社会人六年目、二十八歳。印刷会社で営業をやっている。
名前は久瀬透(くぜ とおる)。
春に転勤で引っ越してきたこの町は、駅から離れた古い住宅街で、夜は驚くほど静かだ。仕事は毎日終電近く。家に帰ってシャワーを浴びて寝るだけの生活が、もう何ヶ月も続いていた。
学生の頃はバンドをやっていた。安いベースを抱えて、毎晩のように音楽を浴びていた。けど社会人になってから、いつの間にかイヤホンをつけなくなった。音楽を「聴く」という余白が、自分の中から消えていた。
そんな僕が立ち止まったのは、六月の、雨の降る火曜の夜だった。
残業帰り、傘もささずに小走りで路地を抜けようとしたとき——どこかから、音が聴こえた。
(……レコードの音だ)
スピーカーのデジタルな音じゃない。針が溝をなぞる、あの少しざらついた、あたたかい音。雨に滲んだその音に、足が勝手に止まった。
路地のいちばん奥。古いビルの一階に、ぽつんと灯りがともっていた。
すりガラスの引き戸に、小さく Records 螺旋(らせん) とある。
(こんなところに、レコード屋……?)
吸い寄せられるように、僕は引き戸に手をかけた。
路地裏の灯り
からから、と戸が鳴った。
途端、雨の匂いの中に、紙とビニールと、少しの埃の匂いが混じった。壁一面、天井まで届く棚に、レコードがぎっしり詰まっている。
正面の壁際、古いプレーヤーの前に、ひとりの女性が立っていた。
——と。
その瞬間、息を呑んだ。
肩につくくらいの黒髪を、ゆるく耳にかけている。化粧は薄いのに、横顔の線がきれいだった。伏せた睫毛、すっと通った鼻筋、薄く結んだ唇。白いシャツの袖をまくって、細い指でレコードの縁にそっと触れている。
針を落とす。ぷつ、と小さなノイズのあと、さっきの曲が部屋に満ちた。
その横顔が、あんまり静かで——見入ってしまった。
「……いらっしゃいませ」
こちらを見て、彼女が小さく言った。声は低めで、落ち着いていて、雨の音にそっと溶けるようだった。
「あ……すみません、雨宿りみたいな感じで……音が聴こえて、つい」
「いいですよ。どうぞ、ゆっくり」
それだけ言って、彼女はまたプレーヤーに向き直った。愛想がいいわけじゃない。でも、突き放す感じでもない。ただ静かに、僕がそこにいることを許してくれている。そんな距離感だった。
「この曲……なんていう曲ですか」
「夏の終わりの歌、です。四十年くらい前の。……夏が来る前に聴くのが、わたしは好きで」
雨で湿った夜に、終わった夏の歌。不思議と、擦り切れた胸の奥にしみた。
棚を眺めるふりをしながら、僕はずっと、彼女が次の一枚を選ぶ指先を見ていた。
会計のとき、レジ横の小さな名札に気づいた。
『朝倉 詩織(あさくら しおり)』
「……気に入ったら、また」
「来ます。絶対」
自分でも驚くくらい、はっきり言っていた。
帰り道、買った一枚を抱えて歩いた。何年ぶりだろう。レコードを買ったのなんて。雨はまだ降っていたけれど、足取りは妙に軽かった。
火曜の客
それから僕は、週に一度、火曜の夜に「螺旋」へ通うようになった。
火曜にしたのは、その日だけ少し早く上がれるから。本当は毎日でも行きたかったけど、それを言える勇気はまだなかった。
詩織さんは、いつもプレーヤーの前にいた。会うたびに、その日の一枚を選んで、針を落としてくれる。
「今日は雨だから、これを」
「……詩織さんは、天気で曲を選ぶんですか」
「気分で、です。雨の日に晴れた歌をかけると、嘘っぽくて」
ぽつり、ぽつりと話す。多くは語らない。けど、音楽の話になると、ほんの少しだけ目の奥が動く。それを見つけるのが、いつの間にか僕の楽しみになっていた。
ある夜、奥の椅子に、ハンチング帽の老人が座っていた。常連らしい。田所さん、と詩織さんが呼んでいた。
「兄ちゃん、最近よく来るな」
「ええ、まあ……ここ、落ち着くんで」
「この店はな、詩織ちゃんの親父さんの店なんだ。二年前に亡くなってな。詩織ちゃんが一人で継いだんだよ」
カウンターの中で、詩織さんがレコードを拭く手を止めた。
「……田所さん、その話はいいです」
「いいじゃねえか。なあ兄ちゃん、この子はな、親父さんがかけてた音、ぜんぶ覚えてるんだ。大したもんだよ」
詩織さんは何も言わず、ただ少し、耳を赤くしていた。寡黙な人の、その小さな表情の変化が、たまらなく可愛く見えた。
田所さんが帰ったあと、店には僕と詩織さんだけが残った。
「お父さんの店、なんですね」
「……はい。継ぐつもりなんて、なかったんですけどね」
針を落とす。静かなピアノの曲が流れた。
「でも、この音を止めたくなかった。それだけで、ここに立ってます」
その横顔を、僕はずっと見ていた。
一枚のレコード
梅雨の雨は、その週もずっと降り続いていた。
仕事で大きなミスをした夜があった。取引先に頭を下げ続けて、終電で帰る気力もなくて、気づけば足が「螺旋」に向いていた。
戸を開けると、詩織さんがこちらを見て、少しだけ目を細めた。
「……ひどい顔」
「わかります?」
「毎週見てれば、わかります」
毎週見てれば——その一言が、なぜか胸を打った。彼女は、ちゃんと僕を見ていてくれていた。
詩織さんは棚の奥から、一枚のレコードを抜き出した。ジャケットの端が少し擦れた、古いものだった。
「これ、父がいちばん落ち込んでる日にかけてた一枚です」
針を落とす。やわらかい歌声が、ゆっくりと部屋に広がった。
疲れた夜にちょうどいい、ぬるま湯みたいな音だった。気づいたら、肩から力が抜けていた。
「……なんでだろう。すごく、楽になった」
「音楽って、治すんじゃなくて、隣にいてくれるものだから」
カウンター越しに、詩織さんがふっと笑った。初めて見た、まっすぐな笑顔だった。
「詩織さんの笑った顔、初めて見た気がします」
「……っ」
詩織さんが、ぱっと顔をそむけた。耳がまた赤い。
「……レコード、貸します。今日は持って帰って、家で聴いてください」
「いいんですか、こんな大事なの」
「返しに来てくれる口実が、できるでしょう」
言ってから、自分の言葉に驚いたように、詩織さんは口を押さえた。
(——それって)
その夜、レコードを抱えて帰る僕の心臓は、ずっとうるさく鳴っていた。
閉店後の二人
翌週の火曜。僕はいつもより早く店に着いた。
レコードを返すと、詩織さんは少し迷ってから、こう言った。
「……今日、もう閉めます。久瀬さん、少し、残っていきますか」
「いいんですか」
「父が好きだった夜の聴き方、教えます」
詩織さんは表の灯りを消して、引き戸に鍵をかけた。店の中の、プレーヤーの上の小さなランプだけを残して。
薄暗い店内に、二人きり。雨が窓を叩く音だけがする。
「夜は、音量を半分にするんです。そうすると、部屋の隅まで音が回る」
針を落とす。ささやくような音量で、ジャズが流れ始めた。
カウンターの内側から出てきた詩織さんが、すぐ隣に腰を下ろした。距離が、急に近くなった。シャンプーの匂いと、レコードの古い紙の匂いがした。
「……詩織さんは、寂しくないんですか。毎晩、一人でここにいて」
しばらく、答えはなかった。曲が一曲、終わった。
「寂しかったです。久瀬さんが来るまでは」
雨の音が、急に大きく聴こえた。
「火曜が、待ち遠しくなってました。……変ですよね、こんなこと言って」
「変じゃないです。僕も同じだから」
詩織さんが、こちらを見上げた。揺れる瞳に、ランプの灯りが映っていた。
「詩織さん。最初に来た夜から、ずっと、あなたの横顔ばっかり見てた」
「……知ってました」
「えっ」
「レコード見てるふりして、ぜんぜん見てなかったの、バレてましたよ」
くすっと笑って、詩織さんが少しだけ、肩を寄せてきた。
針の落ちる音
どちらからともなかった。
僕が頬に手を添えると、詩織さんは目を閉じた。長い睫毛が震えていた。
そっと唇を重ねた。やわらかくて、少し冷たくて、すぐにあたたかくなった。
ちゅ、と離す。詩織さんが、まだ目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「……もう一回」
もう一度、今度は長く。詩織さんの手が、そっと僕のシャツの裾をつかんだ。
「ん……」
唇の隙間から、舌先がおずおずと触れてくる。寡黙な人の、思いがけず甘えるようなキスに、頭の芯が痺れた。
レコードが片面を終えて、針がぷつ、ぷつ、と無音の溝をなぞる音だけになった。
「……上に、部屋があるんです」
潤んだ目で、詩織さんが言った。
「父の店だった場所で、こういうの……いけないって、わかってるのに」
「無理は、しなくていい」
「違うんです。——あなたとなら、いいって、思ってます」
詩織さんが立ち上がって、僕の手を引いた。細い指が、きゅっと握ってくる。
店の奥の、急な階段を上がった先。レコードと本に囲まれた、小さな部屋。窓の外では、まだ雨が降っていた。
雨の夜の部屋
部屋の隅のプレーヤーに、詩織さんが一枚を載せた。
針を落とす。ささやくような歌声が、二人だけの部屋に満ちた。
「無音だと……恥ずかしいから」
そう言って、詩織さんが背を向けた。白いシャツのボタンに、自分で指をかける。
「僕がやる」
後ろから、ゆっくりとボタンを外していった。露わになった白い背中。肩甲骨のくぼみに、唇を落とす。
「……ん、っ」
シャツを肩から滑らせると、淡いグレーの下着に包まれた背中が現れた。ホックを外す。ぱちん、と小さな音。
ふるり、と——
正面を向かせると、思いがけず豊かな胸がこぼれた。白くて、やわらかそうで、先端がもう色づいて尖っている。
「……あんまり、見ないで」
胸を腕で隠そうとする詩織さんの手を、そっとどけた。
「きれいだ。すごく」
「っ……そういうこと、言わないで……」
両手で、そっと包んだ。
むにゅ、と指が沈む。
「……あ、っ」
声を噛み殺すように、詩織さんが唇を結んだ。寡黙な人が、必死に声をこらえている。その姿に、たまらなくなった。
ゆっくり揉みしだくと、手のひらの中で形が変わる。先端を指先でくにっと挟むと——
「ん、んっ……だめ、声、出ちゃう……」
「出していい。雨と、音楽で、誰にも聴こえないから」
片方の胸に口をつけた。ちゅ、と吸い上げ、舌先で転がす。
「あ……っ、ん、ぁっ……」
こらえきれなくなった声が、レコードの歌声に重なって、部屋に落ちた。
溶けていく
ベッドに、詩織さんをそっと横たえた。
スカートをめくり、下着越しに脚の間に触れる。もう、しっとりと熱を持っていた。
「……やだ、わかっちゃう……」
「我慢してたんだ」
「……ずっと、火曜の夜は、こうなってた」
その告白に、頭が灼けた。下着をそっと脱がせる。指先で、濡れたそこをなぞった。
くち、と小さな音。
「ぁっ……!」
ゆっくりと、敏感な突起を円を描くようにいじる。
「あっ……ん、っ……そこ、っ……」
詩織さんの腰が、揺れ始めた。シーツを握る指に力がこもる。
脚の間に顔を伏せて、舌先で舐め上げた。
れろ、と一筋。
「ひぁっ……だめ、っ、それ、だめ……っ」
だめと言いながら、太ももが僕の頭を挟んで、離さない。舌で突起を転がしながら、指をそっと沈めた。
ずぷ、と。
「あ、ぁっ……入って、る……っ」
中をゆっくりかき混ぜながら、舌を動かす。詩織さんの息が、どんどん浅くなっていく。
「久瀬さ……っ、わたし、もう……っ、おかしくなる……っ」
「いいよ。おかしくなって」
「ん、んっ——っ……!」
びくん、と腰が跳ねた。中が指を、きゅうっと締めつける。詩織さんの体が、弓なりにしなって、ゆっくり崩れた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
とろんとした瞳が、潤んで僕を見上げる。
「……次は、久瀬さんの番」
体を起こした詩織さんが、僕のベルトに手をかけた。寡黙な人の、思い切ったその仕草に、心臓が掴まれた。
レコードの回る部屋で
服を脱いだ僕を見て、詩織さんが小さく息を呑んだ。
細い指が、おずおずと触れてくる。先端にそっと唇を寄せ、舌先で舐め上げた。
「っ……」
「……変じゃない? わたし、慣れてなくて」
「最高だよ」
ぱくっ、と口に含む。たどたどしく、けれど一生懸命に、頭を動かす。黒髪が揺れて、時々上目遣いにこちらを見る。その視線だけで、限界が近づいた。
「詩織さん、もう……このままだと」
ちゅぽ、と口を離して、詩織さんが仰向けになった。雨の音と、レコードの歌声の中、潤んだ瞳で両手を広げる。
「……来て。ずっと、こうしたかった」
覆いかぶさる。先端をあてがうと、濡れたそこが、ぬるりと迎えた。
「入れるよ」
「……うん。ゆっくり」
ずぷ、と。
「あ……っ、ん……入って、くる……っ」
ゆっくりと奥へ進む。詩織さんの腕が、僕の背中に回って、ぎゅっとしがみついた。
「はぁ……っ、いっぱい……っ」
根元まで収めると、詩織さんが深く息を吐いた。中が、僕の形を確かめるように、きゅうきゅうと締まる。
「動くよ」
ずちゅ、ずちゅ、とゆっくり腰を動かし始める。
「あ……っ、ん、っ……久瀬さ……っ」
寡黙な人の、こらえきれない声が、レコードの歌声に重なる。揺れる胸を、片手でそっと包んだ。
「あっ……揺らさ、ないで……っ、恥ずかし……っ」
「詩織さんの声、ずっと聴いていたい」
「ば、か……っ」
そう言いながら、両脚が腰に絡みついて、もっと、とねだるように引き寄せる。
ずちゅ、ずちゅ、と少しずつ深く、速くしていく。
「あっ、あっ……奥、っ……そこ、っ……」
「ここ?」
「ん、んっ……そこ、すごいの……っ」
雨の音も、レコードの音も、もう遠かった。詩織さんの声と、肌の熱だけが、すべてだった。
「久瀬さ……っ、わたし、また……っ、イっちゃう……っ」
「一緒に、イこう」
「うん……っ、一緒、がいい……っ」
奥を、ぐっと突き上げる。
「あ、あっ——っ、イく……っ、イっちゃ……っ——!」
びくん、と詩織さんの体が跳ねて、中が、きゅうっと締めつけてきた。その締めつけに、僕も限界を超えた。
「出る——っ」
「来て……っ、全部、っ……!」
どく、どく、と奥へ放った。
「あぁ……っ、あったか……い……っ」
詩織さんが、ぎゅっとしがみついて、震え続けた。汗ばんだ肌と肌が、ぴたりと重なる。
レコードが片面を終えて、針が、ぷつ、ぷつ、と溝をなぞる音だけになった。
「……はぁ……っ、すごかった……」
繋がったまま、二人で息を整えた。心臓の音が、重なって聴こえた。
梅雨明けの朝
目を覚ますと、窓の外が、やけに明るかった。
長かった梅雨が、その朝、明けていた。レコードと本に囲まれた小さな部屋に、夏の光が差し込んでいる。
僕のシャツを羽織った詩織さんが、プレーヤーの前にしゃがんでいた。裾から覗く白い脚に、目が吸い寄せられる。
「……起きた?」
「うん。——おはよう」
「おはようございます」
針を落とす。明るい、きらきらした曲が流れ出した。
「晴れた日には、晴れた歌、なんだ」
「……よく覚えてましたね」
ふふっと笑って、詩織さんが隣に戻ってきた。僕の肩に、こてんと頭をあずける。
「久瀬さん。わたし、ずっと、この店で一人で音を回してれば、それでいいって思ってたんです」
「うん」
「でも、隣で一緒に聴いてくれる人がいるの、こんなにいいものだって、知らなかった」
顔を上げた詩織さんの瞳が、朝の光に透けていた。
「……これからも、火曜以外も、来てくれますか」
「火曜以外も、毎日でも。——というか」
詩織さんの頬に手を添えた。
「詩織さん。僕と、付き合ってください」
詩織さんの目が、ゆっくり見開かれて——そして、今まででいちばん、やわらかく笑った。
「……はい。よろしくお願いします、透さん」
初めて名前で呼ばれて、胸の奥が熱くなった。
その日の夜、店に顔を出した田所さんが、カウンターの中で笑い合う僕らを見て、ハンチング帽を持ち上げた。
「おう、なんだ。いい音、鳴ってるじゃねえか」
「……田所さん、それ、どういう意味ですか」
「店の話だよ。店のな」
にやりと笑って、田所さんは奥の椅子に腰を下ろした。
音楽を聴かなくなっていた僕は、雨の路地裏で、もう一度、音を取り戻した。
針を落とすと、隣に詩織さんがいる。
それだけで、擦り切れていた毎日が、まるで違う音で鳴り始めた。
世界でいちばん静かで、世界でいちばんあたたかい——僕だけの、一枚に。
END