新幹線を降りて、在来線に乗り換えて、終点から一日に三本しかないバスに揺られて。気づけば、私はスマホの地図にも、ほとんど何も表示されない山の中にいた。
私、三浦結衣(みうら ゆい)、三十歳。都内のビジネスホテルで、フロントの仕事をしている。チェックインの手続きをして、道を聞かれれば笑顔で案内して、クレームには頭を下げる。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を、たぶん、一日に何百回も言ってきた。
三浦結衣(……なんで、私、ここにいるんだろう)
仕事は、嫌いじゃない。人を気づかうのは、得意なほうだと思う。でも半年くらい前から、自分の笑顔が、貼りつけた紙みたいに感じるようになっていた。お客様の機嫌をとって、同僚の穴を埋めて、上司の小言を受け流して。誰かを温める言葉ばかり口にしているのに、家に帰ると、体の芯が、いつも、しんと冷えていた。
先週、深夜のチェックインで、酔ったお客様に長いこと絡まれた。理不尽な言いがかりに、私は、いつものように笑顔で謝った。謝りながら、ふと、思った。——私、最後に誰かに「お疲れさま」って言ってもらったの、いつだっけ。
衝動だった。有給を三日くっつけて、行き先も決めずに新幹線に乗って、乗り換えて、いちばん山奥へ向かうバスに乗った。観光ガイドの隅に、小さく載っていた名前。「奥会津・湯坂温泉、一軒宿」。それだけを頼りに、私は、誰も私を知らない場所へ、ただ逃げたかった。
三浦結衣「……ここで、合ってるのかな」
バスの終点で降りると、雨の匂いがした。梅雨の、湿った青葉の匂い。沢の音が、どこかで、ずっと鳴っていた。
*
杉木立の細い坂道を、十五分ほど下ったところに、その宿はあった。
黒く煤けた板壁の、古い木造の二階建て。屋根の上から、白い湯気が、何本も立ちのぼっている。軒先には「湯坂の湯」と墨で書かれた、色あせた木の看板。建物の脇を、雨で水かさの増した沢が、ごうごうと流れていた。
ほかには、何もない。コンビニも、自販機も、ほかの宿も。スマホの電波は、一本だけ、心細く立っている。
三浦結衣(……すごいところに、来ちゃったな)
予約なんて、もちろんしていない。私は半ば呆れながら、その宿の引き戸を、からからと開けた。
土間は、ひんやりと薄暗くて、奥のほうから、ほのかに硫黄の匂いがした。返事の代わりに、どこか裏のほうで、木の桶に湯を汲むような、とぷん、という音がした。それから、ゆっくりとした足音。
高瀬湊「……お一人?」
低い声だった。急いでいない、底の落ち着いた声。出てきたのは、首に手ぬぐいをかけ、作業用の前掛けをした男の人だった。袖をまくった腕が、湯気でうっすら濡れている。背が高くて、目元が静かで、こちらをじっと見るでもなく、ふっと一度だけ目を合わせて、すぐに手元の帳場に視線を落とした。
三浦結衣「はい。一人です。……予約、してないんですけど。今夜、泊めていただけますか」
高瀬湊「空いてます。……ただ、ここ、何もないですよ。テレビも、電波も、ろくに入らない」
何もない、と言うとき、その人は少しだけ、申し訳なさそうに眉を下げた。脅すでも、突き放すでもなく、本当にただの事実として。私は、なぜか、その言い方に、ほっとした。「おもてなし」の匂いが、まるでしなかったからだ。
高瀬湊「高瀬です。高瀬湊(たかせ みなと)。……祖父の宿と湯を、継いだだけの人間なんで。愛想は、期待しないでください」
奥から、小柄なおばあさんが、湯呑みを盆にのせて出てきた。
富久さん「あらまあ、こんな雨の日に、よく来たねえ。びしょ濡れじゃないの。……湊、お客さんに、まずお茶でしょうが。気が利かないねえ、この子は」
高瀬湊「……今、出そうとしてた」
おばあさんは富久(ふく)さんといって、湊さんの祖母にあたるらしい。私は、勧められるまま、上がり框に腰を下ろして、温かいお茶を、両手で包んだ。三日ぶりに、誰かが私のために淹れてくれたお茶だった。それだけのことで、鼻の奥が、つんとした。
*
通された部屋は、沢に面した、古い六畳間だった。
窓を開けると、雨に煙る山と、水かさの増した沢が、目の前いっぱいに広がっていた。冷たく湿った風が、頬を撫でる。それなのに、部屋の奥からは、床下を通る引き湯のせいか、ほのかに温もりが伝わってくる。冷たさと温かさが、同じ場所に同居している、不思議な部屋だった。
夕食は、囲炉裏のある板の間で出された。湊さんが、ひとりで運んでくる。岩魚の塩焼き、山菜の煮びたし、きのこの汁物、自家製だという味噌。どれも、飾り気はないのに、しみじみと体に沁みた。
三浦結衣「……おいしい。この岩魚」
高瀬湊「裏の沢で、今朝釣ったやつ。雨で、よく肥えてる」
三浦結衣「お料理も、お風呂も、全部おひとりで?」
高瀬湊「源泉の世話も、掃除も、布団も。たまに祖母が、手伝ってくれるけど。……基本は、一人です」
ぽつり、ぽつりとしか喋らない人だった。でも、無愛想なんじゃない。言葉を、選んでいるんだと思った。私が箸を進めるのを、無理にもてなそうとせず、ただ静かに、囲炉裏の炭を直していた。火の粉が、ぱちっと爆ぜる。その横顔を、私は、いつのまにか、目で追っていた。
三浦結衣「あの……さっき、源泉の世話って」
高瀬湊「ああ。うちの湯、山の上の源泉から、木の樋(とい)で引いてるんです。ほっとくと、湯の花が詰まったり、雨で温度が下がったりする。だから、毎朝、上まで登って、湯守を、する」
三浦結衣「湯守……」
高瀬湊「湯を、守る、で湯守。祖父が、そう呼ばれてた。……ただ、お客さんが浸かる湯を、いつもいい湯のままにしておく。それだけの、地味な仕事です」
お客さんが浸かる湯を、いつもいい湯のままにしておく。その言葉が、なぜか、胸の奥に、小さく刺さった。誰のためか、毎日、見えないところで、何かを温め続けている。それは、少しだけ、私の仕事に、似ている気がした。——いや、私のほうは、もう、温め続けられているのか、わからなくなっていたけれど。
*
その夜、私は、宿の風呂に、一人で浸かった。
総檜の、古い湯舟だった。窓の外は、真っ暗な山と、沢の音だけ。少し熱めの湯が、肌に触れた瞬間、体の芯が、じんと、ほどけていくのがわかった。半年間、ずっと冷えて固まっていた肩が、湯の中で、ゆっくり溶けていく。
三浦結衣(……あったかい)
涙が出そうになって、自分でも、驚いた。お湯に浸かって泣きそうになるなんて。私は、ずっと、誰かを温める湯を沸かす側で、自分が、こんなふうに、誰かの沸かした湯に、ただ浸かることを、いつのまにか、忘れていた。
その夜は、沢の音で、何度も浅く目が覚めた。都会の、エアコンと車の音に慣れた体には、静かすぎる夜だった。
明け方、薄い光で目が覚めて、窓から外を見ると、まだ雨の残る山の斜面を、一つの人影が、ゆっくり登っていくのが見えた。湊さんだった。背中に道具を負って、湯気の立つ斜面を、一歩ずつ。誰も見ていない、夜明け前の時間に。
私は、なんとなく、身支度をして、外に出た。
*
沢沿いの細い道を、湯気を辿って登っていくと、斜面の途中で、湊さんが振り返った。
高瀬湊「……起きたんですか。早いね」
三浦結衣「沢の音で。……あの、ついて行っても、いいですか。源泉、見てみたくて」
湊さんは、少し迷うように、私の足元の、宿のサンダルを見た。それから、無言で、軒下に干してあった長靴を一足、私のほうへ、とんと置いた。
高瀬湊「……それ、履いて。道、ぬかるんでるから」
斜面を、さらに登る。木の樋が、山肌に沿って、ずっと続いている。その樋の中を、白く濁った湯が、こぽこぽと音を立てて流れていた。たどり着いた源泉は、岩のあいだから、もうもうと湯気を上げる、小さな湯だまりだった。そのそばに、古い木の小屋が一つ。湯守小屋、と湊さんは呼んだ。
湊さんは、樋の継ぎ目にしゃがんで、詰まった湯の花を、木のへらで、丁寧にすくい取っていく。指が、湯の温度を確かめるみたいに、ゆっくり動く。熱いはずなのに、迷いがない。
きれいな手だ、と思った。きれいというより、信用できる手だ、と。
三浦結衣「……毎朝、これを?」
高瀬湊「ええ。雨の日は、特に。土砂で樋が埋まると、宿まで、湯が届かなくなるから。……お客さんが朝風呂に入る前に、ぜんぶ、いい湯にしておかないと」
三浦結衣「大変、ですね。……誰も、見てないのに」
高瀬湊「湯は、人が見るためのものじゃないから。浸かったとき、ああ、いい湯だ、って思ってもらえれば、それでいい。……誰が、どうやって守ってるかなんて、お客さんは、知らなくていいんです」
さらりと言って、湊さんは、すくった湯の花を、岩の上に置いた。私は、何も返せなかった。誰かに気持ちよく過ごしてもらうために、見えないところで頭を下げて、笑顔を貼りつけて、それでも誰にも気づかれない私の仕事を、この人は、たった一言で、肯定してくれた気がした。
*
その日は、結局、雨が、いっこうにやまなかった。
午前のバスは、土砂崩れの危険があるとかで、運休になった。私は、図らずも、もう一泊することになった。困ったふりをしながら、心のどこかで、ほっとしている自分がいた。
富久さん「お嬢さん、雨やむまで、暇でしょう。……湊の湯守、手伝ってみたら? あの子、口は重いけど、教えるのは、丁寧よ」
富久さんが、奥から、にこにこしながら、そう言った。湊さんは、味噌汁の鍋を覗いたまま、ぼそっと呟いた。
高瀬湊「……俺、頼んでないけど」
富久さん「いいじゃないの。どうせ今日、ほかにお客さん、来やしないんだから」
湊さんが、軽く息を吐いて、それから、私のほうを見た。今度は、ちゃんと、目が合った。
高瀬湊「……やります? 汚れるし、熱いですよ」
断る理由が、なかった。というより、なぜか、この人の手元を、もっと近くで見ていたかった。私は、こくりと頷いた。
*
午後、雨脚が少しゆるんだ隙に、私たちは、また源泉まで登った。
湯守小屋の中は、薄暗くて、土間の真ん中に、源泉から引いた湯が、木の桶に溜まっていた。竹のひしゃくと、木のへらと、湯の花をすくう網。古い道具が、整然と並んでいる。湊さんが、私の隣にしゃがんで、ひしゃくの持ち方を、教えてくれた。
高瀬湊「樋の継ぎ目に、湯の花が溜まる。これを、こう、すくう。……力、入れすぎると、樋が傷む。撫でるみたいに」
私が、おそるおそる、網を湯に入れて、手元を狂わせると、湊さんの手が、すっと伸びてきた。
高瀬湊「そう、急がない。湯は、逃げないから」
私の手の上から、彼の手が、軽く添えられた。湯の温もりが移ったみたいに、温かい手だった。一秒もなかった。網が、すっと、湯の花を捉える。すぐに、彼の手は離れた。その距離の取り方が、妙に、私の心臓に残った。
三浦結衣「……あ。取れた」
高瀬湊「でしょう。慌てると、かえって、濁る。……ゆっくりやると、湯のほうが、応えてくれる」
湯のほうが、応えてくれる。私は、その言葉を、口の中で、もう一度繰り返した。私は、たぶん、何にでも、急ぎすぎる人間だった。お客様を待たせないように、同僚に迷惑をかけないように、いつも、半歩先に、笑顔を用意して。
三浦結衣「湊さんは、ずっと、ここで?」
高瀬湊「いや。前は、東京で。……ホテルの、調理場にいました」
三浦結衣「えっ、そうなんですか」
高瀬湊「大きいホテルの、宴会の厨房。何百人分の料理を、流れ作業で。……うまく回せば回すほど、なんか、自分が、誰のために作ってるのか、わからなくなって」
ぽつり、ぽつりと、彼は喋った。三年前、祖父が倒れて、この湯が、止まりかけたこと。誰も継ぐ者がなくて、湯坂の湯が、なくなりかけたこと。気づいたら、仕事を辞めて、ここに戻っていたこと。祖父は、その冬に亡くなって、今は、この湯を、たった一人で守っていること。
高瀬湊「儲かりはしないし。客も、ほとんど来ない。……でも、この湯が、なくなるのは、なんか、嫌で」
誰に頼まれたわけでもなく、儲かるわけでもない湯を、黙って守っている。その横顔を、私は、いつのまにか、また目で追っていた。同じだ、と思った。私も、この人も、誰かのために、見えないところで、何かを温め続けている。違うのは——この人は、それを、ちゃんと、好きでやっている、ということだった。
*
夕方、湯守小屋を出る頃には、雨が、また、本降りになっていた。
慌てて宿へ降りようとした私の足が、ぬかるみで、つるりと滑った。あっ、と思った瞬間、湊さんの腕が、さっと伸びて、私の肩を支えた。
高瀬湊「……危ない。ほら」
三浦結衣「す、すみません……っ」
支えられたまま、顔が、近くにあった。雨に濡れた彼の前髪から、しずくが、ぽたりと落ちる。私を見る目が、いつもの静かな目と、少し違って見えた。慌てて体を離したけれど、肩に残った手の感触が、いつまでも、消えなかった。
その夜の夕食のあと、私は、縁側で、富久さんと並んで、雨を眺めていた。
富久さん「お嬢さん、東京で、何してるの」
三浦結衣「ホテルの、フロントです。……お客様を、お迎えする仕事」
富久さん「まあ。じゃあ、湊と、おんなじだ。人を、もてなす仕事」
三浦結衣「……はい。でも、それだけ、なんです。私、ずっと、人に笑顔を向けてばっかりで。……気づいたら、自分の中が、からっぽで、冷えきってて」
ぽろっと、こぼれた。会ったばかりの人に、東京では同僚にも言えなかった本音を。言ってから、自分でも、力なく笑ってしまった。富久さんは、しばらく、雨を見ていた。それから、ぽつりと言った。
富久さん「……湯ってね。沸かすほうは、案外、冷えるのよ」
三浦結衣「え?」
富久さん「人を温める湯を、守ってる人ほど、自分は、火のそばで煤けて、湯の外で、寒い思いをしてる。……うちの、じいさんも、そうだった。湊も、たぶん、そう。あんたも、そうなんじゃないの」
息が、止まった。私は、自分の手を、そっと、もう片方の手で包んだ。誰かを温めることに慣れすぎて、自分が冷えていることにすら、気づかなくなっていた。富久さんは、にっこり笑って、私の背中を、ぽん、と叩いた。
富久さん「たまには、湯に、浸かりなさい。あんたも。……今夜、湊に、上の湯、入れてもらいなさいな。源泉のすぐそばの、いちばんいい湯。あの子しか、入れられないんだから」
*
雨は、夜になっても、やまなかった。
それどころか、沢の水音が、さっきよりずっと大きくなって、富久さんが「これは、しばらく、降りるに降りられないねえ」と眉をひそめた。湊さんが、雨具を着て、源泉の樋の様子を見に行くという。私は、迷わず「私も行きます」と言っていた。
懐中電灯の明かりだけを頼りに、雨の斜面を、二人で登る。視界がきかないぶん、すぐ前を行く彼の気配が、濃い。湯守小屋に着く頃には、二人とも、雨具の中まで、すっかり濡れていた。
高瀬湊「……これは、無理だ。沢が増えてる。今、降りるのは、危ない」
三浦結衣「じゃあ……」
高瀬湊「雨が、小止みになるまで。……この小屋で、待ちましょう。すみません、こんなことに」
湯守小屋の土間で、湊さんが、火を熾した。古い薪ストーブが、ぱちぱちと音を立てて、小屋の中を、じんわり温めていく。源泉から引いた湯が、土間の桶で、白い湯気を上げている。雨の音と、薪の爆ぜる音と、湯気。世界が、この小屋の中だけになったみたいだった。
三浦結衣「……あったかい」
濡れた肩を抱えて、私が呟くと、湊さんが、桶の湯を、手ぬぐいに含ませて、しぼった。
高瀬湊「……冷えてる。これで、首、温めて。風邪、ひく」
差し出された、湯気の立つ手ぬぐいを、私は、受け取った。温かい。彼の手が、温めてくれた湯だった。首にあてると、冷えきっていた体の芯まで、その温もりが、すうっと届いた。
三浦結衣「……湊さん」
高瀬湊「ん」
三浦結衣「私、ずっと、人を温める湯を、沸かす側だと思ってた。フロントで、お客様に笑顔を向けて。……でも、私、ほんとは、ずっと、誰かに、こうして、温めてほしかったのかもしれない」
言葉が、つかえた。湊さんが、手ぬぐいを直す私の手を、じっと見ていた。急かさない、静かな目で。
高瀬湊「……温めるのが、上手い人ほど、自分が冷えてるの、気づきにくい」
三浦結衣「……それ、富久さんも、言ってました」
高瀬湊「祖母の、受け売りです。……でも、本当だと思う」
彼は、薪をくべ直して、それから、ぽつりと、言った。
高瀬湊「あなた、昨日、湯から上がったとき、目、赤かった。……湯に浸かって、泣きそうになる人、たまにいる。たいてい、ずっと、自分のこと、後回しにしてきた人だ」
息が、止まった。気づかれていたなんて、思わなかった。私は、手ぬぐいを握りしめたまま、しばらく、何も言えなかった。誰にも見られていないと思っていた、あの夜の私の涙を、この人は、ちゃんと、見ていた。
*
薪ストーブの火が、私たちの影を、小屋の壁に、ゆらゆらと揺らしていた。
三浦結衣「……湊さん」
高瀬湊「ん」
三浦結衣「今夜だけ。……私のこと、温めてくれませんか。お客さんとしてじゃ、なくて」
言ってしまってから、頬が、かっと熱くなった。雨の音が、急に、大きく聞こえた。湊さんが、ゆっくり、私の頬に、手を添えた。湯の温もりの残る、温かい手だった。
高瀬湊「……冷えた肩、ずっと、ほっとけなかった。あなたが、来たときから」
顔が、近づいてくる。急がない人だ、と思った。その、急がなさに、かえって、体の奥が、疼いた。
唇が、重なった。
ちゅ……。
三浦結衣「ん……っ」
湯気みたいに、柔らかいキスだった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。彼の唇が、私の唇を、確かめるように食む。
ちゅ……ちゅぷ……
三浦結衣「は……ん……っ」
唇の隙間から、舌が、おずおずと触れあう。私は、自分から、彼の前掛けを、きゅっと握っていた。離れたくなくて。
高瀬湊「……奥に、布団、ある。湯守が、泊まり込むときの。……いい?」
三浦結衣「……うん」
*
小屋の奥の小上がりは、薪と、湯守の道具と、古い湯の温度を書きつけた帳面が積まれた、彼らしい場所だった。窓の外は、まだ、激しい雨。湊さんが、私を、布団の上にそっと座らせる。隣に座った彼の肩から、温度が伝わってくる。
高瀬湊「……緊張、してる?」
三浦結衣「してる。……でも、嫌じゃない。むしろ、こうしたかったの。たぶん、源泉で、手を添えられた、あのときから」
自分で言って、驚いた。でも、本当だった。湊さんが、少し目を見開いて、それから、優しく笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
三浦結衣「ん……ふ……っ」
キスをしながら、彼の手が、私の浴衣の帯を、ゆっくりほどいていく。湯の花をすくうのと同じ、迷いのない、でも乱暴じゃない手つき。急かされないのに、いや、急かされないからこそ、肌が、勝手に熱くなる。
高瀬湊「……きれいだ」
三浦結衣「やだ……見ないで。火、明るい……」
高瀬湊「雨で、外、真っ暗だから。……ここだけ、温かい」
恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
三浦結衣「ん……っ」
鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震えた。さっき手ぬぐいで温めた首筋に、彼の唇が、そっと触れる。
高瀬湊「……ここ、さっき、冷えてた」
三浦結衣「……っ、覚えてるの……?」
高瀬湊「ずっと、温めたかったから」
浴衣を肩から落とされて、ブラのホックが外される。胸が、彼の前にこぼれ出た。湊さんの大きな手が、それを、そっと包む。
三浦結衣「あ……っ」
高瀬湊「……温かい」
三浦結衣「もう……いちいち、言わないで……っ」
湯の温度を確かめるみたいに、ゆっくりと、形を確かめるように揉まれて、私は枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと尖りはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。
三浦結衣「ひゃ……っ、そこ……っ」
高瀬湊「ここ、弱い?」
三浦結衣「……っ、意地悪……言わないでよぉ……っ」
口では強がるのに、湊さんが、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
三浦結衣「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。誰にも見られない湯を黙って守るこの人の手と唇が、今は、私のことだけを、丁寧に温めてくれている。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
三浦結衣「ん……っ♡」
高瀬湊「力、抜いて。……湯と、同じ。逃げないから」
その声に、自然と、体の力が抜けた。いつも半歩先に身構えていた私の体から、初めて、誰かに預けるみたいに、力が抜けていく。湊さんの指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。
三浦結衣「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が、小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、彼の指が、直接、そこに触れた。
くちゅ、と。
三浦結衣「ひゃ……っ♡」
高瀬湊「……もう、こんなに」
三浦結衣「言わないで……っ♡ 手ぬぐい、もらった、とき、から……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、湊さんの指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
三浦結衣「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
高瀬湊「うん。……わかった」
指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
三浦結衣「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、いちばん感じる場所を、探り当てるように撫でる。
高瀬湊「……ここ?」
三浦結衣「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 探すの、上手すぎ……っ♡」
弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
三浦結衣「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
高瀬湊「いいよ。……イって」
三浦結衣「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。
三浦結衣「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。湯気みたいに。湊さんの腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。
高瀬湊「……イったね」
三浦結衣「……っ、言わないで、ってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、湊さんが、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。
*
三浦結衣「……ねえ、湊さん」
高瀬湊「ん」
三浦結衣「私ばっかり、ずるい。……湊さんのも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人になら、言えた。湊さんが、ごくりと喉を鳴らす。私は、ゆっくり体を起こして、彼の作務衣の合わせに手をかけた。脱がせると、引き締まった、しなやかな体が現れる。毎朝、山を登って湯を守ってきた人の体だ、と思った。
湊さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
高瀬湊「……いい?」
三浦結衣「うん……っ。来て」
高瀬湊「……つけるから、待って」
三浦結衣「……うん」
避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。嵐の夜の小屋に、突然飛び込んできた私を、それでも、ちゃんと大事にしてくれる。その律儀さも、誰も見ていない湯を黙って守る手と、同じだ、と思った。準備を終えて、湊さんが、もう一度、私の頬に手を添えた。
高瀬湊「……いくよ」
三浦結衣「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
三浦結衣「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。
ずず……っ
三浦結衣「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
高瀬湊「……っ、すごく、熱い。……あなたの中」
根元まで収まって、湊さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっと冷えていた私の体の芯が、源泉の湯みたいに、じんわり、温まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
三浦結衣「……あったかい。……湊さんで、私の中、ぜんぶ、温まってく……っ♡」
高瀬湊「ああ。……もう、冷やさないから。動くよ」
湊さんが、ゆっくり、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
三浦結衣「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。湯のしずくみたいに。
高瀬湊「……気持ちいい?」
三浦結衣「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
高瀬湊「俺も。……あなたが、湯から上がって、泣きそうな顔してたときから、ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、いつも自分を後回しにしてきた私は、すっかり、忘れていた。だんだん、律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
三浦結衣「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
高瀬湊「ここ、好き?」
三浦結衣「っ♡♡ 好き……っ♡ 湊さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが、体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちもだった。湊さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
三浦結衣「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
高瀬湊「……っ、すごい、締まってる」
三浦結衣「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
嵐の夜の、激しい雨音と、薪の爆ぜる音と、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、小屋に満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっと冷えきっていた胸の芯が、彼でいっぱいに、温められていく。
高瀬湊「……結衣さん、そろそろ……っ」
三浦結衣「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
湊さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
三浦結衣「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 一緒に……っ♡♡」
高瀬湊「ああ……っ、結衣……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
三浦結衣「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。湊さんが、私の上で、はぁ、と大きく、息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
三浦結衣「……はぁ……っ♡ すごかった……」
高瀬湊「……結衣さん」
三浦結衣「ん……?」
高瀬湊「呼び捨て、しちゃった。さっき。……ごめん」
三浦結衣「……ふふ。いいよ。むしろ、嬉しかった」
雨の音の中で、私たちは、しばらく、そうして抱き合っていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。薪ストーブの火が、私たちの体を、外から。彼の体温が、私の中を、内から。生まれて初めて、私は、自分が、芯まで、ちゃんと温まっているのを感じた。
*
朝、目が覚めると、小屋の窓の外の雨が、嘘みたいに、上がっていた。
雲の切れ間から、朝日が差して、湯気の立つ源泉を、きらきらと照らしている。沢の水音は、まだ大きかったけれど、空は、洗ったように青かった。私は、湊さんの腕に頭を預けて、その景色を、ぼんやり眺めていた。
三浦結衣「……ねえ、湊さん」
高瀬湊「ん」
三浦結衣「私、今日、帰るね。東京に」
高瀬湊「……うん」
三浦結衣「帰ったら、私、また、フロントで、お客様に、笑顔を向ける人に、戻ると思う。それは、変わらない。……でも」
私は、体を起こして、土間の桶で、まだ静かに湯気を上げている、源泉の湯を見た。
三浦結衣「これからは、知ってる。……人を温める湯は、誰かが、見えないところで、ちゃんと守ってる、って。私の笑顔も、たぶん、誰かを、温めてた。……それと、私自身も、ちゃんと、誰かに温めてもらって、いいんだって」
湊さんが、しばらく黙って、それから、ゆっくり身を起こした。竹のひしゃくで、源泉の湯を汲んで、木の桶に入れ、手ぬぐいを浸して、しぼる。湯気の立つそれを、私の首に、そっとあててくれた。
高瀬湊「……東京、帰っても。冷えたら、思い出して。ここに、いつでも、温かい湯が、湧いてるって」
息が、止まった。私は、その温かい手ぬぐいを、両手で、ぎゅっと押さえた。ぽろぽろと、涙がこぼれて、笑いながら、頷いた。
三浦結衣「……うん。また、来る。絶対、来る。……湊さんの、守ってる湯に」
*
小屋を下りて、宿に戻ると、富久さんが、玄関で、私たちの顔を見比べて、目を細めた。
富久さん「あらあら。お嬢さん、お帰り? ……ずいぶん、いいお顔して。昨日の、冷えた顔と、大違いだ」
高瀬湊「……婆ちゃん。余計なこと、言わないで」
富久さん「だってねぇ。湊が、源泉の上の湯守小屋に、お客さんを泊めるなんて、初めてよ。あそこは、この子の、いちばん大事な場所なんだから。よっぽど、ねえ。……お嬢さん。この子、口は重いけど、根は、うちの湯みたいに、あったかいから。また、おいで。冷えたら、いつでも」
三浦結衣「……はい。必ず」
湊さんが、決まり悪そうに、源泉のほうを向いた。その耳が、少し赤かった。私は、おかしくて、それから、胸がいっぱいになって、笑った。
バスの時間が来て、湊さんが、停留所まで送ってくれた。一日に三本しかない、山あいのバス。
高瀬湊「……次、いつ」
三浦結衣「来月。連休、もらえたら。……雨の日が、いいな。湯守の手伝い、もう、できるし」
高瀬湊「雨の日は、危ないって、言ったでしょう」
三浦結衣「ふふ。じゃあ、晴れでも、来る。晴れでも、雨でも。……決めたから」
湊さんが、ふっと笑って、湯の匂いのする手で、私の頭を、くしゃっと撫でた。
バスが、山あいを離れていく。窓から振り返ると、湯気を上げる山と、その斜面を守る小さな宿と、停留所に立つ湊さんが、だんだん、小さくなっていった。
三浦結衣(……見つけたんだ。私)
「いらっしゃいませ」を、何千回と、言ってきた。誰かを迎えて、誰かを温めて。でも、私がほんとうに欲しかったのは、たぶん、ずっと、こういうものだった。冷えた私を、見えないところで、黙って温めてくれる手。その手が、私の首に、湯気の立つ手ぬぐいをあててくれた感触。それを思い出すと、もう、胸の芯まで、ちゃんと、温かかった。
首に巻いた手ぬぐいに、私は、そっと頬を寄せた。次にここへ来るのは、雨でも、晴れでも、きっと、いい旅になる。冷えたら、いつでも、ここに、温かい湯が湧いている。私には、もう、それがわかっていた。
― 終 ―