六月の高原は、空気がまだ少しだけ冷たかった。
私、椎名灯里(しいなあかり)、二十八歳。ピアノの調律師をしている。鍵盤を弾く人ではなくて、その音を整える側の人間だ。今日は、車で二時間かけて、湖のほとりの小さな音楽堂まで来ていた。古いグランドピアノを一台、見てほしい——所属している調律事務所に、そんな依頼が入ったのが先週のこと。担当が私になったのは、ただの巡り合わせだった。
椎名灯里(……いい空気。緑の匂いがする)
窓を開けて山道を上ってきたせいで、髪が風の匂いを含んでいた。新緑がいっせいに芽吹いて、白樺の幹が陽に光っている。観光地から外れた林の奥に、その建物はぽつんと建っていた。古い洋館を改装したらしい、こぢんまりとした音楽堂。看板には、手書きの優しい字で『音叉(おんさ)の家』とあった。
椎名灯里(音叉、か。……調律師には、ちょっと出来すぎた名前)
私は工具の入った重いケースを助手席から下ろして、玄関の木の扉を押した。からん、と乾いた鐘の音が鳴る。
中は、外の涼しさとは違って、ふわりと木とワックスの匂いがした。吹き抜けの小さなホール。木の床、白い壁、天井から下がる古いシャンデリア。三十席ほどの椅子が並んだその一番奥に、黒く艶めくグランドピアノが、一台、静かに置かれていた。
椎名灯里(……立派な子。ベーゼンドルファーの、古いやつ)
思わず仕事の目で見惚れていたら、ピアノの陰から、人の気配がした。
三嶋響「すみません、調律の方ですか。お待ちしてました」
低い声が、ホールの天井に静かに響いた。譜面台のあたりにかがんでいた人が、ゆっくり立ち上がる。背の高い男の人。少し癖のある髪、穏やかな目元。
その顔を見た瞬間、私の手から、危うく工具ケースが滑り落ちそうになった。
五年分、輪郭が大人びていた。けれど、間違えるはずがなかった。この声を、この立ち姿を、私はたぶん、世界中のどこにいたって拾ってしまう。
椎名灯里「……響?」
声が、勝手に喉から落ちた。
三嶋響(みしまひびき)、三十歳。音大のピアノ科で同じ門下だった、私の元カレ。学年でいちばん才能があると言われて、誰もが彼の名前を覚えていた、あの響。その人が、エプロン姿で、私の目の前に立っていた。
三嶋響「……灯里」
私の名前を呼ぶ声が、ほんの少し、震えていた。
五年前のことを、私はたぶん、一生忘れない。
音大に入ったとき、私は本気でピアニストになるつもりだった。でも、入ってすぐにわかった。世界には、努力では届かない場所に立っている人間がいる。響が、そうだった。同じ曲を弾いても、彼の指から出てくる音は、なぜか、その曲がほんとうに鳴りたかった音をしていた。コンクールで彼が弾くたびに、ホールの空気が変わるのを、私は客席で何度も見た。
私は、その隣にいた。付き合って、二年。幸せだった。でも、幸せと同じだけ、苦しかった。
私が何時間さらっても届かないところに、響は涼しい顔で立っていた。彼は一度だって、私を見下したりしなかった。それなのに——いや、それだからこそ、私は自分の凡庸さに、毎日少しずつ削られていった。
二十三のとき、私はピアニストになる夢を、自分から手放した。鍵盤を弾く側じゃなくて、その音を整える側になろう、と。調律師の学校に入り直すと決めた。その選択自体は、後悔していない。今でも、私はこの仕事が好きだ。
でも、私は同時に、響とも別れた。
椎名灯里「ごめん。私、あなたのそばにいると、自分がどんどん嫌いになる」
そう言って、私から別れを切り出した。響はあのとき、長いこと黙ってから、静かに、「わかった」とだけ言った。引き止めてはくれなかった。その物分かりのよさが、あのときの私には、いちばん残酷だった。
それから五年。私は響の演奏を、意識して避けてきた。配信も、コンクールの記事も、見ないようにしていた。彼がどこかの大きな舞台で輝いているなら、それを知るのが、こわかったから。
なのに——よりにもよって、その響が今、ピアニストの顔ではなくて、エプロンを着けて、こんな山奥の小さな音楽堂に立っている。
三嶋響「とりあえず、座って。遠かっただろ、ここまで」
響が先に、昔みたいな落ち着いた声に戻った。私は曖昧にうなずいて、工具ケースを床に下ろした。
三嶋響「コーヒー、淹れるよ。冷えただろ、車の窓開けてきたんじゃないか」
なんでわかるんだろう、と思いながら、私は小さく笑ってしまった。昔から、響はこういう細かいことに、よく気がついた。
椎名灯里「……髪、風の匂いするでしょ」
三嶋響「うん。灯里、昔から山道は窓開ける派だったもんな」
覚えてるんだ、そんなこと。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
響がカウンターの奥でコーヒーを淹れているあいだ、私はホールを見回した。壁には、子どもが描いたらしい絵や、楽譜のコピーが画鋲で留めてある。隅には小さなおもちゃの楽器が転がっていて、譜面台の高さは、明らかに大人より低く設定されていた。
椎名灯里「ここ……教室、なの?」
三嶋響「うん。週の半分は、近所の子どもたちにピアノ教えてる。残りは、誰でも弾きにこられる場所として開けてる。コーヒー飲みながら、好きにこのピアノを弾いていい、っていう」
やがて、白いカップが私の前に置かれた。一口含むと、深いのに角がなくて、ほっと息が漏れた。
椎名灯里「……おいしい」
三嶋響「よかった」
そのとき、奥のドアから、エプロン姿の若い女の子がひょっこり顔を出した。アルバイトらしい。
小春「響さん、子どもたちの楽譜、棚に戻しときました——あれ、お客さん?」
三嶋響「ああ、小春ちゃん。……えっと、昔の、知り合い。ピアノを見にきてくれたんだ」
小春「へえ〜」
小春と呼ばれた子は、私と響の顔を見比べて、にやっとした。何かを察したらしい。
小春「響さんが他人のこと『知り合い』ってだけで呼ぶの、初めて見ました。……あ、わたし、買い出し行ってきますね。今日は夕方まで戻りません。ゆっくりどうぞ〜」
ぱたぱたと、彼女は裏口から出ていってしまった。気を利かせたのが、丸わかりだった。ホールに、また私と響だけが残される。
椎名灯里「……気を遣わせちゃった」
三嶋響「あの子、勘がよすぎるんだ」
二人で、ちょっと笑った。その笑いが落ち着くと、急に、沈黙が降りた。
私は、コーヒーを置いて、グランドピアノの前に立った。仕事をしに来たんだ、と自分に言い聞かせる。蓋を開けて、弦とハンマーの様子を覗き込む。長く弾かれてきた、いい音のする楽器だった。でも、あちこちピッチが下がっていて、低音側のハンマーには、深く弾き込まれた痕がある。
椎名灯里「……この子、すごく弾かれてる。毎日、誰かが」
三嶋響「子どもたちが、めちゃくちゃに叩くからな」
椎名灯里「ううん。それだけじゃない。……夜に、ちゃんと弾く人がいる音。低音の、この沈み方」
職業の勘で、つい口に出してしまった。響が、ふっと黙った。私は、その横顔を見た。
椎名灯里「……響。あなた、まだ弾いてるの?」
聞いてから、しまった、と思った。聞いてはいけない気がして、五年間ずっと避けてきた質問を、私は自分から、いちばん無防備な顔で口にしていた。
響は、しばらく答えなかった。それから、ゆっくり右手を持ち上げて、私に見せた。薬指と小指が、第二関節のところで、ほんの少しだけ、不自然に曲がっていた。
三嶋響「三年前。事故でね。神経をやられて、もう、昔みたいには動かない」
私は、息を止めた。
三嶋響「コンクールも、舞台も、ぜんぶ降りた。プロのピアニストとしての三嶋響は、そこで終わったんだ。……今は、子どもに『ドレミ』を教えて、ときどき、自分のために、片手でぽつぽつ弾く。それくらいが、ちょうどいい」
淡々と話すその声に、悲壮さはなかった。それが、かえって私の胸を抉った。学年でいちばんまぶしかった人の、まぶしさの理由を、私はこの五年、こわくて見ないようにしてきた。それが、もう、ここにはなかった。
椎名灯里「……なんで、教えてくれなかったの」
三嶋響「言ってどうする。灯里、俺の演奏、もう見ないようにしてただろ」
椎名灯里「……っ」
図星だった。響は昔から、いちばん肝心なところを、静かに突いてくる。
三嶋響「灯里が出ていったあと、俺、けっこう長いこと考えたんだ」
響は、椅子に座って、低く話しはじめた。私は、その向かいの椅子に、そっと腰を下ろした。
三嶋響「『そばにいると自分が嫌いになる』って、灯里、言っただろ。あのとき俺、何も言い返せなかった。だって、俺は——音のことしか考えてなくて、灯里がどれだけ削られてたか、ちゃんと見てなかったから」
椎名灯里「……それは、あなたのせいじゃないよ。勝手に比べて、勝手に潰れてたの、私だもん」
三嶋響「でも、俺、ずるかった。『わかった』なんて、物分かりのいいふりして。ほんとは、引き止めたかった。才能とか関係なく、灯里と一緒にいたいって、ちゃんと言えばよかった」
その言葉に、五年前の私が、胸の奥でぐらりと揺れた。
三嶋響「手が動かなくなって、舞台を全部失って、初めてわかったよ。俺、ピアノが弾けるから誰かに必要とされてただけなんじゃないかって、ずっとこわかったんだ。……灯里がいなくなった理由も、結局そこだろって」
椎名灯里「違う」
気づいたら、私は、強く言っていた。
椎名灯里「違うよ、響。私が逃げたのは、あなたの才能がまぶしかったからで……あなたが、ピアノが弾けるから好きだったわけじゃない」
言ってから、自分の言葉に、自分で気づいた。そうだ。私は、舞台の上の三嶋響に焦がれていたんじゃない。山道の窓を開ける癖を覚えていてくれる、コーヒーの温度を気遣ってくれる、この人が好きだったんだ。五年も、遠回りして、やっと。
響が、私のほうを見た。その目が、少しだけ、潤んでいた。
三嶋響「……灯里。この子、調律、頼める?」
椎名灯里「え」
三嶋響「もう一回、ちゃんと鳴る音にしてほしい。俺の手じゃ、もう昔の音は出せないけど。……この子の音を整えられるのは、灯里がいい」
私は、こくんとうなずいた。涙がこぼれそうで、声が出せなかった。
私は工具ケースを開けて、チューニングハンマーと音叉を取り出した。鉄の音叉を、軽く膝で打って、響かせる。きん——と澄んだ、基準の音。それを耳の奥に置いて、私は弦を、一本ずつ整えていく。
響は、ピアノの脇に椅子を寄せて、ただ静かに、私の手元を見ていた。近い。肩が触れそうな距離に、彼の体温がある。
三嶋響「……灯里の調律、好きだな」
椎名灯里「え?」
三嶋響「昔から、灯里が整えた音、好きだった。なんていうか……弾く人を、責めない音がする」
私の手が、止まった。弾く人を責めない音。それは、ピアニストになれなかった私が、調律師として、ずっと目指してきたものだった。それを、響が、五年も覚えていてくれた。
椎名灯里「……よく、覚えてるね、そんなこと」
三嶋響「灯里のことは、だいたい覚えてる」
さらっと言われて、私は何も返せなくなった。窓の外、白樺の葉が風に鳴っている。私は、一本だけ残った弦を整え終えて、ハンマーを置いた。
椎名灯里「……できた。弾いて、響」
三嶋響「俺は、もう——」
椎名灯里「片手でいいよ。あなたが今出せる音で、確かめて」
響は、ためらってから、左手をそっと鍵盤に置いた。ぽーん、と一音。それから、ゆっくり、たどたどしく、簡単な旋律を弾いた。昔の彼なら、目を瞑ってでも弾けた、子どもみたいな曲。
それでも、その音は、まっすぐに私の胸に届いた。整えたばかりの弦が、彼の不器用な指に、優しく応えていた。
椎名灯里「……いい音」
三嶋響「灯里が、整えてくれたからだ」
弾き終えて、響が、私を見た。その距離で、私はもう、逃げる気なんてなかった。
三嶋響「灯里。……五年前、言えなかったこと、今、言ってもいいか」
椎名灯里「……うん」
三嶋響「ずっと、好きだった。手が動かなくなっても、舞台がなくなっても、それでも、頭に浮かぶのは灯里だった」
私は、顔を上げられなかった。上げたら、絶対に泣く。それでも、震える声で、五年前に言えなかった本音を返した。
椎名灯里「……私も。ほんとは、別れたあと、ずっと後悔してた。逃げなきゃよかったって。……でも、合わせる顔がなくて」
三嶋響「ばかだな、二人とも」
椎名灯里「……うん。ばかみたい」
響の手が、私の頬に触れた。鍵盤を叩きすぎて少し硬くなった、けれど温かい手。彼の顔が、ゆっくり近づいてくる。
三嶋響「灯里。キス、していい?」
椎名灯里「……聞かないでよ、そういうの」
それが、答えだった。響の唇が、五年ぶりに、私の唇に重なった。
ちゅ、と。
椎名灯里「ん……っ」
柔らかくて、温かくて、懐かしくて。それなのに、知らない大人の男の人のキスでもあって、私の体の芯が、ぞくりと震えた。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねる。
ちゅ……ちゅぷ……
椎名灯里「は……ん……」
唇の隙間から舌が触れて、私はおずおずとそれに応えた。五年分の距離が、舌先から溶けていくみたいだった。
三嶋響「……奥に、俺の部屋がある。来る?」
唇を離して、響が囁いた。ホールの脇の、小さな扉を目で示す。私は、こくんと頷いた。理性とか、明日のこととか、そういうのは全部、白樺を鳴らす風が、押し流していった。今だけは、五年前に手放したものを、ちゃんともう一度、抱きしめたかった。
扉の向こうは、簡素で、彼らしい部屋だった。本棚にぎっしり並んだ楽譜、窓の外には湖と、新緑の山。響は私の手を引いて、そっとベッドの縁に座らせた。隣に座った彼の体温が、肩からじんわり伝わってくる。
三嶋響「緊張してる?」
椎名灯里「……してる。五年ぶり、だもん」
三嶋響「俺も。……灯里が嫌なら、やめる」
椎名灯里「やめないで」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。響が、少し目を見開いて、それから、優しく笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより深くて、もっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
椎名灯里「ん……ふ……っ」
キスをしながら、響の手が、私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。その手つきがあんまり優しくて、急かされないことに、かえって体が疼いた。薄手のブラウスが、肩からするりと落ちる。
三嶋響「……きれいだ。灯里」
椎名灯里「やだ、見ないで……明るいよ……」
三嶋響「見たい。五年ぶりだから」
恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が甘く締めつけられた。響の唇が、首筋に降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
椎名灯里「ん……っ」
鎖骨に、肩に、彼の唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震える。ブラのホックが外されて、胸が彼の前にこぼれ出た。響の手が、それをそっと包む。動きにくいはずの右手も、私に触れるときは、ためらいなく優しかった。
椎名灯里「あ……っ」
三嶋響「柔らかい。……昔より、きれいになった」
椎名灯里「もう……いちいち言わないで……恥ずかしい……っ」
やわやわと、形を確かめるように揉まれて、私は枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。
椎名灯里「ひゃ……っ、そこ……っ」
三嶋響「ここ、弱いの、変わってないな」
椎名灯里「……覚えてないでよ、そういうのっ……」
口では強がるのに、響が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
椎名灯里「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。彼の手が、唇が、私のことをちゃんと覚えていてくれる。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
椎名灯里「ん……っ♡」
三嶋響「力、抜いて。……痛くしないから」
その声に、自然と体の力が抜けた。響の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。
椎名灯里「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、響の指が、直接そこに触れた。
くちゅ、と。
椎名灯里「ひゃ……っ♡」
三嶋響「……もう、こんなに」
椎名灯里「言わないで……っ♡ さっきのキス、から……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、響の指は優しい。敏感な突起を、指の腹でくるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
椎名灯里「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
三嶋響「うん。知ってる」
指が、ゆっくり中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
椎名灯里「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中をゆっくり押し広げて、五年前と同じ場所を、確かめるように撫でる。鍵盤の弱いところを探り当てるみたいに、丁寧に。
三嶋響「ここ、だろ」
椎名灯里「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 覚えてるの、ずるいよぉ……っ♡」
弱い場所を指の腹で擦られて、同時に親指で突起を転がされて、私の腰は、もう自分の意思では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
椎名灯里「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
三嶋響「いいよ。イって」
椎名灯里「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に高みへ押し上げられた。
椎名灯里「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。響の腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。
三嶋響「……イったね」
椎名灯里「……っ、言わないでってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、響がそっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また泣きそうになった。
椎名灯里「……ねえ、響」
三嶋響「ん」
椎名灯里「私ばっかり、ずるい。……響のも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。響が、ごくりと喉を鳴らす。私はゆっくり体を起こして、彼のシャツに手をかけた。脱がせると、昔より少し厚くなった胸板が現れる。舞台を降りてからも、ちゃんと生きてきた人の体だ、と思った。
響が私をそっとシーツに横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
三嶋響「灯里。……いい?」
椎名灯里「うん……っ。来て、響」
三嶋響「……つけるから、待って」
椎名灯里「……うん」
避妊具をつける彼を、私はぼうっと見ていた。ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さも、昔のままだ。準備を終えて、響がもう一度、私の頬に手を添えた。
三嶋響「いくよ」
椎名灯里「……優しく、して。五年ぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
椎名灯里「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は彼の背中に腕を回してしがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうがずっと大きかった。
ずず……っ
椎名灯里「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
三嶋響「……っ、灯里の中、すごく熱い」
根元まで収まって、響がふっと息を吐いた。繋がった場所から、五年分の隙間が、じんわり埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
椎名灯里「……繋がってる。私たち、また、繋がってるね……っ♡」
三嶋響「ああ。……もう、放さない」
椎名灯里「っ♡♡ そういうの、ずるいってば……っ♡」
響が、ゆっくり動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
椎名灯里「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸にぽつりと落ちた。
三嶋響「灯里。気持ちいい?」
椎名灯里「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
三嶋響「俺も。……ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が震えた。私は彼の首に腕を回して、自分から唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、五年前の私は知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
椎名灯里「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
三嶋響「ここ、好きだろ」
椎名灯里「っ♡♡ 好き……っ♡ 響の、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でもわからなくなった。たぶん、どっちもだった。響が私の脚を抱え直して、結合が深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
椎名灯里「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
三嶋響「灯里、中、すごい締まってる」
椎名灯里「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
窓の外の風の音と、二人の息と、肌のぶつかる音が、部屋に満ちる。私は、もう何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、五年分の想いが、体の奥から溢れてくる。
三嶋響「灯里……そろそろ……っ」
椎名灯里「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
響が私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
椎名灯里「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 響、一緒に……っ♡♡」
三嶋響「ああ……っ、灯里……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
椎名灯里「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。響が、私の上で、はぁ、と大きく息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
椎名灯里「……はぁ……っ♡ すごかった……」
三嶋響「……灯里」
椎名灯里「ん……?」
三嶋響「好きだ。……もう一回、ちゃんと言わせて。好きだ」
私は、もう我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら泣いた。
椎名灯里「……私も。大好き。五年も、逃げ続けて、ごめんね」
三嶋響「お互いさまだ」
響が、涙で濡れた私の頬に、何度もキスを落とした。
気づくと、窓の外の山が、夕方の淡い金色に染まっていた。
湖の水面が、その光をきらきらと跳ね返している。私は響の腕に頭を預けて、その景色をぼんやり眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。
椎名灯里「……ねえ、響」
三嶋響「ん」
椎名灯里「私さ、東京で、調律の仕事してるんだけど」
三嶋響「うん」
椎名灯里「あの子……あのピアノ、これからも、定期的に診させて」
五年前は、響のそばにいることと、自分を好きでいることは、二つに一つだと思っていた。でも、今は違う。私は、彼を弾く人としてじゃなくて、ただ響として、好きになった。そして、私には、整える、という仕事がある。
三嶋響「……それ、ピアノの話? それとも」
椎名灯里「両方だよ。決まってるでしょ」
響が、ちょっと笑って、私の頭にキスをした。
三嶋響「高原、いいとこだよ。東京から、特急一本だ」
椎名灯里「ふふ。通う口実、できちゃった」
三嶋響「口実なんていらない。……いつでも、おいで」
私は、彼の胸に頬をすり寄せた。五年前の私が、まぶしさにおびえて手放したもの。今、その手は、私の指にしっかり絡んで、もう離れる気配がなかった。
椎名灯里「ねえ、響。今度ここに来たら」
三嶋響「ん?」
椎名灯里「私が調律して、響が片手で弾いてよ。下手でもいいから。……その音、私、世界でいちばん好きだと思う」
三嶋響「下手って言うなよ」
椎名灯里「ふふ。でも、ほんと。あなたの今の音が、いちばん好き」
それは、五年前の私には、絶対に言えなかった言葉だった。まぶしい三嶋響じゃなくて、もう昔みたいには弾けない、目の前のこの人を、私は心から好きだと思っている。
私たちは、服を着て、二人でホールへ戻った。夕陽の差し込む床に、グランドピアノが、静かに艶めいている。響が左手で、ぽーん、と一音だけ鳴らした。整えたばかりのその音が、誰もいないホールに、まっすぐ、優しく広がっていく。
椎名灯里「……うん。やっぱり、いい音」
三嶋響「また来て。……次は、雨でも雪でも」
椎名灯里「来るよ。降ってても、降ってなくても。決めた」
窓の外、初夏の高原に、夕陽が長く尾を引いていた。五年かかった遠回りの先で、私はやっと、自分が手放したと思っていたものを、もう一度、この手で抱き直した。
― 終 ―