ですよね。茶道の先生って、もっと、ご年配の方かと」
篠田椿「二十八です。これは、祖母の茶室だったので。三年前に祖母が亡くなって、私が継ぎました」
椿さんは、そう言いながら、僕の前に、菓子を一つ置いた。それから、絹の布——あとで帛紗(ふくさ)というのだと知った——を、ぱっ、ぱっ、と折りたたんで、茶碗や、棗(なつめ)と呼ばれる小さな漆の容器を、ていねいに拭いていく。その手の動きには、一つも無駄がなかった。けれど、決して、速くはない。
僕は、待っていた。早く、お茶が出てこないかと。膝の上で、指が、勝手に、スマホを探していた。
神谷蓮(……まだか。釜のお湯、もう沸いてるのに)
その僕の心を見透かしたように、椿さんが、柄杓(ひしゃく)を釜に置いたまま、手を止めた。
篠田椿「神谷さん。今、『まだか』って、思いましたね」
神谷蓮「……っ、すみません」
篠田椿「いいんですよ。みんな、最初はそう。……でも、聞いてみてください。今、お湯が、どんな音をしているか」
言われて、僕は、耳を澄ました。さっきまで、しゅんしゅんと荒く鳴っていた釜が、今は、もっと細く、さらさらと、松の梢を風が渡るような音に変わっていた。
篠田椿「松風(まつかぜ)、っていうんです。お湯が、いちばんいい温度になると、こういう音になる。沸かしすぎても、ぬるくても、駄目。……この音になるまで、待つ。それが、お茶なんです」
椿さんが、ようやく柄杓を取って、釜の湯を、茶碗に注いだ。茶筅(ちゃせん)で、しゃ、しゃ、と泡を立てる。差し出された薄緑の一杯を、僕は、教わったとおりに飲んだ。少し苦くて、でも、後から、甘い。
それを飲んだとき、僕の頭の中で、何ヶ月も止まらなかった秒読みの音が、初めて、すっと、止まった気がした。
3. 弟子入り
それから僕は、週に一度、火曜の夜に、椿さんの茶室へ通うようになった。
理由は、自分でも、うまく言えなかった。「仕事に効くかもしれない」と、最初は理屈をつけた。集中力とか、メンタルとか。でも、本当は、あの「松風になるまで待つ」一杯を、もう一度、飲みたかっただけだ。
篠田椿「神谷さんは、お仕事、何をされてるんですか。いつも、すごく疲れた顔で歩いているから」
神谷蓮「……株の、自動売買のシステムを作ってます。市場で値が動いた瞬間に、コンピューターが、自動で注文を出す。その速さを、競う仕事です」
篠田椿「速さ。……どのくらいの?」
神谷蓮「一秒を、千に割った、その一つ。ミリ秒、っていいます。それを、一つ削れたら、勝ち。二つ削られたら、負け」
椿さんは、しばらく、僕の顔を見ていた。それから、炉の釜に、すっと、新しい炭を足した。
篠田椿「……不思議ですね。私は、お湯が沸くのを、何分も、ただ待っている。神谷さんは、その千分の一を、削って生きている。——同じ時間の上に、いるのに」
その言葉が、なぜか、胸に刺さった。僕は、何年も、時間を「敵」だと思って生きてきた。短くするべきもの、削るべきもの、足りないもの。でも、この部屋では、時間は、味方みたいだった。ゆっくり流れて、ちゃんと、美味しいものになる。
神谷蓮「椿さん。俺……いや、僕、ちゃんと、習いたいです。お点前。一から、教えてもらえませんか」
椿さんは、少しだけ、目を見開いた。それから、にじり口の障子の外、暗い庭のほうを、ちらりと見て、言った。
篠田椿「……ちょうど、よかった。秋が、深くなってきたから。お茶には、いい季節になります」
4. 手のひらの“間”
教わってみて、わかった。茶の湯は、ぜんぶ、僕の仕事の逆だった。
帛紗を折るのも、柄杓で湯を汲むのも、茶碗を回すのも、すべてに「こうする」という決まった形があって、それを、急がず、省かず、なぞる。一つの動作と、次の動作の「あいだ」に、必ず、ほんの少しの「間(ま)」がある。僕は、その間が、どうしても、待てなかった。
神谷蓮「……つい、次の動きに、行っちゃうんです。手が、勝手に、先に」
篠田椿「ふふ。一ミリ秒を削る癖が、抜けないんですね」
椿さんが、僕の後ろに、膝をついた。そして、柄杓を握った僕の手の上に、そっと、自分の手を重ねた。
篠田椿「力を抜いて。柄杓を、釜に置いたら……ひと呼吸。ここで、一度、止まる。お客さまに、『どうぞ』って、心で言うくらいの、間です」
背中に、椿さんの体温があった。重ねられた手は、ひんやりして、すべすべしていて、それでいて、芯が、しっかりしている。耳のすぐ後ろで、彼女の静かな息がして、ほのかに、お香のような、いい匂いがした。柄杓のことなんて、もう、半分も頭に入っていなかった。
篠田椿「……ね。ゆっくり、汲んで。お湯の、重さを感じて」
神谷蓮「……椿さん」
篠田椿「はい、手が止まってます。続けて」
声が、すぐ耳元で聞こえて、僕の心臓は、勝手に、速くなった。市場のどんな急変でも、これほど速くはならなかった。
その日、初めて、僕は、一服の薄茶を、最後まで点てた。泡は粗くて、お湯はぬるかった。それでも、椿さんは、両手で茶碗を包んで、一口飲んで、言った。
篠田椿「……美味しい。神谷さんの、初めてのお茶」
その「美味しい」を聞くために、僕は、来週も、再来週も、この路地を通うのだろうと思った。
5. 宗一さんの話
ある火曜、僕が少し早く着くと、先客がいた。
宗一(そういち)さん、という、七十をいくつも越えた老人だった。背筋のしゃんとした、品のいいおじいさんで、椿さんの祖母の代から、いちばん古い弟子なのだという。椿さんが奥へ菓子を取りに立った隙に、宗一さんは、僕に、ぽつりと話しかけてきた。
宗一「あんた、椿ちゃんのとこに、通うようになった若い人だね。……いや、いいことだ。あの子、最近、よう笑うようになった」
神谷蓮「そう、ですか」
宗一「あの子はな、苦労したんだよ。婆ちゃんが、ある朝、この炉の前で、ことっと倒れてな。そのまま逝った。葬式の次の日にゃ、もう、ここで一人、釜をかけとった。婆ちゃんの弟子の稽古を、絶やしちゃならんと言うてな」
宗一さんは、床の間の白い花を、目を細めて見た。
宗一「あの子、ほんとはな、東京の、立派な会社に勤めとったんだ。海の向こうへ行く話も、あったらしい。婆ちゃんは『茶なんか継がんでいい、好きに生きろ』と言うとった。……それでも、あの子は、ぜんぶ断って、ここに残った」
神谷蓮「……どうして、ですか」
宗一「この路地もな、地上げ屋が、何度も来とる。『古い家を壊して、マンションにすれば、ひと財産だ』とな。この茶室の土地も、ずいぶんな値がついたらしい。……でも、あの子は、首を縦に振らん。『祖母が、五十年、お湯を沸かし続けた釜の音を、絶やしたくない』と、それだけ言うてな」
ことり、と、奥で音がした。椿さんが、菓子鉢を持って、戻ってくる。宗一さんは、何事もなかったように、すっと、居住まいを正した。
宗一「……まあ、あの子は、強がりだから。一人で、ぜんぶ背負っとる。たまには、誰かに、肩の荷を、半分持たせてやってくれや。若いの」
その言葉が、和蝋燭の、ゆれる灯りの中で、ずっと、僕の頭から離れなかった。
6. 名残の茶
十月の終わり、稽古のあと、椿さんが「庭を見ませんか」と言った。
露地、と呼ばれる、茶室の前の小さな庭だった。飛び石が点々と続いて、隅に、水を張った石の鉢——蹲(つくばい)がある。木々の葉が、赤や黄に色づいて、夜目にも、しんと美しかった。
篠田椿「もうすぐ、風炉の季節が、終わるんです。今くらいの時期を、『名残(なごり)』って言って。……夏のあいだ使ってきた道具に、お別れする頃」
神谷蓮「お別れ……」
篠田椿「そう。少し寂しいけど、お茶って、ずっと、季節を見送って、また迎える、その繰り返しなんです。同じ秋は、二度と来ない。だから、一期一会(いちごいちえ)」
僕は、色づいた葉を見上げて、ふと、気づいた。
神谷蓮「……俺、いつの間にか、ちゃんと、秋になってたんだって、わかるようになってました」
篠田椿「え?」
神谷蓮「ここに通うまで、季節が変わったことに、何ヶ月も、気づかなかったんです。会社と、家の往復で、ずっと画面ばっかり見てて。……夏が、いつ終わったのかも、知らなかった。でも、今は、わかる。床の間の花が、変わるから。釜の音が、変わるから」
椿さんが、こちらを見た。蹲の水面に、空の月が、ゆれて映っている。
篠田椿「……それ、私、すごく、嬉しいです。お茶を続けてて、いちばん、嬉しい言葉かもしれない」
神谷蓮「椿さん。宗一さんに、聞きました。会社も、海の向こうの話も、ぜんぶ断って、ここを継いだって。……地上げの話も」
椿さんは、少し驚いた顔をして、それから、目を伏せた。
篠田椿「……あのおじいちゃん、おしゃべり」
神谷蓮「一人で、よく、やってきましたね」
篠田椿「……立派なことじゃ、ないんです。私はただ、この釜の音が、好きなだけ。祖母が、五十年、毎朝沸かしてきた音。それが消えたら、私、たぶん、立っていられない。……それだけ」
夜風が、色づいた葉を、一枚、散らした。一人でその音を守り続けてきたこの人のことが、僕は、どうしようもなく、愛しかった。
7. 炉開きの支度
十一月の頭、椿さんは「炉開き(ろびらき)を、手伝ってもらえますか」と言った。
篠田椿「立冬の頃に、夏のあいだ使っていた風炉をしまって、畳に切ってある炉を、初めて開けるんです。新しい炭をおこして、その年いちばんのお茶を点てる。……茶人の、お正月、って言われてます」
神谷蓮「茶人の、正月」
篠田椿「はい。一年で、いちばん、改まった日。……今年は、神谷さんがいてくれるから、心強い」
その夜、僕たちは二人で、支度をした。畳を上げて、炉縁(ろぶち)を清める。椿さんに教わりながら、炭を、形よく組んでいく。床の間には、椿さんが、自分の名前と同じ、白い椿を、一輪だけ活けた。蕾が、ほんの少しだけ、ほどけている。
神谷蓮「……椿の花、っていうんですね。これ」
篠田椿「炉の季節の、お茶の花です。咲ききる前の、こういう蕾を選ぶの。……いちばん、きれいなところを、ちょっとだけ、見せて、終わる」
すべての支度が整って、炉に、初めての火が入った。新しい炭が、ぱちっ、と小さく爆ぜて、釜が、ゆっくりと、温まっていく。やがて、あの、しゅんしゅんという音が、立ちはじめた。
僕と椿さんは、その釜の前に、二人、並んで座っていた。和蝋燭の灯りが、彼女の白い頬を、ゆらゆらと照らしている。
篠田椿「……聞こえますか。釜が、目を覚ます音」
神谷蓮「……うん。聞こえる」
篠田椿「祖母が、五十年、聞いてきた音。今年も、この音を、絶やさずにすみました。……神谷さんが、隣にいてくれて」
僕は、彼女の、膝の上に置かれた手を見た。帛紗を、何千回も折り続けてきた、白くて、きれいな手。僕は、つい、その手を、両手で包んだ。
篠田椿「……っ、神谷さん」
神谷蓮「椿さん。俺、ここに通うようになってから、ずっと、あなたを目で追ってました。お点前も、半分は、口実だったかもしれない。……あなたと、一緒に、この音を、聞いていたかった」
釜の松風だけが、二人のあいだの沈黙を、さらさらと、埋めていた。椿さんは、しばらく、何も言わなかった。やがて、包まれた手を、きゅっと、握り返してきた。
篠田椿「……ずるい。お正月の夜に、そんなこと言うなんて。……一年で、いちばん、忘れられない日に、なっちゃう」
その目が、蝋燭の灯りの中で、いつもの静けさとは違う、揺れた色をしていた。
8. 釜の鳴る夜
僕は、彼女の頬に、そっと手を添えた。
神谷蓮「……キス、していいですか」
篠田椿「……お点前のときみたいに、いちいち、間を取らないで」
それが、答えだった。顔を寄せて、唇を重ねる。お茶の、ほのかに苦くて、後から甘い匂いがした。
ちゅ、と。
篠田椿「ん……」
一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねた。背筋をいつも伸ばしていた、凜とした人が、僕の腕の中で、こんなにやわらかく溶けていくことが、信じられなかった。
ちゅ……ちゅぷ……
篠田椿「は……っ、神谷さん……」
神谷蓮「……蓮で、いい。名前で、呼んで」
篠田椿「……蓮、さん」
唇の隙間から舌が触れて、椿さんが、おずおずと、それに応える。釜が、しゅんしゅんと、僕たちのすぐ隣で、静かに鳴り続けていた。
神谷蓮「……奥に、部屋、あるんですよね。お祖母さんの住んでた」
篠田椿「……うん。あるけど。……古いよ」
神谷蓮「かまわない」
茶室の奥の、小さな和室。襖を開けると、古い畳と、乾いた木の、清潔な匂いがした。椿さんを座らせて、隣に腰を下ろす。障子の外で、初冬の夜風が、露地の木を、さらさらと鳴らしている。
神谷蓮「緊張してる?」
篠田椿「……してます。だって、お弟子さんだと思ってた人、だぞ。柄杓の持ち方も知らなかった、蓮さん、だぞ」
神谷蓮「それ、今、言うことですか」
篠田椿「……でも。蓮さんで、よかった。……他の、誰でもなくて」
その一言で、胸の奥が、熱くなった。もう一度、唇を重ねる。今度のキスは、さっきより深くて、もっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
篠田椿「ん……ふ……っ」
キスをしながら、作務衣の帯をほどき、上っ張りを、そっと肩から落としていく。帛紗を折るときと同じくらい、ていねいに。急かされないことに、椿さんの体が、かえって火照るのがわかった。
神谷蓮「……きれいだ。椿さん」
篠田椿「やめて……っ、恥ずかしい……」
神谷蓮「ほんとのことです」
僕の唇が、白い首筋に、降りていく。
ちゅ……ちゅっ……
篠田椿「ん……っ」
鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌が、ぴくんと震えた。下着のホックを外すと、胸が、蝋燭の灯りの下に、こぼれ出る。僕の手が、それを、そっと包んだ。
篠田椿「あ……っ」
神谷蓮「……あったかい」
篠田椿「もう……っ、いちいち、言わないで……っ」
形を確かめるように揉むと、椿さんは、口元を、手の甲で押さえた。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体が、びくっと跳ねる。
篠田椿「ひゃ……っ、そこ……っ」
神谷蓮「ここ?」
篠田椿「っ……意地悪、しないで……っ」
口では弱々しく拒むのに、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
篠田椿「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
いつも静かなあの声が、甘く、勝手に漏れる。この声を聞けるのは、たぶん、世界で僕だけだ。そう思うと、たまらなかった。胸を愛撫しながら、もう片方の手で、火照った腿の内側を、ゆっくり、撫で上げていく。
篠田椿「ん……っ♡」
神谷蓮「力、抜いて。……痛くしない」
その声に、椿さんの体から、少しずつ、力が抜けた。下着の上から、いちばん敏感なところに触れる。
篠田椿「あっ……♡」
布越しでも、もう、そこが熱を持っているのが、わかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れる。下着を脱がせて、直接そこに触れると——
くちゅ、と。
篠田椿「ひゃ……っ♡」
神谷蓮「……もう、こんなに」
篠田椿「言わないで……っ♡ 蓮さんの、せいだから……っ」
恥ずかしさで消えそうな顔をして、それでも椿さんは、僕の腕に、しがみついてきた。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でると、彼女の腰が、跳ねた。
くちゅ……くちゅ……
篠田椿「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
神谷蓮「椿さん、すごい顔してる。……可愛い」
篠田椿「やっ……見ないで……っ♡」
指が、ゆっくり、中へ滑り込んでいく。
ずぷ……っ
篠田椿「あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろに濡れていた。障子の外の夜風が、椿さんの声を、優しく散らしてくれている。弱い場所を指の腹で擦りながら、親指で突起を転がすと、椿さんの体は、もう、自分では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
篠田椿「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
神谷蓮「いいよ。イって」
篠田椿「やっ♡ 恥ずかしい……っ♡♡」
指の動きを速めると、椿さんの体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。
篠田椿「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、椿さんが、僕の腕の中で、ぎゅっと、体を丸めた。
神谷蓮「……イったね」
篠田椿「……っ、言わないでって……っ♡」
息を切らせる椿さんの額に、そっとキスを落とす。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてやった。
9. 一期一会
篠田椿「……ねえ、蓮さん」
神谷蓮「ん」
篠田椿「私ばっかり、ずるい。……蓮さんも、来て」
静かな口ぶりなのに、声は、甘く震えていた。僕がシャツを脱ぐと、椿さんが、ぼうっと、それを見ていた。彼女をそっと畳に横たえて、覆いかぶさる。脚の間に体を割り込ませて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがった。
神谷蓮「……椿さん。いい?」
篠田椿「うん……っ。来て、蓮さん」
神谷蓮「……つけるから、待ってて」
篠田椿「……うん」
避妊具をつける僕を、椿さんが、潤んだ目で見ていた。こんな夜でも、ちゃんと手順を守る僕を、椿さんが、ふっと笑った。
篠田椿「……そういうとこ、お点前と、同じ。蓮さん、省かないんだ」
神谷蓮「……あなたを、大事にしたいだけです」
もう一度、頬に手を添える。
神谷蓮「いくよ」
篠田椿「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
篠田椿「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、椿さんが、僕の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きいのが、わかった。
ずず……っ
篠田椿「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
神谷蓮「……っ、椿さんの中、すごく、熱い」
根元まで収まって、僕は、ふっと息を吐いた。ここでも、椿さんに教わった「間」を、僕は、思い出していた。急がない。次の動きに、すぐ行かない。ひと呼吸、置く。
篠田椿「……蓮さん、止まってる」
神谷蓮「……間を、取ってます。あなたに、教わったとおりに」
篠田椿「っ♡♡ もう……こんなときに……っ」
椿さんが、泣き笑いみたいな顔をした。それから、自分から、僕の首に腕を回して、唇を求めてきた。ゆっくり、動きはじめる。
ずちゅ……ぱちゅ……
篠田椿「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、椿さんの体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、彼女の声が漏れる。釜の松風が、襖の向こうから、まだ、さらさらと聞こえていた。
神谷蓮「椿さん。気持ちいい?」
篠田椿「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
神谷蓮「俺も。……ずっと、こうしたかった」
その言葉に、椿さんが、僕にしがみつく腕に、力を込めた。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突くたびに、椿さんの体が、跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
篠田椿「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
神谷蓮「ここ、いい?」
篠田椿「っ♡♡ いいっ……♡ 蓮さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、僕自身のことなのか、椿さんにも、わからなくなったようだった。たぶん、どっちもだ。彼女の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
篠田椿「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
神谷蓮「椿さん、中、すごい締まってる」
篠田椿「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
夜風の音と、釜の松風と、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、古い和室に満ちる。僕は、もう、何も考えられなかった。ミリ秒を削る秒読みも、市場の数字も、ここには、一つもない。あるのは、目の前の、愛しい人だけだった。
神谷蓮「椿さん……そろそろ……っ」
篠田椿「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
椿さんを、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速める。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
篠田椿「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 蓮さん、一緒に……っ♡♡」
神谷蓮「ああ……っ、椿さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
篠田椿「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、椿さんの体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。僕は、汗ばんだ椿さんの上に、しばらく動けないまま、重なっていた。
篠田椿「……はぁ……っ♡ すごかった……」
神谷蓮「……椿さん」
篠田椿「ん……?」
神谷蓮「好きです。……あの夜、路地で、釜の音に足を止めたときから、たぶん、ずっと」
篠田椿「もう……っ、それ、いちばん、格好つかないとこじゃん……っ」
椿さんが、泣き笑いすると、僕は、汗で濡れたその頬に、何度も、キスを落とした。
10. 炉開きの朝
気づくと、障子の外が、白みはじめていた。
露地のほうから、冬の朝の、澄んだ光が、少しずつ差し込んでくる。隣の茶室では、昨夜入れた炉の火が、灰の中で、まだ、ほんのりと、生きていた。釜は、もう松風を鳴らしてはいないけれど、近づくと、ほのかに、温かい。
僕は、椿さんの腕に頭を預けて——いや、逆だ。椿さんが、僕の腕に頭を預けて、まだ少し火照った顔で、古い天井の木目を、ぼんやり眺めていた。
篠田椿「……ねえ、蓮さん」
神谷蓮「ん」
篠田椿「会社、いつもみたいに、ミリ秒、削りに行くんでしょ」
神谷蓮「……行く。今日はな。でも」
僕は、彼女の肩を、ぎゅっと、抱き寄せた。
神谷蓮「火曜の夜は、ここに来る。これからも、ずっと。……削った一ミリ秒を、ぜんぶ、ここで、あなたと一緒に、取り戻したい」
椿さんが、ぱっと、顔を上げて、僕を見た。僕は、天井を見上げたまま、続けた。
神谷蓮「俺、何年も、時間は削るもんだと思ってた。短くして、足りなくて、いつも追われて。……でも、ここで、釜の音が松風になるまで待つのを覚えて、わかったんです。待った時間は、減るんじゃなくて、ちゃんと、美味しいものになって、残るんだって」
篠田椿「……それ、本気で、言ってる?」
神谷蓮「本気。——だから、あなたが守ってるこの釜の音を、俺にも、半分、背負わせてください。一人で、抱えないで」
椿さんの目に、涙が、盛り上がった。今度は、笑いながらだった。
篠田椿「……ばか。一人で守るの、ほんとは、ずっと、心細かったのに。……蓮さん、なんで、今ごろ、あの路地、通るの」
神谷蓮「悪い。何年も、画面ばっかり見て、下を向いて歩いてた。……でも、もう、一人で背負わせない」
僕は、彼女の手を握った。帛紗を、何千回も折り続けてきた、よく働く、きれいな手。それが今、僕の指に、しっかりと絡んで、もう、離れる気配がなかった。
篠田椿「……来年の炉開きも、再来年も。隣に、いてくれる?」
神谷蓮「いる。あなたと、同じ秋を、ちゃんと見送って、また迎えて。……一期一会、なんだろ。だから、一回ずつ、大事にする」
篠田椿「……うん。約束」
椿さんが、僕の胸に、頬を、すり寄せてきた。
障子を少し開けると、冬の朝の、ひんやりした空気が、流れ込んでくる。床の間に活けた白い椿の蕾が、夜のあいだに、ほんの少しだけ、ほどけていた。咲ききる前の、いちばんきれいなところ。一秒を千に刻んで生きてきた僕が、どうしても見えていなかった、すぐ隣にあった、ゆっくりした時間。
神谷蓮「椿さん。次の火曜も、その次も。……ずっと、一緒に、お湯を沸かそう」
篠田椿「……はい。お待ちしてます。蓮さん」
朝の光が、少しずつ強くなって、炉のそばの、温かい灰の上で、淡く光った。僕は、もう、この人の顔を見るのを、我慢しなかった。ミリ秒を削り続けた何年もの先で、僕はやっと、待つことの美味しさと、隣にあった手の温もりを、知ったのだった。
― 終 ―