1. 朝霧の声
世界がまだ青いうちに、湖はいちばんきれいだ、と知ったのは、ボート部に入ってからだった。
僕、三浦航(みうら こう)、二十歳。大学二年生。一年のあいだ、僕はどのサークルにも、どの部活にも入らなかった。中学高校と、運動部の汗くさい熱気と、声を張り合う上下関係が、ずっと苦手だった。授業に出て、バイトをして、ひとりで帰る。それで十分だと思っていた。
なのに、二年の春。なんでだか、湖のほとりの古い艇庫の前で、足が止まった。
まだ夜が明けきらない、午前五時すぎ。乳白色の朝霧が、水面の上を低く這っていた。その霧の奥から、すうっと、一艇の細長いボートが滑り出てきた。八本のオールが、一糸の乱れもなく、同じ角度で水を掻く。しゃっ、しゃっ、と、水を切る音だけが、霧の中に響く。
そして、その音を束ねるように、女の子の声が、湖面を渡ってきた。
「キャッチ……ハイッ! フィニッシュ! ……レート、上げる。次の十本、行くよ」
鋭くて、よく通る、芯のある声だった。八人の大きな漕手たちが、その小さな声ひとつに、ぴたりと動きを合わせていく。僕は、霧の中に立ち尽くしたまま、その光景から目を離せなかった。
(……なんだ、これ)
ひとりで生きていれば楽だと思っていた僕の胸の奥が、そのとき、確かにざわついた。
2. 陸の上の彼女
ボートが艇庫に戻ってくると、漕手たちが、巨大な艇を肩に担いで陸へ上げた。一番うしろから、その艇を見送るように、小柄な人影がついてくる。
さっき、あの声を出していた子だった。
近くで見ると、びっくりするほど小さかった。背は僕の肩くらいまでしかない。霧で濡れた前髪を、所在なさげに耳にかけている。湖の上で八人を従えていた人と、同じ人だとは思えなかった。
「あの……すみません。見学、いいですか」
「……えっ。あ、は、はい。どうぞ……」
声が、さっきと全然違った。ぼそぼそと小さくて、語尾が消えていく。目も、あまり合わない。
「さっきの、すごかったです。号令」
「……あれは、その。仕事、なので……」
その子は、葉山鈴(はやま すず)といった。学年を聞いたら、僕と同じ二年だった。一年からこの部でコックス――舵手をやっているという。
「コックスは、漕がないんです。舵を取って、レースプランを組んで、八人に……号令を、かける役で」
「漕がないのに、いちばん前で乗ってましたよね」
「コックスは、いちばん軽いほうがいいので。……私、ちっちゃいから、それくらいしか、取り柄が」
ふっと、自嘲するみたいに笑った。その笑い方が、なんだか、放っておけなかった。
その日のうちに、僕は入部届をもらっていた。運動から逃げてきたはずの僕が、なんでだか、その紙を握りしめていた。
3. 一本の艇に乗るということ
部長の大塚さんは、二メートル近い巨漢で、整調(ストローク)――艇のリズムをつくる、いちばん後ろの漕手だった。
「お前、運動は」
「……ほとんど、やってません」
「いいよ。ボートは身長ある奴のほうが伸びる。半年やれば化ける。漕いでみろ」
最初の一ヶ月は、地獄だった。エルゴという陸の漕ぎマシンで、心臓が口から出そうになるまで漕がされる。手の皮はめくれ、腿は毎日悲鳴を上げた。それでも、不思議と、やめようとは思わなかった。
僕がはじめて八人乗りの「エイト」に乗せてもらえたのは、五月の連休明けだった。新緑が湖を囲み、朝霧が日に日に薄くなっていく季節。
艇の上は、想像していたより、ずっと不安定だった。少しでも体がぶれると、艇全体が傾く。八人の呼吸が、ほんの少しずれるだけで、オールが水に刺さって、艇が止まる。
「三浦くん、力みすぎ。自分だけで進めようとしないで」
「……え」
「ボートは、八人で一本の艇なの。あなたが速くても、リズムがずれたら、艇は遅くなる。みんなと、合わせて」
陸ではあんなに自信なさげなのに、艇の上の葉山は、別人だった。背筋を伸ばし、八人の体の動きを、ひとつひとつ、その小さな目で正確に捉えている。
「キャッチ……ハイッ! ……三浦くん、いい。今、合った。今の感じ、覚えて」
号令に合わせて、八本のオールが、同時に水を掴む。艇が、ぐんと前へ滑り出す。八人の体が、一つの生き物みたいに動いた、その一瞬――背筋が、ぞくっとした。
(……これか。これが、合うってことか)
ひとりで漕いでいたんじゃ、絶対に出せない速さ。それを、彼女の声が、束ねていた。
4. 軽くなりたい人
朝練のあと、部員はたいてい、近くの定食屋で朝飯を食って解散する。でも葉山は、いつもひとりだけ、艇庫に残っていた。
ある朝、僕は気になって、戻ってみた。葉山は、ノートを広げて、何か細かく書き込んでいた。
「何、書いてるの」
「……っ。み、三浦くん。びっくりした」
「ごめん。レースプラン?」
「うん……。今日の漕ぎの、記録。誰が、どこで合ってて、どこでずれたか。あと、川の流れと、風と……全部、書いとかないと、不安で」
ノートは、びっしりだった。八人ぶんの体の癖が、僕の知らない記号で、几帳面に並んでいる。
「コックスって、ね。漕がないでしょ。だから、私が乗ってるぶん、艇は重くなるの。私の体重ぶん、みんなが余計に漕ぐことになる」
「……そんなふうに、考えてるの」
「だから、せめて、号令だけは、誰よりちゃんと。私が乗ってる意味を、出さなきゃって。……じゃないと、ただ、乗せてもらってるだけの、お荷物だから」
その横顔を見て、胸が、きゅっとなった。陸の上でいつも俯いているのは、自信がないからじゃなかった。自分が「軽くあろう」と、必死で身を縮めているからだった。
「……お荷物じゃ、ないよ」
「え」
「葉山の声がないと、僕、今の十本がどこで合ったかも、わかんなかった。重さの話じゃなくて。……葉山が、八人ぶんの目になってる」
葉山は、少しのあいだ、ぽかんと僕を見ていた。それから、耳まで赤くなって、ノートに顔を埋めた。
「……三浦くん。たまに、ずるいこと言う」
5. 霧が晴れる朝
それから僕は、朝練のあと、葉山と二人で湖を歩いて帰るようになった。
定食屋には寄らず、コンビニで温かい肉まんを買って、湖畔のベンチで食べる。朝六時の湖は、誰もいなくて、霧がゆっくりと晴れていく時間だった。
「私、ほんとは、漕ぎたかったんだ」
「漕手に?」
「うん。一年の春、入部したとき。でも、身長も、力も足りなくて。コーチに、コックスを勧められて。……最初は、悔しかった」
肉まんを、小さくかじりながら、葉山は湖を見ていた。
「でもね。コックスやってみて、気づいたの。私、自分の力で速く進むのは無理だけど。みんなを、合わせることは、できるって。八人のばらばらの力を、一本にまとめる。……それ、見つけたとき、はじめて、自分にも居場所があるって、思えた」
「……いい役だと思う。すごく」
「三浦くんは? なんで、入ったの。運動、苦手って言ってたのに」
僕は、少し迷ってから、正直に言った。
「……ずっと、ひとりでいいと思ってた。誰かと声を合わせるのも、上下関係も、面倒で。でも、あの朝。霧の中で、八人が葉山の声で一つになってるの見て。……なんか、あの中に、入りたいって、思っちゃったんだ」
葉山が、こっちを向いた。霧の晴れた湖面が、その瞳に映っていた。
「……入れて、よかった」
「うん。よかった」
肩が、少しだけ触れていた。どちらも、離さなかった。
6. 声が、震える夜
シーズン最後のレース――夏の大会の予選が、二週間後に迫っていた。
その頃から、葉山の様子が、おかしくなった。号令の声に、時々、迷いが混じる。レート(漕ぐ速さ)を上げる指示が、一拍、遅れる。艇が、まとまらない。
ある晩、僕は艇庫に明かりがついているのに気づいた。のぞくと、葉山が、ひとりで、レースプランのノートを握りしめて、うずくまっていた。
「……葉山?」
「……三浦くん。なんで」
「忘れ物、取りに。……どうした。顔、真っ青だよ」
葉山は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「去年の、この大会……私のコールのせいで、負けたの」
「コールの」
「ラストスパート、かけるタイミングを、私が、一拍読み間違えた。八人は、私の号令を信じて、全力でついてきてくれたのに。……半艇身、足りなかった。私の、声のせいで」
握ったノートが、小さく震えていた。
「みんな、何も言わなかった。気にするなって。でも、それが、よけい、苦しくて。……私が、ちゃんと声を出せば、勝てたのに。私が、お荷物だから」
「葉山」
「今年も、また、私の声で、みんなを沈めちゃったら……そう思うと、号令を出す前に、喉が、固まるの」
僕は、その隣にしゃがんで、目線を合わせた。あの、霧の上で八人を従えていた声が、こんなにも細く、震えている。
「……葉山。僕、艇の上で、誰の声、聞いてると思う」
「……え」
「葉山の声だよ。僕は、自分のオールがどこにあるかも、わからなくなる。でも、葉山が『ハイッ』って言うと、体が、勝手に動く。……葉山の声を、僕は、信じてる。八人ぜんぶ、そうだ」
葉山の目が、揺れた。
「去年、半艇身足りなかったのは、葉山の声のせいじゃない。葉山の声を、信じて、最後まで全力で漕げたからだろ。……お荷物が、八人を全力にできるかよ」
しんと、艇庫が静まった。葉山の頬を、ぽろりと、涙が伝った。
「……っ、三浦くん」
「だから、今年も。葉山の声で、僕らを引っぱって。僕、ちゃんと、ついていくから」
葉山は、両手で顔を覆って、肩を震わせて、しばらく泣いた。僕は、そっと、その小さな背中に手を当てていた。
7. 一本の艇になった日
レース当日は、よく晴れた、風のない朝だった。
二千メートルのコースに、六艇が並ぶ。僕らの艇は、第三レーン。スタートの号砲が鳴る寸前、いちばん前のコックス席から、葉山の声が、艇を貫いた。
「みんな。私の声、信じて。……行くよ」
号砲。八本のオールが、同時に水を掴んだ。
序盤、僕らは三番手だった。中盤、二番手。葉山の号令は、もう、一ミリも震えていなかった。
「まだ。まだ溜める。……ラスト五百で、行く」
残り五百メートル。先頭の艇との差は、半艇身。去年と、同じ差だった。葉山の声が、ひときわ高く、湖面に響いた。
「ここっ! スパート、上げるッ! ……ついてきてッ!」
体じゅうの血が、沸騰した。心臓が壊れてもいい、と思った。八人が、葉山の声ひとつに、全部を懸けた。一本、一本、オールが、水を裂く。艇が、生き物みたいに、加速する。
「ハイッ! ハイッ! ……抜くッ!」
ゴールラインの白いブイが、視界を流れた。先頭の艇の舳先を、僕らの舳先が、半艇身、追い越していた。
ぴーっ、というゴールの笛。一瞬の、静寂。それから、艇の上で、八人が、声にならない雄叫びを上げた。
「勝った……勝ったぞ! 葉山ァ!」
「……っ、勝った……勝った……!」
コックス席で、葉山が、両手で口を押さえて、泣いていた。去年、半艇身を取り返せなかったその場所で、今年、半艇身、勝った。彼女の声が、八人を、一本の艇にした。
8. 誰もいない艇庫で
その夜、打ち上げのあと。みんなが酔って帰っていく中、僕と葉山は、なんとなく二人で、艇庫に戻ってしまった。
優勝した艇を、もう一度、ちゃんと拭いておきたかった。並んで、夜の艇庫で、長い艇のボディを、布で拭く。窓の外で、湖が、月明かりを反射していた。
「……三浦くん。今日、ありがとう」
「僕は、ただ漕いだだけだよ」
「ううん。あの夜……三浦くんが、信じてるって、言ってくれたから。私、今日、声、出せた」
葉山が、布を置いて、こっちを向いた。月明かりの中で、その目が、潤んでいた。
「ずっと、自分のこと、お荷物だって思ってた。乗せてもらってるだけだって。……でも、三浦くんは、ずっと、私の声を、聞いてくれてた」
僕は、艇から手を離して、葉山のほうへ、一歩、近づいた。
「……葉山。僕、たぶん、最初の朝から、葉山の声に、引っぱられてた。ボートにじゃなくて。……葉山に」
「……三浦、くん」
「好きだ。コックス席の葉山も、陸でぼそぼそ喋る葉山も。……全部」
葉山の睫毛が、ふるりと震えた。陸ではいつも消えそうな声が、その時だけ、はっきりと、僕に届いた。
「……私も。私も、ずっと。三浦くんの、漕ぐ背中、見てた」
どちらからともなく、距離が、なくなった。僕は、その小さな肩に手を回して、引き寄せた。
唇が、重なった。
「ん……」
汗とも涙ともつかないしょっぱさのあとで、唇は、やわらかく、熱かった。一度離れて、目が合って、もう一度、今度は深く。月明かりの艇庫に、二人のほかには、誰もいなかった。
9. ほどけていく声
艇庫の二階には、合宿のときに使う、小さな畳の部屋がある。僕は、葉山の手を引いて、その狭い階段を上がった。
豆電球の、ほのかな明かりだけが、畳を照らしていた。窓の下で、湖の水音が、かすかに聞こえる。もう一度、深く口づけながら、僕は葉山の華奢な背中を、そっと畳に横たえた。
「……怖かったら、言って」
「……ううん。三浦くんになら……いい」
Tシャツの裾から手を入れると、葉山の素肌は、レースの熱がまだ残っているみたいに、熱かった。号令を出すときの張りつめた体が、僕の手の中で、少しずつ、力を抜いていく。
れろ……ちゅ……
「ん……っ」
首筋に唇を這わせると、葉山の体が、びくりと跳ねた。あんなに鋭く八人を束ねていた人が、僕の腕の中で、頼りなく震えている。それが、たまらなく愛おしかった。
「……三浦くん。電気……」
「これ以上、暗くできないみたい」
「……っ、もう」
豆電球のうす明かりの中で、Tシャツを脱がせると、葉山は恥ずかしそうに、胸の前で腕を組んだ。小柄な体に似合わない、やわらかなふくらみが、淡い光に浮かんだ。
「……葉山、きれいだ」
「……見ないで。ちっちゃいから、私……」
「ちっちゃくなんかない。……ぜんぶ、好きだって、言ったろ」
10. はじめての夜
おずおずと、葉山が腕をほどいた。僕は、そのやわらかな胸を、壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。
「あ……っ」
「……痛くない?」
「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと尖りはじめた先端をかすめると、葉山の肩が、ぴくんと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、そっと先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、葉山の体から、ふっと力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
号令とはまるで違う、甘くてほどけた声が、湖の水音に混じって、畳の部屋にこぼれる。誰もいなくてよかった、と頭の隅で思った。この声は、僕だけが、聞いていたい。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、太腿の内側を、ゆっくりと撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いて。葉山のペースで」
「……っ、それ、ずるい……っ。いつも私が、言うほうなのに……っ」
下着の上から、いちばん敏感なところに触れると、もう、そこが熱を持っているのがわかった。指でそっと撫でるたびに、葉山の腰が、小さく揺れる。やがて下着をずらして、直接そこに触れると――
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてる」
「言わないで……っ♡ キス、のとき、から……っ」
恥ずかしさで顔を背ける葉山に、何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でた。葉山が、僕の腕に、ぎゅっとしがみつく。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ちいい?」
「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくりと、中へ沈めていく。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。指の動きに合わせて、葉山の体が、だんだん高まっていくのがわかる。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「いいよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、葉山の体が、びくびくっと跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、葉山はぎゅっと体を丸めて、達した。いつも凛と号令をかける人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。
11. 一本に、なる
「……三浦くん」
「ん」
「……最後まで、してほしい。三浦くん、と」
頬を染めて、上目づかいで、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。
「……無理、してない?」
「してない。私が、したいの。……今日勝てたの、三浦くんがいたから。だから、今日が、いい」
僕は、財布に念のため入れていた小さな包みを取り出した。葉山が、それを見て、ふっと、ほっとしたように笑う。
「……そういうとこ、ちゃんとしてる」
「コックスに、段取りが大事だって、教わったから」
「……もう。こんなときに」
畳の上で、僕は葉山に、そっと覆いかぶさった。脚の間に体を進めて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。
「……いくよ。痛かったら、すぐ言って」
「……うん」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、葉山は僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、葉山の中が僕を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……あ……っ」
「……止める?」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、葉山の様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。
「……全部、入ってる……?」
「うん。……全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
葉山の目に、うっすら涙がにじんでいた。いつも、艇のいちばん前と後ろで、声と背中だけでつながっていた二人が、今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を、指でそっと拭った。
「……動いて、平気?」
「うん……っ。来て、三浦くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、葉山の体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、葉山の声が漏れる。レースのときみたいに、僕は、葉山の声に、リズムを合わせた。
「……痛くない?」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか、変な、感じ……っ♡」
「気持ちよく、なってきた?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、三浦くんの、好き……っ♡」
口走ってから、葉山は自分の言葉に、また顔を赤くした。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「三浦くん……っ♡」
「鈴」
「……っ♡ 名前……」
「鈴。……一回、名前で呼びたかった」
下の名前で呼ぶと、葉山は――鈴は、僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ、深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 航くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……僕も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 航くんと、一緒……っ♡」
僕は、鈴をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 航くん……っ♡♡」
「……っ、鈴……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、鈴の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。湖の水音だけが聞こえる夜の艇庫で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ、航くん……」
「……鈴。痛くなかった?」
「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せだった」
僕は、鈴の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
12. 二人で漕ぐ
次の朝も、僕らは、いつものように湖にいた。
朝霧の中で、艇を出す。鈴がコックス席に座って、僕がオールを握る。昨日までと、何も変わらない。なのに、何もかもが違って見えた。
「キャッチ……ハイッ! ……航くん、いい。今、合った」
「鈴の声、聞いてれば、合うよ」
「……っ、レース中に、デレないで」
「おーい、聞こえてんぞ、お前ら! 漕げ漕げ!」
整調席の大塚さんが、げらげら笑った。艇の上で、八人が、どっと沸いた。
朝練のあと、いつものベンチで、肉まんを二つに割って食べた。霧が、ゆっくりと晴れていく。僕は、隣に座る鈴の、小さな手を握った。
「鈴。これからも、号令、頼むよ」
「うん。……航くんが、ちゃんとついてきてくれるなら」
「ついていくよ。ずっと」
「……ずっと、って」
「彼氏として。八人ぶんじゃなくて。……僕だけの返事で」
鈴が、ふわっと笑った。陸の上の、あの消えそうな声が、その時だけ、湖の上の号令みたいに、まっすぐ僕に届いた。
「……はい。よろしくお願いします。航くん」
運動から逃げてきたはずの僕は、いつのまにか、誰かと声を合わせることの幸せを、知っていた。
ひとりで漕いでいたんじゃ、絶対に出せない速さがある。それを教えてくれたのは、朝霧の湖面で、別人みたいに凛と号令をかける、小さな小さなコックスだった。
二人の手のあいだに、もう、艇一艇ぶんの距離も、なかった。
― 終 ―