六月の鎌倉は、雨の匂いがした。
私、桐生鞠乃(きりゅうまりの)、二十九歳。都内の出版社で本の装丁——表紙やカバーのデザインをしている。今日は来月出る詩集のカバーに使う写真を撮るために、鎌倉まで来ていた。テーマは「梅雨の紫陽花」。明月院の青も北鎌倉の坂道も、編集の由香から「鞠乃の目で撮ってきて」と丸投げされて、私は朝から一人、傘を片手に濡れた石段を上り下りしていた。
(……降ってきたな、本格的に)
午後三時を過ぎたあたりで、ぽつぽつだった雨が急に勢いを増した。傘を差していても、横なぐりの雨でデニムの裾がぐっしょりになる。カメラだけは濡らせない。私はバッグで本体をかばいながら、雨宿りできる場所を探して、知らない路地へ折れた。
観光客の流れから外れた、細い坂道。その途中に、焦げ茶色の木の扉と、小さな看板がぽつんと出ていた。
『自家焙煎珈琲 みなと』
(……喫茶店だ。助かった)
深く考える余裕もなかった。私は濡れた傘を畳んで、その扉を押した。からん、と乾いたベルが鳴る。
中は、雨の外とは別世界だった。ふわっと、深く焙煎された珈琲豆の香り。むき出しの梁、古い木のカウンター、奥には大きな焙煎機。客は誰もいない。雨の音だけが、窓の外でさあさあと鳴っていた。
「いらっしゃい。すごい雨ですね、傘——」
カウンターの奥から、低い声がした。豆を量っていた手を止めて、その人が顔を上げる。エプロンを着けた、背の高い男の人。
その顔を見た瞬間、私は、息を止めた。
少し伸びた前髪。穏やかな目尻。五年分、輪郭が大人びていたけれど——間違えるはずがなかった。
「……湊?」
声が、勝手に喉から落ちた。
朝倉湊(あさくらみなと)、三十歳。大学のゼミで知り合って、社会人になってからも三年付き合った、私の元カレ。豆を量るその手が、ぴたりと止まった。
「……鞠乃」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
五年前のことを、私はたぶん、一生忘れない。
当時、湊はずっと言っていた。「いつか会社を辞めて、自分の珈琲の店を持ちたい。場所は、海と山のある町がいい」って。私はそれを、夢を語るときの口癖くらいに思っていた。
でも、湊は本気だった。二十五のとき、彼は会社を辞めて、鎌倉で焙煎の修行を始めると言い出した。「鞠乃も一緒に来てほしい」と。
そのとき私は、ようやく希望の装丁の仕事を任され始めたばかりだった。東京じゃなきゃできない仕事。やっと掴みかけた場所。私は——湊の手を取れなかった。
「ごめん。私は、東京で続けたいの。今、ここで降りたくない」
そう言って、私から別れを切り出した。振ったのは、私のほうだ。湊は怒らなかった。ただ静かに、「うん。鞠乃の夢、応援してる」とだけ言った。その物分かりのよさが、あのときの私には、いちばん痛かった。
それから五年。私はその選択を後悔しないように、必死で働いてきた。装丁の仕事は形になった。賞だってもらった。間違ってなかった、と思おうとしてきた。
なのに——そのぜんぶを選んで手に入れた私が今、傘も差せないほどの雨に追われて、よりにもよって、彼が叶えた夢の扉を、自分から押していた。
「とりあえず、座って。びしょ濡れじゃないか」
湊が先に、いつもの落ち着いた声に戻った。カウンターから出てきて、奥からタオルを持ってくる。差し出されたそれを受け取りながら、私は彼の手を見ないようにした。見たら、いろんなことを思い出してしまいそうで。
「……ありがとう。あの、お店、やってたんだ」
「三年前にね。修行して、独立して。……鞠乃は? なんで鎌倉に」
「仕事。詩集の表紙に使う、紫陽花の写真を撮りに来て、雨宿りで——まさか、ここがあなたの店だなんて」
言いながら、心臓がうるさかった。偶然にしては、できすぎている。
「温かいの、淹れるよ。冷えただろ」
湊はそう言って、返事も待たずにカウンターの中へ戻った。豆を挽く音。お湯を沸かす音。雨の音。三つの音が混ざって、店の中に満ちていく。
私はカウンター席に腰を下ろして、その背中を見ていた。ドリッパーにお湯を細く落とす、その手つき。昔、彼の小さなアパートで、休みの日に淹れてくれたのと同じ仕草。でも、あの頃よりずっと無駄がなくて、ずっと様になっていた。五年のあいだに、彼はちゃんと、彼の選んだ場所で生きてきたんだ。
(……気づいたら、目で追ってる)
軽く挨拶して、雨がやんだら出よう。そう思っていたのに、その背中から目が離せなかった。
やがて、白いカップが私の前にことりと置かれた。湯気が立ちのぼる。一口含むと、深いのに角がなくて、後味がすっと甘い。思わず、息が漏れた。
「……おいしい」
「よかった」
「ほんとに、おいしい。お世辞じゃなくて」
「鞠乃、昔から、お世辞言えないもんな」
湊が、ふっと笑った。その笑い方が昔のままで、胸の奥がきゅっとなる。
そのとき、奥のドアから、エプロン姿の若い女の子がひょっこり顔を出した。アルバイトらしい。
「店長、豆の袋詰め終わりました——あれ、お客さん? この雨なのに」
「ああ、七海ちゃん。……えっと、昔の、知り合い」
「へえ〜」
七海と呼ばれた子は、私と湊の顔を見比べて、にやっとした。何かを察したらしい。
「店長が他人を『知り合い』って呼ぶの、初めて聞きました。じゃ、わたし先あがりますね。雨ひどくなる前に。ごゆっくり〜」
ぱたぱたと、彼女は裏口から出ていってしまった。気を利かせたのが、丸わかりだった。店の中に、また私と湊だけが残される。
「……気を遣わせちゃった」
「あの子、勘がよすぎるんだ」
二人で、ちょっと笑った。その笑いが落ち着くと、急に、沈黙が降りた。
「紫陽花、撮れた?」
沈黙を破ったのは、湊のほうだった。私はカメラを少し持ち上げて、撮った写真を液晶で見せた。明月院の青、濡れた石段、雨粒を載せた花。湊は身を乗り出して、一枚一枚、丁寧に見てくれた。近い。肩が触れそうな距離に、彼の体温がある。
「……鞠乃の撮る写真、変わってないな。端っこに、必ず余白がある」
「え」
「昔、言ってただろ。『余白は、見る人が入ってくる場所』だって。今でも、ちゃんとある」
覚えていてくれたんだ、と思った。私が何気なく言った言葉を、五年も。軽く受け流されると思っていたのに、ちゃんと覚えていてくれた。それだけで、目の奥が熱くなりそうで、私は慌ててカップに口をつけた。
「……よく、覚えてるね、そんなこと」
「鞠乃のことは、だいたい覚えてる」
さらっと言われて、私は何も返せなくなった。雨は、いっこうにやまない。むしろ強くなって、窓ガラスを叩いている。湊が立ち上がって、入り口の札を「CLOSED」に返した。
「え、閉めちゃうの?」
「この雨じゃ、どうせもう客は来ない。……それに、鞠乃と、ちゃんと話したい」
低い声に、心臓が跳ねた。期待してる、なんて思われたくなくて、私はわざと、何でもないふりで肩をすくめた。でも、たぶん、ぜんぜん隠せていなかった。
湊は、二人分のおかわりを淹れて、今度はカウンターの中ではなく、私の隣の席に座った。
「鞠乃。あのときのこと、ずっと、謝りたかった」
「謝る? なんで湊が。振ったの、私だよ」
「うん。でも俺、ずるかった。『応援してる』なんて、物分かりのいいふりして。ほんとは、引き止めたかった。一緒に来てくれって、もっとちゃんと言えばよかった」
その言葉に、五年前の私が、胸の奥でぐらりと揺れた。
「……それは、私のほうだよ。私、ずっと自分に言い聞かせてた。あの選択は正しかったって。仕事も、ちゃんと形になったし。後悔なんてしてないって」
「してたの?」
「……っ」
ずるい質問だ。湊は、昔から、いちばん肝心なところを静かに突いてくる。私は、カップの中の黒い水面を見つめた。
「……後悔は、してない。仕事は、好きだもん。賞だって取った。間違ってなかったと思う。……でも」
「でも?」
「……たまに、思ってた。あの日、湊の手を取った私は、どこで、どんな顔して生きてたんだろうって。……ずるいよね。選んだのは自分のくせに」
言い終わったとき、自分の声が少し震えているのに気づいた。五年間、誰にも、自分にすら言わなかった本音だった。
湊は、何も言わずに、私のカップの横に置かれた手に、自分の手をそっと重ねた。温かい。豆の匂いのする、大きな手。
「鞠乃。俺、まだ、結婚してないし、付き合ってる人もいない」
「……なんで、今、それ言うの」
「鞠乃は」
「……いないよ。仕事ばっかり、してたから」
重ねられた手に、力がこもった。窓の外で、雨が、まるで世界に二人しかいないみたいに、ざあざあと降り続けている。
「五年前、言えなかったこと、今、言ってもいい?」
「……うん」
「ずっと、好きだった。別れてからも、ずっと。鞠乃以外、考えられなかった」
私は、顔を上げられなかった。上げたら、絶対に泣く。それでも、震える声で、五年前に言えなかった私の本音を返した。
「……私も。ほんとは、あのとき、追いかけてほしかった。バカみたいだよね。自分から振っといて」
「バカみたいだ。二人とも」
湊の手が、私の頬に触れた。涙でぐしゃぐしゃの私の顔を、彼が覗き込む。雨の匂いと、珈琲の匂い。その距離で、私はもう、逃げる気なんてなかった。
「鞠乃。キス、していい?」
「……聞かないでよ、そういうの」
それが、答えだった。湊の顔がゆっくり近づいて、五年ぶりに、彼の唇が私の唇に重なった。
ちゅ、と。
「ん……っ」
柔らかくて、温かくて、懐かしくて。それなのに、知らない大人の男の人のキスでもあって、私の体の芯が、ぞくりと震えた。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねる。
ちゅ……ちゅぷ……
「は……ん……」
唇の隙間から舌が触れて、私はおずおずとそれに応えた。五年分の距離が、舌先から溶けていくみたいだった。
「……二階、俺の部屋。来る?」
唇を離して、湊が囁いた。店の奥の階段を、目で示す。私は、こくんと頷いた。理性とか、明日のこととか、そういうのは全部、雨の音が押し流していった。今だけは、五年前に取れなかった手を、ちゃんと取りたかった。
二階は、シンプルで、彼らしい部屋だった。窓の外に、雨に煙る鎌倉の家並みが見える。湊は私の手を引いて、そっとベッドに座らせた。隣に座った彼の体温が、肩からじんわり伝わってくる。
「緊張してる?」
「……してる。五年ぶり、だもん」
「俺も。……鞠乃が嫌なら、やめる」
「やめないで」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。湊が、少し目を見開いて、それから、優しく笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより深くて、もっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
「ん……ふ……っ」
キスをしながら、湊の手が、私のシャツのボタンを、一つ、また一つと外していく。その手つきがあんまり優しくて、急かされないことに、かえって体が疼いた。雨で湿ったシャツが、肩からするりと落ちる。
「……きれいだ。鞠乃」
「やだ、見ないで……明るいよ……」
「見たい。五年ぶりだから」
恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が甘く締めつけられた。湊の唇が、首筋に降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
「ん……っ」
鎖骨に、肩に、彼の唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震える。ブラのホックが外されて、胸が彼の前にこぼれ出た。湊の大きな手が、それをそっと包む。
「あ……っ」
「柔らかい。……昔より、きれいになった」
「もう……いちいち言わないで……恥ずかしい……っ」
やわやわと、形を確かめるように揉まれて、私は枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「ここ、弱いの、変わってないな」
「……覚えてないでよ、そういうのっ……」
口では強がるのに、湊が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。彼の手が、唇が、私のことをちゃんと覚えていてくれる。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「力、抜いて。……痛くしないから」
その声に、自然と体の力が抜けた。湊の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。
「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、湊の指が、直接そこに触れた。
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……もう、こんなに」
「言わないで……っ♡ キスのとき、から……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、湊の指は優しい。敏感な突起を、指の腹でくるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
「うん。知ってる」
指が、ゆっくり中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中をゆっくり押し広げて、五年前と同じ場所を、確かめるように撫でる。
「ここ、だろ」
「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 覚えてるの、ずるいよぉ……っ♡」
弱い場所を指の腹で擦られて、同時に親指で突起を転がされて、私の腰は、もう自分の意思では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
「いいよ。イって」
「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に高みへ押し上げられた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。湊の腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。
「……イったね」
「……っ、言わないでってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、湊がそっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また泣きそうになった。
「……ねえ、湊」
「ん」
「私ばっかり、ずるい。……湊のも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。湊が、ごくりと喉を鳴らす。私はゆっくり体を起こして、彼のシャツに手をかけた。脱がせると、五年前より少し厚くなった胸板が現れる。働いてきた人の体だ、と思った。
湊が私をそっとシーツに横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
「鞠乃。……いい?」
「うん……っ。来て、湊」
「……つけるから、待って」
「……うん」
避妊具をつける彼を、私はぼうっと見ていた。ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さも、昔のままだ。準備を終えて、湊がもう一度、私の頬に手を添えた。
「いくよ」
「……優しく、して。五年ぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は彼の背中に腕を回してしがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうがずっと大きかった。
ずず……っ
「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
「……っ、鞠乃の中、すごく熱い」
根元まで収まって、湊がふっと息を吐いた。繋がった場所から、五年分の隙間が、じんわり埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
「……繋がってる。私たち、また、繋がってるね……っ♡」
「ああ。……もう、放さない」
「っ♡♡ そういうの、ずるいってば……っ♡」
湊が、ゆっくり動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸にぽつりと落ちた。
「鞠乃。気持ちいい?」
「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
「俺も。……ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が震えた。私は彼の首に腕を回して、自分から唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、五年前の私は知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
「ここ、好きだろ」
「っ♡♡ 好き……っ♡ 湊の、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でもわからなくなった。たぶん、どっちもだった。湊が私の脚を抱え直して、結合が深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
「鞠乃、中、すごい締まってる」
「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
雨の音と、二人の息と、肌のぶつかる音が、部屋に満ちる。私は、もう何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、五年分の想いが、体の奥から溢れてくる。
「鞠乃……そろそろ……っ」
「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
湊が私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 湊、一緒に……っ♡♡」
「ああ……っ、鞠乃……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。湊が、私の上で、はぁ、と大きく息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ♡ すごかった……」
「……鞠乃」
「ん……?」
「好きだ。……もう一回、ちゃんと言わせて。好きだ」
私は、もう我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら泣いた。
「……私も。大好き。五年も、遠回りして、ごめんね」
「お互いさまだ」
湊が、涙で濡れた私の頬に、何度もキスを落とした。
気づくと、窓の外の雨が、いつのまにかやんでいた。
雲の切れ間から、夕方の淡い光が差し込んで、雨に濡れた鎌倉の屋根を、きらきらと光らせている。私は湊の腕に頭を預けて、その景色をぼんやり眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。
「……ねえ、湊」
「ん」
「私さ、東京の仕事、辞めないよ」
「うん。辞めなくていい」
「でも、もう、選ばなくていいんだよね。どっちか一個、じゃなくて」
五年前は、仕事か、湊か、二つに一つだと思っていた。でも、今は違う。東京は、電車一本。会いたいときに、ここへ来られる。
「鎌倉、いいとこだよ。週末、紫陽花だっていくらでも撮れる」
「ふふ。撮りに来る口実、できちゃった」
「口実なんていらないよ。……いつでも、おいで」
私は、彼の胸に頬をすり寄せた。五年前の私が、どうしても取れなかった手。今、その手は、私の指にしっかり絡んで、もう離れる気配がなかった。
「ねえ。今度の詩集の表紙さ」
「ん?」
「今日撮った紫陽花の写真、使うんだ。雨の鎌倉の。……これ見るたびに、今日のこと、思い出すんだろうな」
「いい表紙になりそうだな」
「うん。……余白には、湊が入ってくる」
湊が、ちょっと笑って、私の頭にキスをした。
「下、降りよう。あったかいの、もう一杯淹れる」
「うん。……世界一おいしいやつ、お願いします」
私たちは、服を着て、二人で階段を降りた。からん、とドアのベルが鳴る。CLOSEDの札はそのまま。誰も来ない、二人だけの店。
雨上がりの空気の中で、湊が、私のためだけに、丁寧に珈琲を淹れてくれる。その背中を、私はもう、目で追うのを我慢しなかった。五年かかった遠回りの先で、私はやっと、自分が捨てたと思っていた手を、もう一度、握り直した。
カウンターに置かれた、湯気の立つ白いカップ。一口飲んで、私は笑った。
「……うん。やっぱり、世界一」
「また飲みに来て。……今度は、雨が降ってなくても」
「降ってても、降ってなくても、来るよ。決めた」
窓の外、雨上がりの鎌倉の坂道に、青い紫陽花が、夕陽を浴びて静かに揺れていた。
― 終 ―