7月の平日、夕方6時過ぎ。仕事帰りに商店街のアーケードが切れる場所で、いきなり空が割れました。
ゲリラ豪雨って、天気予報で「夕方から雨」って言われるのと全然違うんですよね。予告なしに殴りかかってくる感じ。数分前まで蒸し暑いだけだったのに、気づいたら視界が白くなるくらいの雨で、傘なんて意味をなさない量が降ってきました。
私は27歳、歯科医院の受付事務です。最寄り駅から商店街を抜けて徒歩12分、これが通勤ルート。折りたたみ傘は持ってたんですけど、横殴りの雨にはほぼ役に立たなくて、気づいたらストッキングまでびしょ濡れでした。(これもう替えのストッキング持ってないやつだ…)と思いながら、シャッターの下りたたばこ屋の軒下に駆け込みました。
スマホを見たら充電残り8%。天気予報アプリで雨雲レーダーを確認する余裕もなく、ただ突っ立って雨を眺めるだけの時間。彼氏いない歴3年、休日は録画消化と洗濯で終わる私の生活に、この後まさかの展開が待っているとは、このときは微塵も思っていませんでした。
そこにもう一人、駆け込んでくる人がいた。
作業着姿の男の人でした。長靴に、汚れた作業着、リュックを背負っていて、私と同じくらいずぶ濡れ。同じ軒下に飛び込んできたタイミングで、ちょうど近くに雷が落ちて、私は思わずびくっと跳ねて彼の腕にぶつかってしまいました。
「あ、すみません…」
とっさに謝ると、彼は何も言わずに半歩ずれてくれました。吹き込む雨が私に当たらない側に、無言でスペースを譲ってくれる感じ。(気を遣ってくれてる…?)と思いつつ、お互い何を話すでもなく、ただ雨を見ていました。軒下は狭くて、二人分の濡れた服から立つ湿った匂いと、たばこ屋のシャッターの錆びた匂いが混ざっていました。
しばらくして、彼がリュックを下ろし、中からビニール傘を一本出しました。折りたたみじゃない、普通の長い傘。
「これ使ってください。俺、事務所そこなんで」
顎で示した先を見ると、確かに数十メートル先に「宮田造園」って看板が見えました。作業着の胸にも同じ名前の刺繍。
「え、でも、そしたらあなたが濡れちゃいますよね」
「事務所すぐなんで平気です」
そう言われても悪くて、一度は断ろうとしたんですけど、
「じゃあ、返す約束で。宮田造園って看板出てるとこです」
そう言われて、結局私はその傘を受け取ることになりました。連絡先を交換するでもなく、名前を名乗り合うでもなく。ただ「傘を返す」という約束だけが、私たちの間に残りました。
家に帰ってから、借りた傘を玄関に立てて、三日間ただ眺めるだけの日々が始まりました。
正直に言うと、傘を返すだけの用事に、こんなに悩むとは思っていませんでした。
一日目、何を着ていくか問題。仕事帰りのスーツ姿で行くのはさすがに変じゃないか、かといって私服で気合入れてるみたいに見えるのも嫌だ、で結局何も決まらず終了。二日目、手土産問題。傘一本にお菓子まで持っていくのは重いのか、それとも手ぶらで行くのは失礼なのか、これも延々悩んで終了。三日目、そもそも問題。(向こうは私のこと覚えてるのかな…一瞬のことだったし…)と考えだしたら、行くこと自体が急に恥ずかしくなってきて、また何もしないまま一日が終わりました。
四日目の朝、さすがにこのままだと傘が我が家に永住してしまうと思い、仕事帰りに意を決して宮田造園の事務所へ向かいました。ガラガラっと引き戸を開けると、中にいたのは若い女性の事務員さんだけ。
「あの、先日雨宿りさせてもらったときに傘をお借りして…宮田さん、いらっしゃいますか」
事務員さんに聞くと、宮田は今ちょうど現場に出ていて、戻りは夕方になるとのことでした。
(本人いないのか…)内心ほっとしたような、拍子抜けしたような気持ちで、傘とコンビニで買った個包装のお菓子を事務員さんに預けて、逃げるように帰りました。
これで終わりのはずでした。
一週間後の夜、近所のコンビニのイートインコーナーで、缶チューハイを飲みながらスマホを見ていたら、目の前に見覚えのある人が座りました。
「あ、この間の傘の人ですよね」
作業着じゃなくて私服だったので一瞬わからなかったんですけど、間違いなくあの日の人でした。
「傘、ちゃんと戻ってました。菓子までもらっちゃって」
そう言ってぼそっと笑うのが、なんだかおかしくて。名乗るタイミングを逃したまま、なんとなく立ち話になりました。彼は缶ビール、私は麦茶。イートインの狭いカウンターで、微妙な距離で並んで飲みました。
「植木屋さんって夏大変そうですよね」
「朝4時起きなんで、正直きついです。蚊もすごいし、熱中症手当は出るんですけど、それでも倒れる人いるんで」
淡々と話す口調がおかしくて、思わず笑ってしまいました。(初対面の人とこんな普通に話せてる自分にびっくり)。宮田さんという苗字はこのとき初めてちゃんと確認しました。
「また降ったら、あの軒下いるかもしれないです」
別れ際、宮田さんがそうぼそっと言いました。冗談っぽい言い方だったのに、私はなぜか次の夕立の日、仕事帰りに遠回りしてまであの軒下を見に行ってしまいました。
(何やってるんだろう、私)
我ながらこの行動には引きました。でも軒下には誰もいなくて、拍子抜けした気持ちで家に帰った、その帰り道。
駅前の交差点で、宮田さんを見かけました。隣には、あの造園事務所の若い女性事務員さん。二人並んで歩いていて、宮田さんが彼女の頭にぽんと手を置くのが見えました。
(そりゃそうだよね。32歳でしょ、あれくらいの歳の彼女がいたって普通だよね)
勝手に納得して、勝手に落ち込みました。誰かと付き合う約束をしたわけでもないのに、この感情の落差はなんなんだと自分でも呆れました。
次にコンビニでばったり会ったとき、私は素っ気なく会釈だけして、そそくさとレジに向かいました。宮田さんが少し困ったような顔をしていたのを、視界の端で見た気がします。
それから二週間、雨は一度も降りませんでした。
8月に入って、お盆前のある平日。また同じくらいの時間帯に、空が急に真っ黒になりました。
(うそでしょ)と思いながら商店街を歩いていたら、案の定バケツをひっくり返したような雨。気づけば体が勝手に動いていて、あのたばこ屋の軒下に走り込んでいました。そこには、宮田さんがいました。
気まずい沈黙が数秒続いたあと、彼のほうから切り出してきました。
「俺、なんか避けられてます?」
直球すぎて、変にごまかす余裕もなく、私は正直に白状しました。
「この前、駅前で女性と歩いてるの見て…頭撫でてたし、その、彼女さんかと思って」
「え、あれ姪っ子です。兄貴の娘。うちでバイトさせてて」
(姪…!)
一瞬、何を言われたのか処理が追いつかず、ただ「え」しか出てきませんでした。恥ずかしさで顔が熱くなるのがわかりました。人の関係を勝手に想像して勝手に距離を取っていた自分が、急に子供っぽく思えました。
雨は止む気配がなく、宮田さんがスマホの雨雲レーダーを見せてきました。画面は真っ赤に染まっていました。
「うち、この裏なんで。タオルだけでも」
断る理由を探しましたが、見つかりませんでした。
築古のアパートの1Kでした。扇風機の風に、芝刈り機のガソリンみたいな匂いがうっすら混ざっていて、なんだか宮田さんの職業がそのまま部屋の匂いになっている感じがしました。
「これ着てください。大きいと思うけど」
大きめのTシャツと、タオルを渡してくれて、宮田さん自身はベランダのほうを向いて待っていてくれました。着替える間、こっちを見ないでいてくれる気遣いに、内心(律儀だな…)と思いながら濡れた服を脱ぎました。
Tシャツに着替えて座った私の後ろで、宮田さんが無言でタオルを取り、髪を拭き始めました。ゴシゴシじゃなくて、指の腹で水気を吸わせるみたいな、丁寧すぎる手つき。その手が途中でぴたっと止まって、二人とも動けなくなりました。
振り向いたら、思っていたより近い距離に宮田さんの顔があって、ちょうど雷が落ちた瞬間、どちらからともなく唇が重なりました。
(傘、返しに来ただけの関係だったのに)
頭の中でそう思ったのを覚えています。それなのに、体は離れませんでした。
借りたTシャツの上から、背中をゆっくり撫でられました。雨と汗と、宮田さんの日焼け止めの匂いが混ざって、変な感覚でした。彼氏いない歴3年、というか、こういう手順自体をほとんど忘れていた私は、正直言うと自分の手をどこに置けばいいのかわかりませんでした。
「緊張してます?」
「してますね、めちゃくちゃ」
素直に答えたら、宮田さんが小さく笑って、そのぶん動きがゆっくりになった気がしました。鎖骨のあたりにキスされて、それから胸に手が伸びてくる。触れる前に、いちいち目でこっちを確認してくるのが、なんというか、律儀すぎて逆に落ち着かなかったです。
Tシャツをまくられてブラが見えたとき、(今日、ワイヤー歪んでるやつだ…)と内心すごい勢いで焦りました。Bカップで盛れる系でもないし、勝負下着でもない、ただの普段着ブラ。でも宮田さんは特に何も言わず、外して、いつも通り確認するみたいに私の顔を見て、それから胸に触れてきました。
指でゆっくりほぐされて、声を出すまいとしても勝手に漏れてしまう。宮田さんの手は大きくて、指のささくれと爪の間の土が、なんとなく職業を思い出させました。
そのまま下に降りていこうとする気配があって、私は反射的に止めました。
「ちょっと待って、シャワー浴びてないから」
「雨で濡れたから一緒でしょ」
意味がわかるようなわからないような理屈で押し切られて、抵抗する隙もなく脚の間に顔を埋められました。舌先で割れ目をなぞられて、そのまま芯のあたりを集中的に舐められると、腰が勝手にびくっと浮きました。声を殺そうとしたんですけど、殺しきれなくて、外の雨音に紛れてくれることだけを願っていました。
ゴムを探すあいだ、宮田さんが裸のまま部屋の中をうろうろする時間がありました。工具箱が置いてある棚の横から、ようやく箱を見つけて戻ってきたときには、正直ちょっと笑ってしまいました。
「意外とてこずるんですね」
「工具のとこに紛れてて、すみません」
そんな間抜けなやり取りのあと、正常位でゆっくり挿入が始まりました。先端をあてがわれて、じわじわと押し広げられていく感覚に、3年ぶりの体はすっかり強張っていて、途中で宮田さんが動きを止めて待ってくれる場面が何度かありました。
「痛かったら言ってください」
「大丈夫、たぶん、久しぶりすぎるだけ」
馴染んできたところで、体勢を後ろから、に変えた直後でした。
「あ、ちょ、ごめん、足つった」
ふくらはぎが盛大につって、私は情けない声を上げてしまいました。
「ごめん、足つった。ほんとごめん、いま一番いいとこで」
我ながら最悪のタイミングでした。宮田さんは慌てるでもなく、真顔で私のふくらはぎを持って、職人みたいな手つきでぐっと伸ばしてくれました。仕事柄なのか、ツボを心得てる感じの伸ばし方で、痛みがすっと引いていくのがわかりました。
「これ、日常的にやってるんですか」
「現場でよくあるんで、慣れてます」
真顔でそう言われて、二人でつい笑ってしまいました。空気が一気に軽くなった気がします。
落ち着いてから、また正常位に戻って再開しました。行為の途中、ふと(この人のこと、まだ苗字しか知らないんだよな)と場違いなことを考えている自分がいて、それでも体は素直に反応していました。奥を突かれるたびに息が乱れて、宮田さんの動きが速くなったところで「そろそろ」とだけ言われて、密着したまま二人でほぼ同時に達しました。中でびくっと脈打つ感覚がして、そのあとしばらく、どちらも動けませんでした。
雨は、その頃にはもう小降りになっていました。
雨上がりの夕方、部屋の中は蒸し暑くて、シーツには汗で二人分の跡がくっきり残っていました。私の服はまだ生乾きで、宮田さんの部屋には浴室乾燥なんてものはなく、結局彼が私のスカートをドライヤーで乾かしてくれることになりました。
「すみません、こんなことまで」
「別にいいですよ、暇なんで」
ドライヤーの音の合間に交わす会話は少なくて、交互にシャワーを浴びる待ち時間の気まずさは、正直かなりのものでした。先にシャワーを借りた私が出てくると、宮田さんが黙って麦茶を出してくれて、二人で無言のまま二杯飲みました。何を話していいかわからない沈黙も、嫌じゃなかったのが自分でも意外でした。
シャワーを終えた宮田さんが戻ってきて、ドライヤーの音がまだ部屋に響いているタイミングで、目が合いました。
一度目の緊張はもうどこかに消えていて、気づいたら私のほうから宮田さんのTシャツの裾を引っ張っていました。
「え、いいんですか」
「聞いてるのこっちなんですけど」
そんな噛み合わないやり取りのあと、二度目は最初ほど強張らずに済みました。体位がどうとか、そういう細かいことよりも、ただお互いの距離がさっきよりずっと近くなっていることのほうが印象に残っています。終わったあと、宮田さんが天井を見ながらぼそっと言いました。
「次は雨じゃなくても来てほしいんだけど」
その言い方が変にストレートで、思わず聞こえてるくせに聞き返してしまいました。
「雨の音で聞こえなかった。……もっかい言って」
帰り際、玄関で靴を履いていたら、宮田さんが新しいビニール傘を差し出してきました。
「晴れてるけど。……返しに来る約束、しません?」
外はもうすっかり晴れていて、傘なんて要らない空でした。それでも私は、その傘を受け取りました。
うちの玄関には、まだ返してない傘が一本、立ったままです。