引っ越してきた夜、いちばん最初に気づいたのは、金木犀の匂いだった。
私、早瀬詩織(はやせ しおり)、二十七歳。出版社で、書籍の校閲をしている。誤字を拾い、事実を確かめ、他人の文章を、何百ページも、ひたすら読む仕事。文字が好きで選んだはずなのに、ここ一年は、ゲラを開くのが、少しだけ怖かった。締め切りはいつも重なって、終電を逃す日も増えて、心のどこかが、ずっと、活字でいっぱいに詰まったまま、苦しかった。
家賃を下げたかったのと、職場から少し離れたかったのとで、私は、私鉄沿線の、古い木造アパートの二階に引っ越した。駅から歩いて十分、商店街の、いちばん奥。エレベーターもない、築四十年の、それでも陽当たりだけはいい部屋。
(……まあ、寝に帰るだけだし)
引っ越しの段ボールに埋もれて、その夜、私は窓を開けた。どこからか、金木犀の、甘くて少しせつない匂いが、流れ込んできた。秋だ、と思った。
そして、ふと、階下を見下ろして、気づいた。
アパートの一階の、半分。そこに、小さな店があった。日中、引っ越し業者が出入りしていたときには、シャッターが下りていて、空き店舗だと思っていた。でも、今——夜の十時を過ぎたその時間に、その店だけ、ぽつりと、あたたかい色の灯りを、ともしていた。
ガラス戸の向こうに、本が、見えた。
翌日も、その翌日も、私は終電だった。
駅から商店街を歩いて、アパートに帰り着くのは、いつも十一時すぎ。シャッターの下りた店ばかりの、暗い通り。その中で、私の住むアパートの一階だけが、灯りをともしていた。
近づいて、はじめて、それが古書店だとわかった。看板も、控えめだった。木の板に、墨で〈夜の頁(よるのページ)〉と、それだけ。営業時間の札には、手書きで「火〜日/二十二時〜二時」とあった。
(……深夜だけの、古本屋?)
そんな店、聞いたことがなかった。ガラス戸の向こうで、天井まで届く本棚が、迷路みたいに並んでいる。その奥に、カウンターがあって、ひとり、男の人が座って、本を読んでいた。
疲れていた。本当は、まっすぐ部屋に帰って、倒れ込みたかった。でも、その灯りに、なぜだか、吸い寄せられた。からり、と、建て付けの悪いガラス戸を、私は開けた。
古い紙の、少し埃っぽい、けれど落ち着く匂いがした。
「……いらっしゃいませ」
低い、静かな声だった。本から目を上げた人は、思っていたより若かった。三十くらいだろうか。痩せ型で、髪は無造作で、銀縁の眼鏡をかけている。それきり、彼は、また本に視線を戻した。客を、追い回さない人だった。
放っておかれたことに、ほっとした。私は、棚の間を、ゆっくり歩いた。文庫、単行本、画集、古い雑誌。背表紙を、指でなぞる。仕事では、あんなに文字が苦しかったのに、ここの本たちは、不思議と、私を急かさなかった。
(……なんだろう。静かだ。すごく、静か)
結局その夜、私は、棚のいちばん下にあった、古い詩集を一冊、抜き出した。表紙の褪せた、薄い本。カウンターに持っていくと、彼は、本を受け取って、値段を確かめ、丁寧な手つきで、薄い紙の袋に入れた。
「……三百円です」
「あの、この店、毎晩、開いてるんですか」
「ええ。夜だけ。……昼間、別の仕事があるので」
それだけ言って、彼は、また、口を閉じた。けれど、本を渡してくれるとき、その指が、ページの角を、まるで壊れ物みたいに、そっと避けていたのを、私は見ていた。
(……本を、大事にする人だ)
その夜、私は、布団の中で、その詩集を、最後まで読んだ。久しぶりに、仕事じゃなく、自分のために、文字を読んだ。
それから、私は、夜ごと〈夜の頁〉に通うようになった。
終電で帰って、コンビニにも寄らず、まっすぐ、あの灯りへ。最初は、本を買うのが目的だった。でも、何日か通ううちに、それだけじゃないことに、自分でも、気づきはじめていた。
店主の名は、槙野透(まきの とおる)さん、というらしい。カウンターの隅に、古書組合の許可証が貼ってあって、それで知った。寡黙な人だった。よけいなことは、何も言わない。でも、私が棚の前で迷っていると、いつのまにか、すっと隣に来て、ぽつりと、言うのだ。
「……それなら、こっちの版のほうが、訳が、いいです」
「あ……ほんとだ。読みやすい」
「同じ本でも、訳者で、別の本みたいになります」
本のことになると、彼の言葉は、少しだけ、増えた。声の温度も、ほんの少し、上がる気がした。
ある晩、私は、つい、こぼしてしまった。校閲の仕事が、今、しんどいこと。文字が好きで入った会社なのに、最近、活字を見るのが、怖いこと。誰にも言っていなかったのに、深夜の、誰もいない古書店で、彼にだけは、言えた。
「……それは、つらいですね」
「……うん。なんか、自分の好きだったものに、追いつめられてるみたいで」
「……だから、ここの本は、ゆっくりでいいんです」
彼は、カウンターの中から、私を、まっすぐ見た。
「誰にも、急かされないために、夜に開けてるので。……早瀬さんも、好きなだけ、いてください」
名前を、覚えてくれていた。一度、本の取り置きで書いただけの名前を。それに気づいた瞬間、胸の奥が、とくん、と鳴った。
(……気づいたら、目で追ってる)
カウンターでページをめくる、その長い指。眼鏡の奥の、静かな目。本を語るときだけ、わずかにほどける、口元。私は、いつのまにか、本より、その人を、見ていた。
ある夜、店に着くと、めずらしく、先客がいた。
割烹着の上にカーディガンを羽織った、年配の女性。商店街の角で、古い喫茶店をやっている、立花さんだった。引っ越しの挨拶のとき、おはぎを持ってきてくれた、近所の人。私を見つけると、立花さんは、目をきらきらさせた。
「あら! 詩織ちゃん。やだ、あなたも〈夜の頁〉の常連になったの?」
「あ、立花さん。……はい、つい、毎晩」
「ふふ、わかるわぁ。透くんの店、落ち着くものねえ」
立花さんは、槙野さんの、昔からの知り合いらしかった。彼が、亡くなったおじいさんの蔵書を継いで、昼は図書館の仕事をしながら、夜だけこの店を開けていること。商店街が寂れて、客が減っても、頑なに灯りを消さないこと。立花さんは、まるで自分の身内のことみたいに、話してくれた。
「透くん、無口でしょ。でもね、本のこと聞くと、人が変わるのよ。……ねえ、透くん、最近、機嫌よくない?」
「……立花さん。お茶、淹れますから、座っててください」
「あらあら、照れちゃって」
立花さんが、私と槙野さんの顔を、にやにやと見比べた。槙野さんが、めずらしく、目を逸らした。眼鏡の奥の耳が、ほんの少し、赤い気がした。
(……期待してるって、思われたくないのに)
立花さんが帰ったあと、店には、また、私たち二人きりになった。気まずいような、くすぐったいような沈黙。槙野さんが、ごまかすように、カウンターの本を、意味もなく揃え直した。
「……立花さん、口が、軽くて。すみません」
「……機嫌、よかったんですか? 最近」
「……」
彼は、答えなかった。でも、答えないことが、答えみたいに思えて、私の心臓まで、つられて、とくんと跳ねた。
十月の終わりの、よく晴れた夜だった。
店じまいの時間が近づいて、客は、もう私ひとりだった。槙野さんが、ふと、本棚の整理の手を止めて、言った。
「……早瀬さん。閉めたあと、少し、付き合ってもらえませんか」
「え、どこにですか」
「すぐそこです。……見せたいものが、あって」
連れていかれたのは、アパートの裏手の、小さな路地だった。古い塀のそばに、一本、大きな金木犀の木が立っていた。街灯の灯りに、橙色の小さな花が、びっしりと咲いている。風が吹くたび、あの、甘くせつない匂いが、夜いっぱいに広がった。
「……引っ越してきた夜、早瀬さん、窓から、この木のほう、見てたでしょう」
「……え。見てたんですか、私のこと」
「……店から、たまたま。……すみません」
塀のそばに、並んで立った。肩が、触れそうな距離に、彼の体温があった。金木犀の匂いと、夜の冷たい空気と、彼の、紙とインクの匂い。
「……きれいですね。この匂い、好きなんです。せつなくて」
「……早瀬さんが、この前、買っていった詩集。あれに、金木犀の詩が、あったでしょう」
「……あ。……うん、ありました」
「……あれを選んだ人なら、この木を、見せたら、喜ぶかなと、思って」
ぶっきらぼうな言い方だった。でも、その不器用さの奥に、彼がずっと、私の選ぶ本を、私の言葉を、ちゃんと覚えてくれていたことが、伝わってきた。胸の奥が、じんと、熱くなった。
「早瀬さん。……あなたが、店に来るようになってから、夜が、長く感じなくなりました」
「……っ」
「閉めようかと、何度も思ってた店なんです。でも、今は……あなたが来る時間が、待ち遠しくて」
寡黙な人が、言葉を選びながら、まっすぐに、それを言った。金木犀の匂いの中で、私は、もう、自分の気持ちを、ごまかせなかった。
「……私も。終電が、つらくなくなったの。帰ったら、あの灯りが、ついてるから」
どちらからともなく、距離が、なくなった。彼の手が、おずおずと、私の頬に触れる。眼鏡越しの目が、迷って、それから、決めたみたいに、近づいてきた。
唇が、そっと、重なった。
ちゅ、と。
「ん……っ」
金木犀の匂いの中で、活字でいっぱいに詰まっていた胸が、ゆっくり、ほどけていくみたいだった。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねた。
「……早瀬さん。店の、奥。……来ますか」
唇を離して、槙野さんが、かすれた声で言った。〈夜の頁〉の、カウンターの裏。そこが、彼の住まいも兼ねた、小さな部屋になっているらしかった。私は、こくんと、頷いた。
店の灯りを落として、本棚の迷路の奥、磨りガラスの戸を抜けると、畳の小さな部屋があった。ここも、壁という壁が、本だった。古い電気スタンドの、やわらかい橙色の光。彼が、私の手を引いて、そっと、座らせてくれた。隣に座った彼の体温が、肩から、じんわり伝わってくる。
「……急に、こんな。……いやだったら」
「……いやじゃ、ないです。槙野さんと、いたい」
自分でも、驚くくらい、素直に言えた。槙野さんが、少し目を見開いて、それから、眼鏡を外して、傍らに置いた。眼鏡のない顔は、思ったより、若くて、無防備だった。その顔のまま、もう一度、唇が重なった。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。
ちゅ……ちゅぷ……れろ……
「ん……ふ……っ」
唇の隙間から舌が触れて、私は、おずおずと、それに応えた。本のページをめくるときの、あの丁寧な指が、私のブラウスのボタンを、ひとつ、またひとつ、外していく。急かされないことに、かえって、体の芯が、疼いた。
「……きれいだ」
「やだ……言わないで。恥ずかしい……」
「……本のこと以外で、こんなに言葉が出るの、初めてです」
恥ずかしくて顔を背けたのに、その言い方に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
「ん……っ」
鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌が、ぴくんと震える。背中に回った手が、ブラのホックを、そっと外した。胸が、彼の前に、こぼれ出る。槙野さんの手が、それを、壊れ物みたいに、そっと包んだ。
「あ……っ」
「……やわらかい。……手が、震えそうだ」
「もう……いちいち、言わないで……っ」
やわやわと、形を確かめるように揉まれて、指の腹が、つんと立ちはじめた先端を、かすめると、体が、びくっと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ、弱いんですね」
「……知らな……っ」
口では強がるのに、彼が、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。静かな部屋に、それだけが、響いた。彼の手が、唇が、私の体を、一冊の本を読み解くみたいに、ゆっくり、ていねいに、溶かしていく。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、撫で上げていった。
「ん……っ♡」
「……力、抜いて。痛くしないから」
その声に、自然と、体の力が抜けた。彼の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに、触れる。
「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが、熱を持っているのが、自分でもわかった。やがて、下着が脱がされて、指が、直接、そこに触れた。
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……もう、こんなに」
「言わないで……っ♡ キスの、ときから……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、彼の指は、どこまでも優しい。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は、彼の腕に、しがみついた。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
「……ここ、覚えておきます」
「やだっ……覚えないで……っ♡」
指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、奥の、感じる場所を、探るように撫でる。
「……ここ、ですか」
「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 槙野さんの指、ずるい……っ♡」
弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で、突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では、止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
「いいですよ。……イって」
「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが、速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。彼の腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。
「……イきましたね」
「……っ、言わないで、ってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、彼が、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。
「……ねえ、槙野さん」
「ん」
「私ばっかり、ずるい。……槙野さんのも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。槙野さんが、ごくりと、喉を鳴らす。私は、ゆっくり、彼のシャツのボタンに、手をかけた。はだけさせると、痩せて見えて、意外と、しっかりした胸板が、現れる。
槙野さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口に、あてがわれた。
「……早瀬さん。いい、ですか」
「うん……っ。来て、槙野さん」
「……ゴム、つけます。待ってて」
「……うん」
避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。こんなときも、ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さが、彼らしかった。準備を終えて、槙野さんが、もう一度、私の頬に、手を添えた。
「……いきます。痛かったら、言って」
「うん……優しく、して」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に、腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。
ずず……っ
「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
「……っ、早瀬さんの中、すごく、熱い」
根元まで収まって、槙野さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっとひとりで詰まっていた胸の隙間が、じんわり、埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で、囁いた。
「……繋がってる。私たち、繋がってるね……っ♡」
「……ええ。……やっと、です」
槙野さんが、ゆっくり、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。古い電気スタンドの、橙色の光の中で、彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。
「早瀬さん。……気持ち、いいですか」
「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
「……僕も。ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥の、いちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は、跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
「……ここ、好きですか」
「っ♡♡ 好き……っ♡ 槙野さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちも、だった。槙野さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
「……早瀬さんの中、すごく、締まってる」
「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
本に囲まれた、小さな部屋に、二人の息と、肌のぶつかる音が、満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっとひとりで抱えていた苦しさが、体の奥から、溶けて、溢れてくる。
「早瀬さん……そろそろ……っ」
「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
槙野さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 槙野さん、一緒に……っ♡♡」
「……っ、早瀬さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。槙野さんが、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
「……はぁ……っ♡ すごかった……」
「……早瀬さん」
「ん……?」
「……好きです。……うまく言えないけど。あなたが、好きだ」
寡黙な人が、ありったけの言葉で、それを言った。私は、もう、我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら、泣いた。
「……私も。大好き。……毎晩、灯りを、つけててくれて、ありがとう」
「……これからも、つけます。あなたが、帰ってこられるように」
槙野さんが、涙で濡れた私の頬に、何度も、不器用に、キスを落とした。
朝。
磨りガラスの戸の隙間から、淡い光が差し込んでいた。
布団の中で、槙野さんの腕に頭を預けて、私は、まだ少し、夢の続きみたいな気持ちでいた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。本の背表紙ばかりの天井近くの棚を、ぼんやり眺めながら、私は、口を開いた。
「……ねえ、槙野さん。私、まだ、仕事、しんどいの。校閲、好きだったはずなのに」
「……無理しなくて、いいです」
「でも……」
私は、彼の胸に、頬をすり寄せた。
「……でも、ここに帰ってくると、思ったら、頑張れる気がする。あの灯りが、ついてると思ったら」
槙野さんが、私の髪を、そっと撫でた。
「……早瀬さん。手伝ってくれませんか。この店の、本の整理」
「え?」
「夜だけの古書店なんて、ひとりだと、限界があって。……あなたは、本のことが、わかる人だから」
その言い方が、あんまり下手な口説き文句みたいで、私は、噴き出してしまった。
「……ずるいよ、それ。私の好きなもの、ちゃんと、必要にしてくれるんだ」
「……いや、これは、その。……純粋に、人手として」
「ふふ。……いいよ。手伝う。仕事のあとに、ここで、あなたと本を並べる。……それ、すごく、いいな」
他人の文章に追いつめられて、活字が怖くなっていた私。でも、これからは、違う。好きな人と、好きな本に囲まれて、夜に、灯りをともす。すり減らすためじゃなく、誰かが帰ってこられる場所を、つくるために。
戸を開けると、商店街に、朝の金木犀の匂いが、まだ、かすかに残っていた。アパートの裏の木は、今日も、橙色の花を、こぼれるほど、咲かせている。
その路地の角に、立花さんが立っていて、私たちを見て、にやーっと笑った。
「あらあら。詩織ちゃん、その寝ぐせ。……しかも、〈夜の頁〉のほうから、出てきたわねえ、今」
「えっ、あ、これは……っ」
「いいのいいの、隠さなくて。商店街中、もう知ってるわよ。透くんが、二階に越してきた校閲のお嬢さんに、ベタ惚れだって」
「……立花さん。本当に、口が」
「だってねえ。あの子、あなたが越してきてから、毎晩、ガラス戸の外、ちらちら見てたのよ。今日は来るかなって。……あたし、知ってるんだから」
「……っ、槙野さん、ほんとに?」
槙野さんが、わかりやすく固まって、眼鏡の奥まで、真っ赤になった。立花さんが、けらけら笑いながら、「朝ごはん、うちで食べてきなさいな」と、喫茶店のほうへ歩いていく。
朝の光の差し込む古書店の前で、私は、隣に立つ槙野さんの手を、そっと握った。本のページを、いつも壊れ物みたいに扱う、長い指。引っ越してきた夜、ひとりで、活字に詰まって苦しかった私。その手は、今、私の指に、しっかり絡んで、もう、離れる気配が、なかった。
「……ねえ、槙野さん。今夜も、来ていい? お店」
「……早瀬さんは、もう、客じゃ、ないでしょう」
「……ふふ。じゃあ、何?」
「……それは、その。……これから、ゆっくり、決めていけば、いいです」
金木犀の香る、秋の朝。終電で逃げ帰るだけだったはずのこの町で、私は、いちばん帰りたい場所と、いちばん近くにいたい人を、見つけてしまった。
〈夜の頁〉の、墨で書かれた看板の上に、朝の光が、やわらかく、降りていた。
― 終 ―