1. 衝動
東京駅の九番線ホームに、藍色の車体がゆっくり滑り込んできたとき、私はまだ半分、夢を見ているような気持ちでいた。
私、三崎結衣(みさき ゆい)、二十八歳。都内の出版社で、文芸誌の校正をしている。毎日、他人の書いた恋や別れの原稿に、赤いペンで線を引いて暮らしている。自分の人生には、赤を入れたくなるような波風なんて、ここしばらく一つもなかったのに。
(なんで私、こんなところにいるんだろう)
きっかけは、二日前。三つ下の妹・莉子(りこ)の結婚式だった。
「お姉ちゃん、今日は来てくれてありがとう。……次は、お姉ちゃんの番だね」
純白のドレスを着た莉子が、悪気なんて一つもない顔で、そう言って笑った。親戚も、両親も、みんな同じことを思っている空気だった。長女なのに、二十八にもなって、相手の影も形もない私。私は「そうだね」と笑い返して、シャンパンを一気に飲み干した。
その夜、ホテルの部屋で一人になって、私は天井をぼんやり見上げていた。焦っているわけじゃない。ないはずだった。それなのに、気づいたらスマホで「縁結び 神社」と検索していて——朝になる頃には、出雲大社行きの寝台特急のチケットを、衝動で予約してしまっていた。
(縁結びの神様に会いに行くなんて、いちばん私らしくない)
サンライズ出雲。東京から出雲市まで、一晩かけて走る、日本でほとんど最後の寝台特急。乗ってみたかった、という気持ちも、たぶん少しだけあった。一人用の小さな個室を取って、私はキャリーケースを引いて、藍色の列車に乗り込んだ。
夜の十時、定刻。列車は、静かに東京を離れていった。
2. ラウンジカー
個室は、思ったよりずっと狭かった。ベッドと、小さな窓と、自分一人ぶんの暗がり。横になってみたけれど、心臓のあたりがそわそわして、とても眠れそうになかった。
(……ちょっとだけ、外の空気を吸おう)
ガイドのサイトに、サンライズには「ラウンジカー」という、誰でも座れる共有スペースの車両があると書いてあった。私は薄手のカーディガンを羽織って、揺れる通路を伝いながら、その車両へ向かった。
ラウンジカーは、大きな窓が連なる、明るすぎない空間だった。深夜だからか、人はまばら。流れていく夜の街の灯りが、窓の外で長い帯になって溶けていく。私は窓際のボックス席に腰を下ろして、ぼんやりとその光を眺めた。
ふと、斜め向かいの席に、先客がいることに気づいた。
文庫本を開いた、男の人だった。歳は、私より少し上くらい。明るい色のシャツの袖を無造作にまくっていて、視線は本に落ちている。揺れる車内灯の下で、ページをめくる指が、やけに静かに見えた。
(……なんか、雰囲気のある人)
じっと見ていたつもりはなかった。けれど、彼がふと顔を上げて、私と目が合った。気まずくて、私はとっさに窓のほうへ視線を逃がす。
「眠れないんですか」
低い、落ち着いた声だった。責めるでも、馴れ馴れしいでもない、ただ事実を確かめるみたいな声。私は、つい正直に頷いてしまった。
「……はい。初めてなんです、寝台列車。なんだか、もったいなくて」
「わかります。僕も、初めて乗った夜は、結局ほとんど眠れなかった」
彼は文庫本を閉じて、栞代わりにレシートを挟んだ。慣れた手つきだった。
「ここ、夜中はだいたい貸し切りみたいなものなんですよ。よかったら、起きてるもの同士、夜更かしの邪魔、しますか」
くすっと笑った口元に、力みがなかった。私は、なぜだか少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
3. 夜通しの会話
彼は宇佐見透(うさみ とおる)と名乗った。三十一歳。出雲で、お父さんから継いだ出雲そばの店をやっているのだと言った。
「東京で、蕎麦の催事があって。三日間、ずっと立ちっぱなしで打ってました。帰りくらい、ゆっくり寝台で帰ろうと思って」
「お蕎麦屋さん……。だから、指、きれいなんですね」
「きれい?」
「あ、いえ。さっき本めくってるの見て……無駄がないなって、思って」
言ってから、見ていたのがばれてしまって、私は耳が熱くなった。透さんは、別にからかうでもなく、自分の手のひらをしげしげと眺めた。
「毎日、粉と水ばっかり触ってるからかな。……で。三崎さんは、何しに出雲まで?」
私は、言葉に詰まった。縁結びの神様に会いに行く、なんて、初対面の人に言えるわけがない。
「……笑わないで、聞いてもらえますか」
「笑いませんよ。たぶん」
「たぶんって」
つられて、私も少し笑った。そして、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。妹の結婚式のこと。「次はお姉ちゃんの番」と言われたこと。焦っていないつもりで、気づいたら衝動でチケットを取っていたこと。校正の仕事で、毎日他人の恋ばかり読んでいるくせに、自分の番になると、何ひとつ決められない情けなさ。
透さんは、口を挟まずに、最後まで聞いてくれた。窓の外を、知らない町の灯りが、いくつも流れて消えていく。
「衝動で夜行列車に飛び乗れる人が、何も決められないって、そんなことないと思うけどな」
「……え」
「だって、いま現に、ここにいるじゃないですか。一番大事なところは、ちゃんと自分で決めてる」
さらりと言われた言葉が、なぜだか胸の奥に、まっすぐ落ちてきた。私は、何も言えなくなって、温くなった缶のお茶を、両手で握りしめた。
気づけば、窓の外の空が、ほんの少しずつ、藍色から薄い灰色へと変わりはじめていた。私たちは、ほとんど一晩中、話し込んでいた。
4. 夜明けの停車
夜明け前、列車はどこかの駅で、長い時間停まった。
「岡山ですよ。ここで、東京から来た車両を切り離して、いくつかは高松へ、僕らの車両は出雲へ向かう。……ちょっと、ホーム見に行きます?」
冷たい朝の空気が、開いたドアから流れ込んでくる。誰もいないホームで、作業員の人たちが、慣れた手つきで車両を分けていくのを、私たちは並んで眺めた。連結が外れる、ごとん、という重い音が、朝のしじまに響く。
「……なんだか、不思議。さっきまで一緒だった車両と、ここでお別れなんですね」
「同じ方向に行きたい人だけが、最後まで残る。良くできてますよね、これ」
透さんが、ぽつりと言った。その横顔を、私は思わず見上げてしまった。明け方の薄い光のなかで、彼の輪郭が、やわらかく滲んでいた。
(……同じ方向に行きたい人だけが、残る)
なんてことない言葉のはずなのに、私は、その一言を、しばらく頭の中で転がしていた。
列車が再び動き出すと、窓の外には、東京とはまるで違う景色が広がっていた。山の稜線が朝日で縁取られ、田んぼに張った水が、空の色を映している。透さんが、缶コーヒーを二つ買ってきて、片方を私にくれた。
「出雲、着いたら、どうするんですか」
「とりあえず、大社にお参りして……あとは、何も決めてなくて」
「じゃあ」
透さんは、少しだけ間を置いて、缶コーヒーのプルタブを起こした。
「お参りのあと、うちの蕎麦、食べに来ます? 朝いちは仕込みだけど、昼には店、開けるんで。……あと、案内くらいなら、します。地元なんで」
社交辞令にしては、目が逃げていなかった。私は、その目を見返して、頷いていた。
「……はい。行きます」
5. 縁結びの社
出雲市駅に着いたのは、朝の九時過ぎだった。一晩の汽車旅の余韻を引きずったまま、私は一度宿に荷物を預けて、一人で出雲大社へ向かった。透さんは「仕込みがあるから」と、昼に店で、と約束して、先に別れた。
(ひとりで、来たかったんだ。ここだけは)
長い参道を、ゆっくり下っていく。背の高い松並木の間を、初夏の風が抜けていく。本殿の前に立つと、思っていたよりずっと厳かで、私は二礼四拍手一礼の作法を、見よう見まねでなぞった。
縁結びの神様。良いご縁を、と手を合わせながら、私はなぜだか、ゆうべラウンジカーで聞いた、低い声を思い出していた。
(……同じ方向に行きたい人だけが、残る、か)
会ってまだ半日の人を、お参りの最中に思い出している。我ながら、どうかしている。私は慌てて手を解いて、首を振った。校正者の悪い癖で、自分の感情にまで、つい「これは行きすぎ」と赤を入れたくなる。
でも——東京に置いてきたはずの心が、もうずいぶん、軽くなっているのも、本当だった。
お昼少し前、私は教わった住所を頼りに、透さんの店を訪ねた。古い町並みの一角に、藍色の暖簾がかかっていた。「うさみ」と白く染め抜かれている。あの列車と、同じ色だった。
「……あの、こんにちは」
「あ。ちゃんと来た」
厨房から顔を出した透さんは、白い作務衣を着て、額に手ぬぐいを巻いていた。列車で会ったときより、ずっと精悍に見えて、私はどきりとした。
出してくれた割子そばは、思わず声が出るほど、おいしかった。三段重ねの器に、つゆを少しずつ回しかけて食べる、出雲独特の食べ方。透さんは、私が一口すするたびに、なぜか落ち着かなそうに、こちらを見ていた。
「……どう、ですか」
「すごく、おいしい。……なんか、泣きそう」
「大げさだな」
そう言って笑った彼の耳が、ほんのり赤くなっていることに、私は気づいてしまった。
6. 夕凪の海
店を閉めたあと、透さんは約束どおり、私を案内してくれた。
軽トラックの助手席に乗せてもらって、海沿いの道を走る。途中で立ち寄った稲佐の浜は、神様たちが集まるとされる場所なのだと、彼が教えてくれた。夕方の海は、風がぴたりとやんで、鏡みたいに凪いでいた。
「夕凪っていうんです。昼と夜の風が入れ替わる、ほんの少しの、どっちでもない時間」
「どっちでもない時間……」
「うん。一番、海が静かになる」
並んで砂の上に立つと、肩が触れそうな距離だった。誰もいない浜辺で、私たちは、沈んでいく太陽を、ずっと黙って見ていた。沈黙が、ちっとも気づまりじゃなかった。
「透さん」
「ん」
「私、昨日まで、自分のことを、何も決められない人間だって、思ってました」
「うん」
「でも……衝動でこの列車に乗ったのも、透さんの蕎麦を食べに行くって決めたのも、ここまで来たのも。ぜんぶ、私が選んだんですよね」
透さんが、こちらを向いた。夕陽を背にした彼の顔は、逆光で表情が見えにくかった。それでも、まっすぐにこちらを見ているのは、わかった。
「三崎さん」
「結衣で、いいです」
「……結衣さん。俺、たぶん、社交辞令で蕎麦に誘ったわけじゃ、なかったんだと思う」
潮の匂いがする風が、一度だけ、ふわりと頬を撫でた。夕凪が、終わる合図みたいに。
「昨日の夜、ラウンジで話してて。……この人と、もう少し、同じ方向に行きたいって、思った」
その言葉が、ゆうべの「同じ方向に行きたい人だけが残る」と、私の中で、ぴたりと重なった。私は、もう、自分の感情に赤を入れるのを、やめた。
「……私も。岡山で、車両が切り離されてるの見ながら、ずっと思ってました。この人と、まだお別れしたくないなって」
透さんの手が、ためらいがちに伸びて、私の手を取った。蕎麦を打つ、無駄のない、温かい手だった。
7. 宿の夜
夜、透さんは、私が荷物を預けた宿まで送ってくれた。古い木造の、小さな旅館だった。
玄関の前で、私たちは、しばらく立ち尽くしていた。お別れの言葉を言うには、二人とも、あまりに名残惜しそうな顔をしていた。
「……あの。お茶でも、飲んでいきませんか」
言ってから、心臓が口から出そうになった。お茶、なんて口実なのは、自分が一番わかっていた。透さんは、少し目を見開いて、それから、静かに頷いた。
通された部屋には、もう布団が一組、敷かれていた。一人で泊まるはずの、小さな部屋。窓の外で、海鳴りが低く響いている。
「……結衣さん」
「はい」
「俺、一晩しか一緒にいない人に、こんなこと思うの、初めてで。……でも、勘違いじゃないなら、触れたい」
正直すぎる言葉だった。誤魔化さない人なんだ、と思った。私は、自分から一歩、彼に近づいた。
「勘違いじゃ、ないです。……私も、同じこと、思ってました」
透さんの手が、私の頬を包んだ。その手が、ほんの少し緊張で震えているのがわかって、いとおしくなる。ゆっくり顔が近づいてきて、私はそっと目を閉じた。
唇が、やわらかく重なった。
「ん……」
最初は、触れるだけの、確かめるようなキス。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度。今度は、さっきより深く。
ちゅ……ちゅぷ……
「は……ん……っ」
唇の隙間から舌が触れて、私はおずおずと応えた。蕎麦と、ほんの少しの潮の匂い。一晩じゅう聞いていた低い声の主が、いま、こんなに近くにいる。それだけで、体の芯が、じんと熱を持ちはじめた。
8. ほどけていく
布団の上に、そっと横たえられた。透さんが、覆いかぶさるように、私を見下ろす。窓の外の海鳴りと、自分の心臓の音が、混ざって聞こえた。
「……緊張してる?」
「……してます。でも、やめないで」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。透さんが、ふっと笑って、私の浴衣の襟元に、指をかける。帯がほどかれて、肩から布が滑り落ちていく。その手つきが、あんまり優しくて、急かされないことに、かえって体が疼いた。
「……きれいだ」
「やだ……あんまり、見ないで……」
「無理です。さっきから、ずっと見てたいと思ってたのに」
照れ隠しもしない言葉に、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。透さんの唇が、首筋に降りてきた。
ちゅ……ちゅっ……
「ん……っ」
鎖骨に、肩に、彼の唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震える。露わになった胸を、彼の大きな手が、そっと包んだ。
「あ……っ」
「……柔らかい」
「もう……いちいち、言わないで……っ」
やわやわと、形を確かめるように揉まれて、私は顔を背けた。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねる。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「ここ、弱いんだ」
「言わ、ないでって……っ」
口では強がるのに、透さんが先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。蕎麦を打つ、あの静かな手と唇が、いま、私の体だけに集中している。それが、たまらなく恥ずかしくて、嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「力、抜いて。……痛くしないから」
その声に、自然と体の力が抜けた。透さんの指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。
「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、彼の指が、直接そこに触れた。
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……もう、こんなに」
「言わないで……っ♡ キスの、ときから……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、透さんの指は優しい。敏感な突起を、指の腹でくるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
「うん。教えて。結衣さんの、弱いとこ」
指が、ゆっくり中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中をゆっくり押し広げて、感じる場所を、探るように撫でた。弱い場所を指の腹で擦られて、同時に親指で突起を転がされて、私の腰は、もう自分の意思では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
「いいよ。イって」
「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に高みへ押し上げられた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。透さんの腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。息を切らせる私の額に、彼がそっとキスを落とす。汗で張りついた前髪を、指で優しくよけてくれた。
9. 同じ夜の奥で
「……ねえ、透さん」
「ん」
「私ばっかり、ずるい。……透さんも、ちゃんと」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、透さんとなら、言えた。彼が、ごくりと喉を鳴らす。私はゆっくり体を起こして、彼の作務衣の帯に手をかけた。
透さんが、私をそっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
「結衣さん。……いい?」
「うん……っ。来て、透さん」
「……つけるから、待って」
「……うん」
避妊具をつける彼を、私はぼうっと見ていた。ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さが、彼らしかった。準備を終えて、透さんがもう一度、私の頬に手を添える。
「いくよ」
「……優しく、して」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は彼の背中に腕を回してしがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。
ずず……っ
「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
「……っ、結衣さんの中、すごく熱い」
根元まで収まって、透さんがふっと息を吐いた。繋がった場所から、昨日からの距離が、じんわりと埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
「……繋がってる。私たち、繋がってるね……っ♡」
「ああ。……ひと晩で、こんなになるなんて、思わなかった」
透さんが、ゆっくり動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。
「結衣さん。気持ちいい?」
「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
「俺も。……ずっと、こうしてたい」
その言葉に、胸の奥が震えた。私は彼の首に腕を回して、自分から唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
「ここ、好き?」
「っ♡♡ 好き……っ♡ 透さんの、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でもわからなくなった。たぶん、どっちもだった。透さんが私の脚を抱え直して、結合が深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
「結衣さん、中、すごい締まってる」
「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
海鳴りと、二人の息と、肌のぶつかる音が、部屋に満ちる。私は、もう何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、昨日からの想いが、体の奥から溢れてくる。
「結衣さん……そろそろ……っ」
「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
透さんが私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 透さん、一緒に……っ♡♡」
「ああ……っ、結衣さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ♡ すごかった……」
「……結衣さん」
「ん……?」
「一晩で、なんて言ったら、軽い男だと思われそうだけど。……俺は、本気だよ」
私は、彼の胸に頬をすり寄せて、こくりと頷いた。
10. 同じ方向へ
気づくと、障子の向こうが、少しずつ白みはじめていた。
朝の淡い光が、部屋をうっすらと照らしている。私は透さんの腕に頭を預けて、その光をぼんやり眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。
「……ねえ、透さん」
「ん」
「私、明後日には、東京に戻らなきゃ」
「……うん。わかってる」
口にしてから、胸がきゅっと痛んだ。出雲と東京。遠い。昨日までの私なら、きっと「だから、これは一夜限り」と、自分の心に赤を入れて、なかったことにしていた。でも——。
「でもね。岡山で、車両が切り離されるの見たとき、透さん、言ったでしょう。同じ方向に行きたい人だけが、最後まで残るって」
「……言ったね」
「私、残りたい。すぐには無理でも、ちょっとずつ、透さんと同じ方向に、行きたい」
透さんが、体を起こして、私を見下ろした。寝起きの、少しくしゃくしゃの髪。その顔が、ゆっくりとほどけるように、笑った。
「結衣さん。校正の仕事、東京じゃないと、できない?」
「……今すぐは、無理。でも、いつかは、どこででも、できる仕事かもしれない」
「じゃあ、それまで、俺がサンライズで会いに行く。月に一度でも。……東京、片道で行けるんだ。便利だろ」
冗談めかして言う彼の目が、少しも逃げていないことに、私は気づいた。一晩の汽車旅で出会った人。それなのに、この先の景色を、もう一緒に見ようとしてくれている。
「……縁結びの神様に、お礼、言わなきゃ」
「お参り、まだ済んでないの?」
「ううん、済んだ。済んだけど……効き目が、早すぎて」
透さんが、声を上げて笑った。その笑顔のまま、私の頬に、おはようのキスを落とす。
帰りの日、出雲市駅のホームで、私は一人、上りのサンライズに乗り込んだ。透さんは、改札の外で、ずっと手を振っていた。藍色の車体が、ゆっくり動き出す。窓の外を、出雲の山並みが流れていく。
(次は、私が会いに来る番だ)
衝動で飛び乗った夜行列車。何も決められないと思っていた私が、生まれて初めて、自分から「この人と、同じ方向に行きたい」と決めた旅。
スマホが、ぽん、と鳴った。透さんからだった。「気をつけて。次の割子、もう一段増やしとく」。私は、くすっと笑って、窓に頬を寄せた。
東京へ向かう車窓に、初夏の光が、まぶしく満ちていた。私の手の中には、もう、手放したくないご縁が、ちゃんと一つ、握られていた。
― 終 ―