1. 終電みたいな帰郷
私、瀬戸千夏、27歳。 東京の小さな制作会社で、グラフィックデザイナーをしていた。
「していた」と過去形になったのは、先月、休職に入ったからだ。
きっかけなんて、後から振り返れば些細なことだった。 入稿前の徹夜が三日続いて、四日目の朝、会社の最寄り駅のホームで、私は突然涙が止まらなくなった。電車が来ても、足が一歩も動かない。手すりを掴んだまま、四本やり過ごして、それでもまだ動けなかった。 心療内科の先生は、私の顔を見るなり「少し、休みましょうか」と言った。
実家に帰る、と決めたのは半分やけくそだった。 東京のワンルームで一人、天井を見上げているのが怖かった。何もしていない時間が、私を責めてくる気がした。
特急を乗り継いで、最後はディーゼルの単線。 窓の外を、稲刈りの終わった田んぼと、灰色がかった秋の海が、交互に流れていく。 潮の匂いが、車内にまで滲んでくる。
(……変わってないな、ここ)
降り立った駅は、無人駅になっていた。 私が高校を出て東京に行った九年の間に、改札の駅員さんはいなくなって、自動の集札箱が置かれているだけ。 ホームに、私のほかに降りる人はいなかった。
十月の海辺は、もう肌寒い。 潮風が、東京で凝り固まった私の肩を、いきなり撫でていった。
(帰ってきちゃった)
母には「しばらく休む」とだけ伝えてあった。 実家は、駅から歩いて十五分の漁師町の中にある。 坂を下って、細い路地を抜けると、軒の低い家が肩を寄せ合うように並んでいて、その向こうに、見慣れた漁港が見える。
そこで、私は足を止めた。
防波堤の内側に、小さな漁船が何隻も舫われている。 そのうちの一隻の甲板で、一人の男が、網を手繰っていた。
遠目にも、背中が大きい。 ゴム引きの胴付き長靴。色の褪せたヤッケ。 慣れた手つきで、濡れた網をたぐっては、足元のかごに落としていく。 夕方の斜めの光が、その横顔を照らした。
(……え)
知っている顔だった。 いや、知っているはずなのに、知らない顔でもあった。
2. 浜野湊
「湊……?」
口に出してから、自分の声が掠れているのに気づいた。 男の手が、止まる。 こっちを見て、しばらく目を細めて——それから、ふっと、その顔が崩れた。
「……千夏か?」
浜野湊。 私の、幼馴染だ。
家が三軒隣で、保育園から中学まで一緒で、登下校もいつも同じ道。 子どもの頃は、毎日のように一緒に磯で遊んだ。ヤドカリを捕って、競争して、よく転んで、よく泣かされた。 背だけはひょろりと高くて、いつも日に焼けていて、私のことを「千夏」と呼び捨てにする、ただの近所の男子。
その湊が、船の上にいた。
「うそ……湊、漁師になったの?」
「なったの、って。見りゃ分かるだろ」
そう言って、湊は軍手を外した。 舫いを手繰り寄せて、船を岸壁にぴたりと寄せると、ひょい、と身軽に岸に上がってくる。
近くで見て、息を呑んだ。
子どもの頃のひょろりとした面影は、もうどこにもなかった。 肩も、腕も、厚い。Tシャツの上からヤッケを羽織っただけの胸板が、塩で固まったみたいに頑丈そうだ。 顔は真っ黒に焼けていて、目尻に、笑うと細かい皺が寄る。 そして——手。 差し出されたわけでもないのに、私はその手を見ていた。 節くれだって、ところどころ皮が剥けて、指の太い、大きな手。 東京で私が握っていたのは、マウスとスマホと、冷たいアルミの手すりだけだった。
(……なんか、男の人の手だ)
そんな当たり前のことを、私は今さら思っていた。
「親父が腰やってさ。三年前から、おれが定置やってる」
「定置網……」
「朝早ぇぞ。毎朝、暗いうちから出る」
湊は、かごの中を覗き込んだ私に、無造作にそれを傾けてみせた。 銀色の魚が、夕日を弾いて、跳ねている。
「秋刀魚と、鯵と、たまにいいのが入る。……ほら」
ひときわ大きな魚を一匹、つまみ上げる。
「持ってけ。お前んち、今日これで一品増えるだろ」
「えっ、いいよ、悪いし」
「いいから。……久しぶりに帰ってきたんだろ。顔色、悪いぞ」
さらっと言われて、どきっとした。 化粧でごまかしたつもりだった顔色を、湊は一目で見抜いていた。 昔から、そういうやつだった。私が転んで、痛いのを我慢して笑っていると、「無理すんな」と、いつも先に気づく。
「……ありがと」
「おう」
新聞紙にくるんだ魚を押し付けられて、私はそれを抱えて、坂を上った。 腕の中で、魚はまだ少し冷たくて、潮の匂いがした。
なんでだろう。 東京を出てから、ずっと胸につかえていた重たいものが、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
3. 明け方の港
実家に帰ると、母は「あらまあ」と言って、私を抱きしめもせず、ただ台所に通した。 このあっさりした感じが、今の私にはありがたかった。
湊にもらった魚を見せると、母は笑った。
「湊くんね。あの子、いい漁師になったのよ。お父さんが倒れたとき、東京の会社辞めて帰ってきてね」
「……湊、東京で働いてたんだ」
「知らなかったの? あんたたち、あんなに仲良かったのに」
知らなかった。 高校が別々になって、私が東京に出てから、私たちはなんとなく連絡を取らなくなっていた。 湊が一度東京に出て、そして地元に帰ってきていたことも、今初めて知った。
その夜、母がさばいてくれた魚は、信じられないくらい美味しかった。 脂が乗っていて、身がしっかりしていて。 東京のスーパーで買う、ラップに包まれた切り身とは、まるで別の食べ物だった。
久しぶりに、ごはんを「美味しい」と思った。 休職してから、何を食べても味がしなかったのに。
翌朝、私は四時に目が覚めた。 東京にいた頃の、強迫的な早起きの癖が抜けていない。 布団の中で、また天井を睨んで——でも、その日は、なぜか起き上がった。
外はまだ真っ暗で、空気が刺すように冷たい。 私は、無意識に、港のほうへ歩いていた。
防波堤に出ると、沖のほうに、ぽつんと灯りが見えた。 漁船の明かりだ。 それが、ゆっくりと、こちらに戻ってくる。
岸壁で待っていると、エンジンの音が大きくなって、船が滑り込んできた。 舳先に立っているのは、湊だった。
「……なんだ。なんでこんな時間にいんだよ」
「目が、覚めちゃって」
「東京の人間が、朝弱いって相場は決まってんだろ」
そう言いながらも、湊はちょっと嬉しそうだった。 舫いを取ってくれ、と顎で示されて、私は岸壁のビットにロープを掛けた。 やり方なんて、子どもの頃に見て覚えたきりなのに、手が勝手に動いた。
「お、覚えてんじゃん」
「子どもの頃、湊のお父さんの船、よく見てたから」
東の空が、少しずつ白んでいく。 水平線のあたりが、薄い桃色に染まって、海がそれを鏡みたいに映している。 冷たい空気の中で、湊の吐く息が白い。
(……きれい)
東京で、私はいつから空を見上げていなかっただろう。 ビルとビルの間の、切り取られた灰色の空。 ここの空は、端から端まで、全部空だった。
「寒いだろ。これ、飲め」
湊が、保温ポットから、湯気の立つお茶を紙コップに注いで、差し出してくれた。 受け取るとき、指先が、ほんの少し触れた。 彼の手は、外の冷たさとは裏腹に、びっくりするほど温かかった。
(……あったかい)
私は、その温かさを、両手で包むように持っていた。
4. 結衣の探り
それから私は、毎朝、港に行くようになった。
理由なんて、自分でもよく分からなかった。 ただ、暗いうちに目が覚めて、布団の中で天井を睨んでいるより、港で湊の船を待っているほうが、ずっと息がしやすかった。
湊は、私が来ても、来なくても、いつも通りだった。 網を上げて、魚を選別して、合間にお茶をくれて、「顔色、ちょっとマシになったな」とぶっきらぼうに言う。 それだけ。 それだけなのに、私は少しずつ、自分の輪郭を取り戻していくみたいだった。
ある昼下がり、町に一軒だけある商店に行くと、レジに見覚えのある顔がいた。
「……えっ、千夏!? 千夏でしょ!」
朝倉結衣。 私と湊の、共通の幼馴染だ。三人、いつもつるんでいた。 結衣は実家の商店を継いで、今は店番をしているらしい。
「帰ってきてるって、湊から聞いてたけど! もー、なんで連絡くれないのよ!」
「ごめん……ちょっと、いろいろあって」
「いいのいいの。顔見れたから。……ていうか、あんた」
結衣は、レジ越しに、ずいっと顔を近づけてきた。
「毎朝、湊の港に通ってるって、ほんと?」
「……っ、なんで知ってるの」
「狭い町なめんな。みんな知ってるわよ」
私は、耳が熱くなるのを感じた。 別に、やましいことなんて、何もないのに。
「湊ね、結婚してないのよ。彼女もいない」
「べ、別に、そんなこと聞いてないし」
「聞いてないのに、なんで顔赤いの?」
結衣が、にやにやと笑う。昔から、こういう勘の鋭いやつだった。
「あいつ、東京の会社、結構いいとこ入ってたのよ。でも、お父さんが倒れたって聞いた次の日には、辞表出して帰ってきた。『おれが継がなきゃ、この港、終わるから』って」
「……そうなんだ」
「かっこいいでしょ。誰も継ぎたがらないこの町で、一人で踏ん張ってんだから」
私は、何も言えなかった。 東京の駅のホームで、足が動かなくなった自分を思い出していた。 私は、逃げてきた。 湊は、踏みとどまった。 同じ町で育って、同じ海を見て、どうしてこんなに違うんだろう。
「ねえ千夏。あんた、今、すごく無理してた顔から、ちょっとずつ人間の顔に戻ってきてるよ」
「……そう、かな」
「うん。……それ、たぶん、湊のおかげだと思うけど」
結衣は、そう言って、いたずらっぽく笑った。
5. 秋祭りの準備
十月の終わりに、町では小さな秋祭りがある。 豊漁と無事を、海の神様に感謝する祭りだ。 子どもの頃は、湊と結衣と三人で、屋台を回って、神輿の後ろをついて歩いた。
その準備を、町の人総出でやる。 私も、することがないからと、結衣に引っ張り出された。
公民館の前で、大人たちが提灯を吊るし、注連縄を綯い、神輿の漆を磨いている。 その中心に、湊がいた。 半纏を羽織って、神輿の担ぎ棒を、軽々と組み上げていく。 町の年寄りたちが、「湊、そっち持ってくれ」「おう」と、彼を頼りにしている。
(……ここにちゃんと、居場所がある人なんだ)
私は、ガムテープと提灯を抱えたまま、その姿を、つい目で追っていた。
「千夏、それ、こっち」
呼ばれて、はっとする。 慌てて駆け寄ると、湊が高い軒に提灯を吊るそうとして、手が届かずにいた。
「肩、貸して」
「えっ」
「ちげぇよ、踏み台。ちょっと屈むから、提灯渡して」
私が提灯を渡すと、湊は脚立に上って、軒の釘に紐を掛けた。 その時、脚立がぐらりと揺れた。
「危なっ……!」
とっさに、私は彼の腰のあたりに手を回して、支えていた。 半纏越しに、引き締まった体の感触が、手のひらに伝わる。 湊が、ちょっと驚いたように、私を見下ろした。
「……サンキュ」
「……ううん」
手を離すのが、なぜか、一瞬遅れた。 気づいたら、心臓が、変な速さで鳴っていた。
日が暮れて、準備が終わると、町の人たちが車座になって、お茶を飲み始めた。 私と湊は、なんとなく、公民館の裏の堤防に並んで座った。 目の前には、暗い海。 ぽつぽつと、漁火が浮かんでいる。
「お前さ」
「ん?」
「東京で、何があった」
私は、膝を抱えた。 誰にも、ちゃんと話していなかった。母にも、結衣にも。
「……朝、電車に乗れなくなったの」
「……」
「がんばってたつもりだった。けど、ある朝、ホームで足が動かなくなって、涙が止まらなくなって。……自分でも、何が悲しいのか、分かんなかった」
湊は、何も言わずに、聞いていた。 慰めも、励ましも、しなかった。 ただ、私の隣で、同じ海を見ていた。 その沈黙が、東京で浴びたどんな言葉より、優しかった。
「……海はさ」
しばらくして、湊が、ぽつりと言った。
「凪の日もあれば、時化の日もある。毎日違う。無理に出ようとすると、死ぬ。だから、時化の日は、休む。それだけだ」
「……」
「お前は今、時化なんだよ。休めばいい。海は、逃げねぇから」
私は、その言葉を、何度も心の中で繰り返した。 休めばいい。 誰かにそう言ってほしかったのだと、初めて気づいた。
気づいたら、私は、泣いていた。 東京の駅で流したのとは、まるで違う涙だった。 湊は、それも、黙って見ていた。ティッシュも、肩も、差し出さなかった。 でも、立ち去りもしなかった。 ただ、そこに、居てくれた。
6. 祭りの夜
秋祭りの当日は、よく晴れた。
昼間は神輿が町を練り歩き、夕方になると、漁港の広場に屋台が並んだ。 焼きそば、たこ焼き、わたあめ。 子どもたちが走り回り、年寄りたちが縁台で酒を酌み交わす。 町中の人が、ここに集まっていた。
私は、母の箪笥から借りた浴衣を着ていた。 紺地に、白い萩の花。少し丈が短いのは、母の若い頃のものだからだ。
「千夏、めっちゃ似合ってる! ねえ湊、見て見て」
結衣に背中を押されて、湊の前に立つ。 半纏姿の湊が、私を見て——一瞬、言葉に詰まった。
「……お前、そういうの着ると、ちゃんと女に見えんな」
「ちょっと、それ褒めてる?」
「褒めてる」
ぶっきらぼうに言って、湊は目をそらした。 焼けた頬が、祭りの提灯のせいなのか、ほんの少し赤いように見えた。
「はいはい、お邪魔虫は退散しますよーだ。あとは若い二人で」
「ちょっ、結衣!」
結衣は、にやにやしながら、人混みに消えていった。 残された私と湊は、なんとなく、屋台を二人で回った。
湊が、射的で狙いを定める。 パン、と乾いた音。景品の、海の生き物のぬいぐるみが落ちた。
「ほら」
「えっ、私に?」
「いらねぇなら、いいけど」
「……いる。ありがと」
タコのぬいぐるみを抱えて、私はちょっと笑った。 子どもの頃も、湊は射的が上手かった。 私が取れなくて悔しがっていると、いつも代わりに取ってくれた。 あの頃と、何も変わっていない。 でも、何かが、決定的に変わっていた。
祭りが終わりに近づいて、人がまばらになった頃。 私たちは、屋台の喧騒を抜けて、防波堤の先まで歩いた。 潮騒だけが聞こえる。
「千夏」
「ん?」
「お前、東京、戻るのか」
その問いに、私は、すぐに答えられなかった。 休職は、あと二ヶ月。 戻る場所は、まだ、ある。 でも——。
「……分かんない。戻る、って言えば戻る。でも」
「でも?」
「……ここに、いたいって、思ってる自分もいる」
言ってしまってから、心臓がうるさくなった。 それが、ここの海のせいなのか、この町のせいなのか、それとも——隣にいる、この男のせいなのか。 自分でも、分からなかった。 ううん。本当は、分かっていた。 分かっていて、認めるのが、怖かった。
湊が、こっちを見た。 祭りの最後の花火が、一発だけ、夜空に上がる。 その光が、湊の顔を、一瞬、明るく照らした。
「……おれは」
湊が、何か言いかけて、口をつぐんだ。 それから、大きく息を吸って、まっすぐ私を見た。
「おれは、お前に、いてほしい」
潮騒が、やけに大きく聞こえた。
7. 時化の夜
その夜から、低気圧が近づいてきた。
翌日は、朝から大時化だった。 波が防波堤を越えて、漁船はすべて陸に揚げられ、港は休漁になった。 湊の船も、出られない。
母が「結衣のところに醤油を借りてきて」と言うので、私は雨合羽を着て、外に出た。 横殴りの雨の中、商店までの道を急ぐ。 その途中、港の番屋——漁師たちが網を繕ったり、休んだりする小屋——の灯りがついているのが見えた。
覗くと、湊が一人、網を繕っていた。
「……なんだ、こんな日に出歩いて。危ねぇぞ」
「醤油、借りに。……湊は、こんな日も仕事なんだ」
「出られねぇからこそ、やることがあんだよ。網直したり、道具の手入れしたり」
中に入ると、ストーブが焚かれていて、暖かかった。 雨に濡れた合羽を脱ぐと、湊が、自分のタオルを投げてよこした。
「髪、拭けよ。風邪ひく」
「……ありがと」
タオルからは、潮と、ほんの少し、湊の匂いがした。 私は、その匂いを、なぜか深く吸い込んでいた。
番屋の窓を、雨粒が叩いている。 外は、海も空も、灰色に荒れている。 でも、この小さな小屋の中だけは、ストーブの火で、オレンジ色に温かかった。
「ねえ、湊」
「ん」
「昨日の、あれ……本気?」
網を繕う、湊の手が止まった。 ゆっくりと、顔を上げる。
「本気じゃなかったら、言わねぇよ」
私の心臓が、跳ねた。
「……ガキの頃から、お前のことは知ってた。けど、あの頃は、ただの幼馴染だった。お前が東京に行って、おれも一回外に出て、戻ってきて。……正直、もう会うこともねぇと思ってた」
「……」
「なのに、お前が、ふらっと帰ってきて。あの夕方、港で名前呼ばれたとき……なんか、心臓が、変な動きしたんだよ」
私は、息を止めて、聞いていた。
「毎朝、港に来るお前を見て、顔色が日に日に良くなってくのを見て。……ああ、おれ、こいつのこと、ほっとけねぇんだなって。違うな。……ほっときたくねぇんだ」
湊が、立ち上がった。 ストーブの灯りを背に、私の前に立つ。 大きな影が、私を覆う。
「千夏」
「……うん」
「逃げてきたって、いいんだよ。おれは、逃げてきたお前を、ここで拾う係でいい」
その言葉に、何かが、私の中で決壊した。 ずっと、強くいなきゃと思っていた。 ちゃんとしなきゃ、迷惑かけちゃいけない、弱音を吐いちゃいけない。 そう自分を縛っていた糸が、湊の前で、ぷつりと切れた。
「……私、ずっと、怖かった」
「ああ」
「誰かに、頼るのが。頼ったら、嫌われるって、ずっと思ってた」
「……バカだな」
湊が、そっと、私を引き寄せた。 節くれだった、大きな手が、私の背中に回る。 半纏とは違う、潮で硬くなったシャツ越しに、彼の体温が伝わってくる。
私は、抵抗しなかった。 むしろ、自分から、その胸に、額を預けた。
8. ストーブの灯りの中で
どちらからともなく、顔を上げた。
湊の顔が、すぐ近くにあった。 日に焼けた肌。目尻の皺。私を見る、まっすぐな目。 その目の中で、ストーブの炎が、揺れている。
「……いいか」
「……うん」
ゆっくりと、唇が重なった。
ちゅ。
最初は、触れるだけ。 潮の味がする、と思った。乾いて、少しかさついた唇。 でも、その不器用さが、たまらなく愛おしかった。 東京で、私が知っていたどんな滑らかなものより、ずっと。
「ん……」
一度離れて、湊が、私の目を覗き込む。 私が小さく頷くと、もう一度、今度は少し深く、唇が重なった。
ちゅ……ちゅぷ……
「ん……っ」
おずおずと差し込まれた舌に、私から舌を絡める。 湊が、少し驚いたように、でもすぐに応えてくれた。
ちゅる……れろ……
「は……っ、湊……」
背中に回された手に、力がこもる。 その力強さに、膝から力が抜けそうになった。 私は、彼の半纏を、きゅっと掴んでいた。
「……千夏。おれ、止まれなくなる」
「……止まらなくて、いい」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。 でも、嘘じゃなかった。 この温かさを、潮の匂いを、この人の手を、もっと近くで感じたかった。
湊が、番屋の奥にある、畳敷きの小上がりに、私を導いた。 漁師たちが仮眠を取るための場所らしい。 古い毛布が、きちんと畳まれている。 湊が、それを広げてくれた。
ストーブの火が、ぱちりと爆ぜる。 窓の外では、まだ雨が、海を叩いている。
「寒くないか」
「……ううん。あったかい」
湊の手が、私の浴衣の——いや、今日は普段着だった——カーディガンのボタンに、おそるおそる伸びる。 その手が、ほんの少し、震えていた。 あんなに大きくて、頼もしい手が。
(……湊も、緊張してるんだ)
そう思ったら、なぜか、すとんと、力が抜けた。 私は、自分から、その手に、自分の手を重ねた。
「……いいよ。脱がせて」
9. 凪
カーディガンが、肩から滑り落ちた。 その下のブラウスのボタンを、湊が、一つずつ外していく。 不器用な手つきで、でも、丁寧に。
ブラウスの前がはだけて、淡い色のブラに包まれた胸が、こぼれる。 湊が、ごくり、と喉を鳴らした。
「……綺麗だ」
「あんまり、見ないで……恥ずかしい」
「無理だ。見る」
ストレートな言葉に、顔が熱くなる。 湊の手が、背中に回って、ブラのホックを探す。 何度かもたついて、ようやく、ぷつりと外れた。
ぷるん。
解放された胸が、ストーブの灯りの下で、柔らかく揺れる。 湊の、節くれだった大きな手が、それを、そっと包んだ。
「ん……っ」
ひんやりしているかと思った手は、驚くほど温かかった。 その大きな手のひらに、私の胸が、すっぽりと収まる。 ゆっくりと、揉まれる。 力加減が、おそるおそるで、優しい。
「……痛くないか」
「……うん。だいじょうぶ。……もっと、ちゃんと、触っていいよ」
私が言うと、湊の手が、少しだけ大胆になった。 指の腹が、胸の先に触れる。 くりっ。
「あっ……♡」
思わず、声が漏れた。 自分でも、びっくりするくらい、甘い声だった。
「……ここ、感じる?」
「ん……っ、湊の手、おっきいから……♡」
湊が、胸の先を、指で転がす。 もう片方の胸の先には、唇を寄せて、舌で、ちろりと舐めた。
れろ……ちゅ……
「ひゃっ……♡ あっ、湊……♡」
ぞくぞくと、背筋を、甘い痺れが駆け上がる。 東京で、忘れていた感覚だった。 誰かに触れられて、こんなに心がほどけるなんて。 私は、毛布の上で、身をよじった。
湊の手が、ゆっくりと、お腹を撫でて、下りていく。 スカートの中に、その手が忍び込む。 太ももの内側を、大きな手のひらが、撫で上げた。
「あっ……♡」
「……すげぇ。もう、こんなに」
下着の上から、そっと触れられて、自分でも分かるくらい、そこが濡れているのに気づいた。 恥ずかしくて、顔を覆う。
「言わないで……っ」
「なんで。……嬉しいよ。おれで、こうなってくれてんだろ」
下着の脇から、湊の指が、そっと滑り込む。 ぬるり、と、指先が、潤んだそこをなぞった。
くちゅ。
「あぅっ……♡」
「……ここか」
湊の指が、敏感な突起を見つけて、ゆっくりと、円を描くように撫でる。 くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ、だめ……♡」
「だめじゃねぇだろ。……気持ちいいんだろ」
「……っ、いじわる……♡」
指の動きに合わせて、腰が勝手に揺れる。 湊は、私の反応を見ながら、緩急をつけてくる。 漁の網を手繰るときの、あの慎重で、的確な手つきで。
太い指が、一本、ゆっくりと、中に入ってくる。 ずぷ……
「ん……っ♡ あ……♡」
「……きつ。大丈夫か」
「……うん。……湊の指、太い……♡」
中を、ゆっくりとかき混ぜられる。 ざらついた一点を、指の腹が掠めるたびに、腰が跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ そこ、やぁ……♡ へんになる……っ♡」
「なっていいよ。……おれしか、見てねぇから」
その言葉に、何かが、ふっと、ほどけた。 私は、もう、我慢しなかった。
「あっ♡ あっ♡ 湊っ……♡ わたし、もう……っ♡」
「いいよ。イけ」
指の動きが、速くなる。 くちゅくちゅくちゅっ♡
「あぁっ♡♡ イくっ……♡ イっちゃう……っ♡♡」
びくんっ、と腰が跳ねて、私は、湊の指で、達してしまった。 全身から、力が抜ける。 息を切らせて、毛布の上に沈み込んだ私を、湊が、優しく抱き寄せた。
「はぁっ……♡ はぁっ……♡」
「……すげぇ顔してた」
「……ばか。見ないでって、言ったのに」
私は、彼の胸に顔を埋めた。 心臓の音が、すぐそこで、力強く鳴っている。 その音を聞いていたら、私のほうも、もっと近くに行きたくなった。
「……湊」
「ん」
「……来て。もっと、ちゃんと、千夏のこと、抱いて」
湊が、息を呑んだ。 そして、自分のシャツを脱ぎ捨てる。 現れたのは、漁で鍛え抜かれた、無駄のない体だった。 肩も、胸も、腕も、厚い。 塩と日差しが作り上げた、男の体。 私は、思わず、その胸に手を伸ばしていた。
「……すごい。かたい」
「毎日、網上げてっとな」
湊が、私の残った服を、そっと取り去る。 そして、自分も裸になって、私の脚の間に、体を進めた。 熱くて、硬いものが、潤んだ入り口に、当てられる。
「……入れていいか」
「……うん。来て」
「痛かったら、言え。すぐ止める」
その気遣いが、たまらなく、優しかった。 私は、こくりと頷いた。
ずぷ……ずぷぷっ……
「ん……っ♡ あぁ……♡」
ゆっくりと、押し入ってくる。 太くて、熱くて。 中が、いっぱいに押し広げられていく。 湊は、私の様子を見ながら、少しずつ、奥へと進んでいった。
「……くっ。すげぇ、締まる」
「湊の……っ、おっきい……♡ 奥まで、来てる……♡」
根元まで、収まる。 二人の体が、ぴたりと重なって、私は、彼の背中に腕を回した。 汗ばんだ、広い背中。 その向こうで、雨の音が、まだ続いている。
「動くぞ」
「……うん」
ゆっくりと、湊が、腰を動かし始めた。 ずちゅ……ずちゅ……
「あっ♡ あっ♡ んっ♡」
最初は、確かめるように。 だんだんと、リズムをつけて。 彼が引くたびに、中がきゅっと締まって、押し込むたびに、奥がとろけていく。
「あっ♡ 湊っ……♡ そこっ……♡」
「ここか。……千夏、すげぇ可愛い顔してる」
「言わ、ないで……っ♡ 恥ずかし……っ♡」
ずちゅっ♡ ずちゅっ♡ ぱちゅんっ♡
奥を突かれるたびに、目の前が、白く揺れる。 私は、湊の背中に、爪を立てていた。
「あっ♡あっ♡ 湊っ……♡ 好きっ……♡ ずっと、好きだったのかもっ……♡」
口から、勝手に、本音がこぼれた。 言ってから、はっとしたけど、もう、止められなかった。
「……おれもだ。千夏。……ずっと、お前のことだけ」
湊が、私を、強く抱きしめた。 腰の動きが、深く、激しくなる。 ぱちゅんっ♡ ぱちゅんっ♡ ぱちゅんっ♡
「あぁっ♡♡ 奥っ……♡ そんなにされたらっ……♡ また、イっちゃうっ♡♡」
「いいよ。一緒に、イこう」
「うんっ♡ 一緒がいいっ……♡」
二人の体が、ぶつかり合う。 汗が、混ざる。 潮の匂いと、お互いの匂いが、ストーブの熱気の中で、溶け合っていく。
「千夏っ……出るっ……」
「外に……っ、外にちょうだいっ♡♡ あぁっ♡ イくっ、イっちゃうっ♡♡♡」
ぱちゅんっ♡♡♡
「——————っ♡♡♡」
最奥を、ぐっと突かれた瞬間、私は、頭が真っ白になった。 びくびくと、全身が震える。 ほぼ同時に、湊が、ぎりぎりで身を引いた。
どくっ……どくどくっ……
私のお腹の上に、熱いものが、飛び散る。 湊の、荒い息が、首筋にかかった。
「……はぁっ……はぁっ……」
「はぁ……っ♡ はぁ……っ♡」
しばらく、二人とも、動けなかった。 私は、湊の体の重みを、心地よく受け止めていた。 こんなに穏やかな気持ちは、何年ぶりだろう。 心が、凪いでいた。 さっきまで荒れていた、私の心の海が。
「……ティッシュ、そこの棚に」
「……ふふ。漁師の小屋に、ティッシュなんてあるんだ」
「鼻かむんだよ、寒いと」
その、なんてことない会話が、おかしくて、私は笑った。 湊も、つられて笑った。 二人で笑いながら、私は、ずっとこうしていたい、と思っていた。
10. 海は、逃げない
目が覚めると、雨は上がっていた。
番屋の窓から、朝の光が差し込んでいる。 毛布にくるまって、私は、湊の腕の中にいた。 彼の寝顔は、海の上にいるときの、あの精悍な顔とは違って、どこか子どもみたいだった。
そっと、その頬に触れる。 湊が、ゆっくりと目を開けた。
「……起きたか」
「うん。……雨、やんだね」
「ああ。……今日は、凪だ」
湊が、起き上がって、窓の外を見た。 昨日まで荒れていた海が、嘘みたいに、穏やかに凪いでいる。 朝日が、その水面を、きらきらと照らしていた。
「千夏。……ちょっと、来い」
促されて、番屋を出る。 潮風が、頬を撫でた。 冷たいけれど、もう、東京の駅で感じた、あの肩を強張らせる風じゃなかった。
湊が、自分の船を指さした。
「乗るか」
「えっ、いいの?」
「凪だからな。少しだけ」
私は、湊の手を借りて、船に乗り込んだ。 エンジンが、低く唸る。 船が、ゆっくりと、防波堤を抜けて、沖に出ていく。
朝の海は、どこまでも広かった。 振り返ると、私が育った町が、小さく見える。 こんなに小さな町だったんだ、と思った。 でも、この小さな町に、私の居たい場所が、ちゃんとあった。
「千夏」
「ん?」
「東京に、戻るのか」
昨日と、同じ問い。 でも、私の答えは、もう、決まっていた。
「……一回は、戻る」
湊の顔が、一瞬、曇る。
「ちゃんと、けじめをつけなきゃ。仕事のことも、部屋のことも。逃げたまんまじゃ、だめだから」
そう。 逃げてきた。でも、もう、逃げたままでは終わらせない。 私は、自分の足で、ちゃんと、ここに戻ってくる。
「……でも、戻ってくる。ここに。湊のところに」
湊が、目を見開いた。 それから、くしゃっと、顔を崩して笑った。 あの、夕方の港で、私の名前を呼んだときと、同じ笑い方だった。
「……おう。待ってる」
「うん」
「いつまでも、待ってる。……海は、逃げねぇからな」
私は、その言葉に、頷いた。 そして、湊の隣に、ぴたりと寄り添った。
凪いだ海を、船が、静かに進む。 朝日が、二人を、温かく照らしている。
私は、東京で、たくさんのものをすり減らした。 笑い方も、ごはんの味も、誰かに頼ることも、全部、忘れていた。 それを、この海が、この町が、そして、この幼馴染が、一つずつ、返してくれた。
「ねえ、湊」
「ん」
「私、ここで、もう一回、ちゃんと生きてみたい」
「……ああ。一緒にな」
潮風の中で、私たちは、もう一度、唇を重ねた。
ちゅ。
しょっぱくて、温かい、海の味のキスだった。
九年ぶりに帰ってきた、何もない秋の漁師町。 でも、私は今、はっきりと分かる。 私の凪は、ここにあった。 そして、その凪を、隣で守ってくれる人も。
船が、港へと、帰っていく。 私の、本当の帰る場所へと。
― 終 ―